YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson376
 無いものは伝わらない 2


日常の会話の中でハッと気づく見栄。

きょうはまず、こんな読者のメールからお読みください。


<無い、は怖い>

ある人と環境問題について話したとき、私が
「数年前に毎年奄美大島にダイビングに行っていて、
 珊瑚が白骨化して死んでいき、
 海の風景が死んでいくのを目の当たりにした」
というような話をしたとき、

自分が思っていたよりも相手の反応が悪く、
相手に伝わっていない感じがしました。

その時は、新潟に住む祖父が
昔は新潟にもイルカがいたんだと言っていた話の方が、
相手に響いている気がしました。

今思えば、相手に環境問題の深刻さを伝えるよりも、
自分が貴重な体験をしたことを言いたいと言う
自己満足的な気持ちが強かったからかもしれません。

たいしたことが自分のなかにないとき、
私は、どこかで見た
借りものの良い言葉を言ってきたことが
多かった気がします。
時には嘘さえ言ったこともありました。

面接など自分を表現しなければならないとき、
私はそんなことを言って失敗してきました。
面接が終わった後は、
面接の時の自分は一体なんなんだ、
と自己嫌悪しながら帰ることも多々あります。

表現したいことが、全く何にもなかったら、
正直その場から逃げ出してしまいたくなると思います。
(読者 Aさん)



「自分に無いものは人に伝えられない。
 だから有るものでなんとかする表現が強い。

 でも、自分の心の冷蔵庫をあけて
 もしもなんにもなかったら、
 あなたならどうするか?」

そう先週といかけたら、いいメールがたくさんきた。

表現ネタにつまるなど、一部の職業人だけの苦しみか
と思っていたら、予想以上の人が、
「無い」怖さに直面している、
いまはどうもそんな時代らしい。

言いたいことも、書くこともなかったらどうするか?

読者の3人は言う。


<感動させることに必死になるとスベル>

伝わった時というのは、相手の反応を期待せず、
本当の自分をさらけ出した時だったように思います。

お笑いの世界でも、笑わせることに必死になると、
俗に言う“すべった”状態なる。

だから、発言する時でも
相手に感動させることに必死になると、
どこか不自然になり、本来の自分ではなくなって
思いが伝わらない。

私自身、心の冷蔵庫にたいした物がない時、
あるいは全くない時、
つい自分が思いつく限りの言葉を無理に並べて
相手に伝えることがよくある。
これでは、伝わらないのは当然、情けない。

「今の自分には伝えたいことがありません。」
と、正直に伝えたい。

しかしいつも“伝えたい”ものがあるのは素晴らしいこと。
絶対にこっちの方がいい。
私は情熱を注ぎ込める何かを、
いつも心の冷蔵庫にストックしておきたい。
(兵庫県NAOさん)



<無い、ほうがいい>

最近ブログと言うものを書くようになり
本当に心の中の事を表に出すというのは
大変な作業だなと思うようになりました。

ヨガでは、心とは
現象であってそれ自体が存在するものではない。
たとえば 波のようなもので
シケていだったり さざなみだったり
動いていれば 波は存在しますが
完全な「なぎ」の状態だと波は存在しない訳です。

書く事っていうのは
だいたい何かへの反応した気持ちだと思うんです。

書く事を探しに心の中を探すより
心を波立たせるなにかを外に探しにいかないと
書き続けるのは無理なのかな‥‥
って思いました

ヨガは心を「なぎ」に持って行くのを
目的としているそうです
仏教でいうと 無の境地でしょうか‥‥

私は「なぎ」の心になりたいです
「なぎ」の環境が欲しいです

言いたい事も 伝えたいことも 書きたい事もなくていい
ないほうがいい

心からそう思います
(Nさん)



<ほんとうに無い、か?>

24歳の男です。
就職研修会を思い出しました。
『自分を企業に売り込むスピーチをする』
という課題を出された時、

私は高校時代に部活も行事も本気で頑張ったつもりがなく、
得意分野(情報処理関係)の国家試験も合格出来ず、
何一つ自信がありますと言えるものがなかったので
こんな課題出来ないと言っていました。

自分に自信の無い事がこんなに辛いのか、
こんなに苦しいのか、
思い知らされた時です。
半分泣いてたような気もします。

スピーチの前夜、友人達と話をしていた私は
「自分より優れた奴が沢山居て同じ得意分野で
 自信なんかもてない!
 これからだって勝てる気がしない。
 自分より優れているやつが居て自信が持てるか?
 どんなに都合よく考えても自信を持てるほど
 自分は優れていない!」
と言いました。

友人達は
「同じように自分より下にも沢山居るのに?」
「自信の持てないお前の実力を羨ましく思ってる。
 得意分野は俺より優れてるからね。
 ただ、自分の得意な所では負けたくないよ」
と言っていました。

それから数年たって子供が出来て、
「色々経験させてやりたいと思ったけど振り替えると
 得意なこともなく教えてやれることが見当たらない‥‥。
 俺が生きてきた人生ってうすっぺらだな、何も無いや。
 ダメな父親だ‥‥」
と感じました。

けれど嫁さんからは
「博識で料理もお菓子も作ってくれる良い父親だよ」
って言われました。

心の冷蔵庫にはたいした物が入って無いのではなく
自分では入ってる物の価値に気付いて無いだけではないか?

