おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson377 無いものは伝わらない 3 以前、沢尻エリカさんを応援するコラムを書いたとき、 読者からこんなメールが届いていた。 きょうは、まずそれからお読みください。 <表現者の強さ> 沢尻エリカさんの自分の弱さから目を背けずに 真っ正面からぶつかっていく姿勢こそ、 「表現すること」の真髄なのではないかと思います。 表現は、とかく美しい高尚な行為のように言われることが 多いように感じます。 しかし、「表現すること」は痛みを伴う、 厳しくて泥臭いことだけれども、 それを通して見えてくるものは 「強さ」なのだということを、 僕は沢尻エリカさんを見て感じました。 何かしらの確固たる信念を持つ「表現者」の強さに、 僕は憧れています。 (匿名の読者より) 「表現はそんなきれいなものじゃなく、 表現者もまた弱い、しかし、 弱さから目をそむけないとき それは強さなのだ」 という主張に、じーんとした。 表現が、ごくごく一般の人にとって 切実な問題になっている。 「話すとき、書くとき、 心の冷蔵庫をあけて、なにもなかったら あなたならどうするか?」 いわゆる<書くことがない問題>への 読者の応答メールが活発で、いい。 書きたいことがみつからない、 今の私もそうです。 川柳を作っていますが、 心の中のもやもやしたものを吐き出し、 17文字にすることで 心の平静を保ってきたところもありました。 足を痛め無理のきかない体になってみてこれが今の私、 と開き直って気が楽になってきたら まったく川柳が浮かばなくなりました。 自分を受け入れ割り切ったことと関係あるのか? とずっと考えています。 (まち子) 昨年の転職活動での課題で、 「最近感動したこと」というテーマの作文がでて、 振り返って心をのぞいてみても、何もなかった。 焦りました。 そもそも自分は 感性が鈍い人間なんじゃないかと悩みました。 考えあぐね、 「感動したことを探し続けたけど全然見つからなくて、 ふと視線を上げたらみずみずしい春が来ていた」 という青い鳥みたいな話を書きました。 あらすじだけ書いても、なんか、さむい。 そのうえ試験で求められていることからズレた。 最悪の選択をしたと思います。 今でも、そのスベッた感じが思い出され、 冷や汗がでます。 あのときほんとは どうしていたらよかったんだろうと考えます。 先週のまきこさんの、書くことがないという生徒には 「見つかるまで 探して」 と言うというのは、 僕はこの難しい問題の かなり有効な答えなんじゃないかと思います。 (maskat) 63歳の元セールスマンですが、 お客に、まず、何を切り出すか、 その第一声のことばに気を使う。 この場合、話すことが、何も無いでは通りませんから、 自分で考え出します。 それを自然体でできる人もいますが、 へたなら、どうしたらいいか、一生懸命になる。 書くことが無い場合、 先ず、第一に教室の勉強の目的は、 「書き方の練習」ではないでしょうか。 (ひまわり) よく目を凝らしてみれば 冷蔵庫の奥には冷凍庫があって、 そこを開ければ色々なものが凍ったまま眠っている。 (S.N) 「書きたいこと」は、 自分から外へ出てくるのに、時期がある。 赤ちゃんが、10ヶ月、おなかのなかで外に出てくるのを 待っているように。 「書くことがない」のなかにも、 妊婦さんと同じように、 “命が宿っているけど、本人は気づいていない” “存在には気づいているけど、まだ実感がない” “まだ、具体的に姿をイメージできない” “だんだん、姿がはっきりしてきたぞ” “いよいよ、外の世界へ!” と、いろいろな段階があるのではないか、 (さおり) 留学生に日本語を教えています。 「書くことがない」と言われたら 私に対して伝えたいことがないんだな と思うことが多いです。 彼らの友人や家族に対して伝える言葉なら あるかもしれないし、 ごく限られた心を許した人以外には 伝えたくないかもしれません。 「書くことがない」と言う学生には 「あなたの国のことを知りたい。紹介してほしい」とか 「日本での生活で忘れられない経験ってある?」 こちらからコミュニケーションを持ちかけ、 一部でも関係が成立してはじめて 伝えようという気持ちを持って、 書き始めてくれるのではないかと考えています。 (マンゴスティン) 今回のテーマは、とても心を揺さぶられました。 >書きたいことがないという事実と向き合わずに… まきこさんのメールの言葉に、わたしも同感です。 「書くこと」自体が、 自分の内面を外に出してしまうから、 「書きたいことがない」ということは、 自分の中にある(でも気づかない?何か)を 見ようとしていないと思えます。 自分と向き合わないから、 「書くことがない」のかなあ‥‥と。 だから、 >(自分が)見つかるまでさがして というまきこさんの言葉がとても心に響きました。 自分の中にある“何か”を探しながら、 人は書くのかもしれませんね。 (ペンネーム:りーぼー) 一般の人も生きていく上で表現をしなければ 存在すらも認めてもらえない時代。 でも、いまだに私たちは表現において、 決め手となる教育をほどこされておらず。 まるで、走り方も筋肉のトレーニングもほどこされず フルマラソンのコースに送り込まれるランナーのようだ。 無い技術と筋肉、弱い体で 工夫したり、傷ついたり、へこたれたり、 最後まで走り続けられるのはだれだろう? 表現の教育をしていて、 また、私自身が表現するときに、 どうもそぐわない言葉がある。それは、 「さらけ出す」 という言葉だ。 どうも私は「さらけ出そう」としている人と 誤解されがちだが、 私自身、できれば「さらけ出す」ことを しないで書きたいし、 生徒にも、できれば「さらけ出す」ことをさせたくない。 人の「さらけ出したもの」にもあまり興味がない。 