YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson375
 無いものは伝わらない


とりたてていいことを言っているわけではないのに、
「なんか、この人の言うことは伝わってくる」
という人がいる。

反対に、

いいことを言ってるんだけど、
「なんか、この人の言うことは響いてこない」
という人がいる。

この差はなんだろう?

私は仕事がら、一般の人が話すのを
たくさんたくさん聞いてきたが、
この問いはなかなか解けない。

「伝わると伝わらないの境界はなんだ?」

このところ思っているのは、
「自分に無いものは伝わらない」
ということだ。

なんというか、
伝わらない表現になっている人は、
「いま、ここにある自分」には無い、
どっかよそにある、美しい、正しいことを、
言おうとしている、
そんな感じがする。

たとえば、
「自分の幸せより、他人の幸せ」
というような意味のことを言おうとする
心優しい人も、とても多いのだが、

どうしてか、
その言葉が響いてこない人と、
じんと胸に響いてくる人がいる。
この差はなんなのだろうと思う。

ずっと前にやったワークショップでも、
そういう光景を目の当たりにした。

ある男性は、
「他人のために」ということを力説していた。
ずいぶん言葉を砕いていたし、
格言を引用したり、
言っていることはもっともだ、
話も他の素人さんにくらべるとうまいほうだ、
でも、どうしてなのか、
しらじらとした空気になってくるのだ。

言葉がカラ回りしている。

「自分の幸せより、他人の幸せ」
というメッセージが、こっちに響いてこないし、
聞いているこっちも他人のためになにかしようという
気持ちになれない。

こういう推測をするのは、主観で、
ほんとに申し訳ないのだが、

その人は、いまはまだ、
「自分が他人を幸せにしている」と言える
段階になっていないんじゃないか。

その器でない者に、それを言うことはできない。

「いまの自分」にはない、
「願望」や「スローガン」は伝わらないのか……。

でも、いまの自分にはない「願望」を語っても、
とても伝わる人もいる。

学生が、いまの自分にない
将来のでっかい夢を語っても、
それが、とても伝わってくるときがある、

ほんとにそれを願っているからだろうな。

いま、ここにいる自分が、
心底望んでいる「願望」なら伝わる。

では、「自分の幸せより、他人の幸せ」
を力説していた男性にとって、
それは、心底の願望ではないということなのか?

スピーチのテーマにとるくらいだから、
その男性も「自分の幸せより、他人の幸せ」を、
とほんとに思っているのだろう。

でも、自分の経験から切実に出てきた
というよりは、
どこからか与えられたスローガンかもしれない。
その願望もたいせつなのだけど、
本音のところで、もっと強く、
もっとたまらなく願っていることは、
そんな美しいことより、もっと他にあるのかもしれない。

そういう美しいメッセージに到達するまで、
まだその人は、何段階かの過程を経ていかねばならない、
そんな立ち位置にいる感じがした。

私がそんなようなことをつらつら友だちに話したら、
その友だちが、

「有るものでなんとかする人間が一番強い」

というような意味のことを言ってくれた。
その友だちは、
松尾スズキさんの演劇のワークショップに参加したとき、
そんな意味のことを聞いたそうだ。

「有るものでなんとかする」

たしかに、プロでも素人でも、
私が心揺らす表現者は、いいかっこをしない人だ。

表現の教育をやっていると、生徒さんの中に、
「自分には言いたいことが無い」
「書きたいことが無い」
だから自分はだめなのかと不安になる人がいる。

何も無くてスッキリ! しているなら、
それはそれで、いいことだ。

でも、そこで、不安になったり、
一生懸命表現しようとしている人を
斜にかまえて見るのだとしたら、
もしかしたら、「書きたいこと」の意味を
取り違えているのかもしれない。

何か表現しなさいと言われて、
心の冷蔵庫をあける。

そこには、
カニもなければ、松阪ギュウもなく、
ただ、野菜の切れっぱしが貧相に点在しているだけ、
というときに、

フタをしめて見なかったことにするか、

どこか他人の、
あるいは遠いいつかこうありたい自分の、
冷蔵庫の中身を思い浮かべるか、

無いものは無いと認めてどっかから借りてくるか、

無いと認めて取りにいくか、

それとも「有るものでなんとかする」か。

見なかったことにすれば
表現のスタートラインに立てず、

素敵な他人や、いつかありたい自分を見ていれば、
言葉はどこか自分の身の丈をこえて、そらぞらしく響き、

借りてきたもので勝負すれば、
人が感動しても、それは自分の表現にでなく、
借りてきただれかの表現に感動しているにすぎないし、

取りに行ったら行ったで、
取材して得たものが血肉化するまで時間がかかる。

たいしたものが無くても、
私は生徒に、そこに有るもので勝負してほしい。
本人にとってありあわせのものが、
他人から見ると非常におもしろい、
そういうことが多々あるのだ。

「書くことが無いならそれを書こう」

と生徒に言えそうだが、
実際私も、2000年からいままで、
このコラムを書くにあたって、
何度か、書くことがなくて追いつめられたことがある。

それでも、いつも、
かならず何かしらみつかってここまできた。

だからこそ、
もしも本当に書くことが無くなったとき、
それをここに書けるか? 書くとしてもどう書くか?
と想像してみるとかなり生々しく、
かなりハードルが高い行為のように思う。
そう考えると、

「書くことが無いならそれを書こう」

とは、生徒に軽々しく言えない、
人によってはかなり恐いことのようにも思えてくる。

文章を書くとき、
人に何か言わきゃいけないとき、
何か表現しなくちゃいけなくなったとして、

心の冷蔵庫をあけて
たいしたものが見つからないときに、

あなたはいままでどうしてきたか?
どうしたいか?

もしも本当に無いとき、あなたならどうしますか?

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2007-11-28-WED
YAMADA
戻る