今でも自分に自信はありません。

心の冷蔵庫はまだまだ空きがあって殆ど物が入って無い。

でも卵1個でもあれば
目玉焼きも卵焼きも作れる!
工夫をすればケーキだって作れる!
と自分に言ってやりたいです。
(オガタさん)


無いと思ったとき、
ほんとに無いのか、ほんとは有るか?
無いとしても、それが、いいのか悪いのか?

私が、そこに悩むのも、
いま大学で文章の講義を持っていて、
「書くことがない」という学生がいたときに、
思いのほか動揺している自分がいるからだ。

「書くことがない、それは平和でいいことだよ」
といってあげたい気もする。

書くことがたくさんある人の多くは、
苦労や傷をたくさん負い、
それを変換させて果敢に文章に臨んでいる。

「書くことがない、ならそれを書こう」
といってあげたい気もする。

でも、どうも落ち着かない。
自分自身が、「書くことがない」ということに対して、
決着がついていない。だから動揺するのだ。

「ありすぎても無いのと同じ」と、
読者のトモコさんは言う。

私の心の冷蔵庫は、
いま、ぎっちりいろんなものが詰まってて、
何が入っているのか分からない状態です。
これも、「何も入ってない」と
同じことなのかもしれません。

冷蔵庫の大掃除って、
とにかく手前にあるものからどんどん取り出して、
賞味期限を確認して
その古さにびっくりしながら捨てていく‥‥
という行動ですが、
今、私もそんな作業をしています。
(トモコさん)


そんなこんなでいろいろ思い直しても、

「書きたいことがなにもない」という学生に、

「それはいいことだ」
「それを書こう」
とイメージしては、どうも違う、と思う私は、

どうも、心の底で、
「書きたいことがなにも無い」という状態は、
よくない、とおもっているのかもしれない、と
気がついた。
だって学生の言葉に動揺しているんだものな。

ちょうどそう思ったところに、
ほぼ日の編集者さんから、
「深夜、ほぼ同じタイミングに
 同じ結論の2人の読者からメールが届いた!」
と転送されていた。

読者の中に、実際にいた!
心の冷蔵庫を開けて、なにも無いとき、
「書くことがなにもない」
とほんとうに書いた人が! 2人も!

私の考えは、いずれ述べるとして、
きょうは、その2人の体験を、
考える題材として紹介して終わりたい。


<目的化してしまった、さらけ出すこと>

小学校での授業で作文の時間が嫌いでした。
何か時間内に心の内を表現しなければならない
という制約がとても苦手でした。

ある日、それでも書かなければならなかったので
「作文」という題名にしました。
なぜ書けないか、書けない自分をどう思うかという事、
それ自体を書いて先生に提出したら、
「やっと自分をちゃんと表現できたね。」
と誉められました。

でも、今思えば失敗でした。
書けない時に、書けない自分を表現すると、
あまりに赤裸々になってしまうといいますか。

そのテーマの選択は
「いい事を言うには、もう全てをさらけだすしかない。」
という極端な開放に身をゆだねる事である気がします。

この場合、表現しているのは「無防備さ」であって、
受け止める先生は誉めるしかなかった気がします。

同じような場面をよく見ます。
テレビで、テーマは「命」とかで、
ゲストが涙ながらに作文を読むような時、
もう恥ずかしくて見ていられなくなります。

「いい事を言うには、さらけだすしかない。」
という状況に追い込まれて、
むやみに内面を開放させる人は、たぶん、
あとで後悔しているのでは無いでしょうか。

だから何かイイことを言わなければならないような
状況に置かれた時は、率直に
「思いつかないので時間を下さい」と言うか、
対話形式に持ち込んでしのいできたように思います。
(30歳男性)



<これはわたしの書きたいことではない>

小学校の頃、国語で「詩」の授業がありました。

「何を書いたらよいのか、わからない」と
長い間悩んでいた私に、先生は
「その気持ちを書けばいいよ」
とアドバイスしました。

そして

わたしがようやく書いた詩はこんなものでした。
(うろおぼえですが)

「何をなやんでいるのかわからない。
 わからないけれど、もやもやする
 わたしは
 何をなやんでるんだろう
 それが、いま、わたしがいちばんなやんでいることだ」

先生は、すごく納得した顔で
「この詩を書いて、すごくすっきりしたでしょう」
と言ってくれたのですが、
私はずっと腑に落ちませんでした。

これは
わたしの書きたいことではない

ほめてもらったのに
とても寂しい気持ちでした。

わたしは確かに、
そのとき
書きたいことが見つからなかった。

けれど、

わたしの中に、
書きたいことが存在していない わけではなかったと思う。

少なくとも
書きたいことが見つからない事実を
書きたかったわけではなかった。

わたしは
書きたいことがない という事実と向き合わずに、
書けることを書いてお茶を濁したのだ

そう思うのです。

>「書くことが無いならそれを書こう」
>とは、生徒に軽々しく言えない

とズーニーさんは言いました。
わたしなら、「書くことがない」人に、何と言うだろう。


「見つかるまで 探して」


それ以外、ない気がしています。

(まきこ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2007-12-05-WED
YAMADA
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