それでも痛みを伴いながら、 人に知られたくも無い自分の弱さや恥を、 「さらけ出した」ととられてもしかたないようなことを たびたび私は文章に書いている なぜなんだろうか? 先週、「さらけ出す」ことについて 2人の読者のこのようなメールがあった。 伝わった時というのは、相手の反応を期待せず、 本当の自分をさらけ出した時だったように思います。 お笑いの世界でも、笑わせることに必死になると、 俗に言う“すべった”状態なる。 だから、発言する時でも 相手に感動させることに必死になると、 どこか不自然になり、本来の自分ではなくなって 思いが伝わらない。 (兵庫県NAOさん) 小学校での作文の授業で なぜ書けないか、書けない自分をどう思うかという事、 それ自体を書いて失敗でした。 書けない時に、書けない自分を表現すると、 あまりに赤裸々になってしまうといいますか。 そのテーマの選択は 「いい事を言うには、もう全てをさらけだすしかない。」 という極端な開放に身をゆだねる事である気がします。 同じような場面をよく見ます。 テレビで、テーマは「命」とかで、 ゲストが涙ながらに作文を読むような時、 もう恥ずかしくて見ていられなくなります。 「いい事を言うには、さらけだすしかない。」 という状況に追い込まれて、 むやみに内面を開放させる人は、たぶん、 あとで後悔しているのでは無いでしょうか。 (30歳男性) さらけ出したほうがいいのか、 さらけ出してはだめなのか、 一見この二つを、矛盾と思った人もいるかもしれない。 でも、私から見ると、この二つは同じ、 表現において重要なことを言っている。 表現教育の現場で、 ときに生徒さんが、 悲痛なご自身の経験を話されることがある。 でも、どんなに悲痛な経験を話されても、 聞いた後が爽やかで、前に向かった力をくれるものと、 聞いているほうがなんとも嫌な感じに苛立つときがある。 「いいことを言おうとしてむやみにさらけ出そうとする」 そういう人も確かにいるのだ。 とくに自分の前に表現した人が、 結果的に 「自分をさらけ出して感動を呼んだ」ようなときに、 「私も‥‥」「私も‥‥」と、 ウケを期待して、あるいは、単にマネをして、 自分のつらい経験や想いを むやみに言おうとすることがある。 こういうとき、 「伝わらない」ということが続出しやすい。 伝わる人は、 「さらけ出す」のが目的でなく、 やむをえずさらけ出すことも辞さないで、 「何かを言おう」 としているのだ。 同様に、 「経験を」書くのでなく、「経験で」書くのだし、 「技術を」書くのでなく、「技術で」書くのだし、 ウケようとして書くのでも、 いいことを言おうとして書くのでもない。 「もっと大切な何かを言おうとして」人は書く。 経験を持ち出したり、 技術を駆使したり、 ときにさらしたくもない恥をさらしてまで書くのだ。 じゃあ、その「大切な何か」っていったい何? ということになる。 いま、自分の力ではそれを言語化できない。 それはもう、言葉にできないものじゃあないかと思う。 指導するときに仕方がないので、 それを<メインテーマ>とよんでいるが、 テーマというと、どうしても生徒に、 かっちり、しっかりしたものだと誤解されやすい。 でも、私がここでいう<メインテーマ>とは、 人から見てささやかでも、ちっぽけでもいい。 言葉にできないような もやもやしたものでもぜんぜんいい。 冷蔵庫にたとえると、 そこにはいっている食材が、 カニだとか牛肉だとか、 野菜の切れっぱしだとか、そんなことではなく、 たくさんつまっているか、すくないかでもなく、 それらは、素材でしかなく、 言ってみれば、その素材を見るまなざしそのものに近い、 これでもうまくたとえられていないが。 そのまなざしが「面白い」か、「面白くない」かは、 書くと残酷なまでにはっきりする。 そのまなざしが「面白い」人は、 冷蔵庫の中にほとんど何もなくても人を惹きつける。 経験や、技術や、素材や、 恥まで持ち出しても書こうとする、 「大切な何か」 これが、つまるところの 「書きたいこと」なのだろうと思う。 だから「書きたいことがない」というのは、 単に素材がないということでなく、 まなざしそのものが生きてないか、つまらないか、 その人の尊厳にまでかかわっていく問題だと思う。 だから「書くことがない」と生徒に言われたときに、 安易に「ない」と認めて、先に進んでしまうことが、 よくないんじゃないかと私は思う。 書くことはある。 あなたのまなざしは生きているし、つまらなくもない、 ということを、何とかして引き出していくのが 自分の仕事だと思う。 でも「さらけ出す」手段と 「大切な何か」を出すという目的は とってかわられやすい。 プロでも難しいから、 訓練してない素人にはさらに難しい。 それに、ただ「無駄死に」ということもある。 どういうことかというと、 無意識にでも、「大切な何か」を書こうとして、 書いて、書いて、しまいには、 人に知られたくないことまで 自分の恥まで、持ち出して さらけ出すことが嫌いな人間が、 さらけ出してまで書いて、 それでも、「メインテーマ」を 浮上させることができず。 ふたをあけてみれば、 何も伝えられず、ただ恥をかいただけ、 というようなことが、私にもあるのだ。 だからこそ、 自分の弱さから目を背けずに 真っ正面からぶつかっていく姿勢こそ、 「表現すること」の真髄ではないか。 表現は、とかく美しい高尚な行為のように 言われることが多い。 しかし、「表現すること」は痛みを伴う、 厳しくて泥臭いことだけれども、 それを通して見えてくるものは「強さ」なのだ という匿名さんの言葉に私は勇気づけられるのだ。 書くことがなにもないときに、 あなたならどうしますか? |
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2007-12-12-WED
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