YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson379
 無いものは伝わらない 5


「書くことがない」ときにあなたならどうしますか?

私もこのコラムを7年半書き続けるなかで
何度かそういう想いにとらわれたことがある。

ちょうど最初の本を書き上げて
しばらくたったころのことだ。

「書けない。」

締め切り日の朝から、
書いては消し、書いては消し、
3パターンくらいの方向性で、
出口を見出そうとトライしたが
いっこうに書ける気がしない。

「枯れたんだろうか?」

恐怖が襲った。

生まれて初めての本を書き上げた直後は、
どうしてか、すこぶる快調だった。

自分の中での好調が何週かつづいたあと、
ぱたっ、と書けなくなった。

それでも時間内に
どうにかこうにか原稿をカタチにしたが、
自分でもこんな原稿、まったくいいと思えない。

締め切り時間がきて、
途方にくれ、
編集者さんに電話をした。

「朝から3本書いたがどれもだめだった。
 それでも締め切りがきたから1本カタチにしたが、
 自分でもつまらない。
 いっこうに書ける気がしない‥‥」

つまるところ、
「枯れたんじゃないか」というようなことを
私は編集者さんに言ったと思う。

そのとき、編集者さんがこう言った。

「山田さん、
 本を1冊書き上げられた後なんですよね。
 さぞ、ご自身の文章を観る基準も
 厳しくなっていることでしょう」

その瞬間、はっ、と何かがはじけたような気がした。

「自分の文章を観る基準が高くなった」

と仮定してみると非常にしっくりいった。
なにしろ最初の本だ。
無我夢中で書く、だけの生活で、
7ヶ月の執筆期間が終わるころには、
自分のスケールの中で
最初のころから格段の進歩があった。

自分はもう出しつくして枯れたかと
無用感をつのらせていたけど、

文章はだめになってるわけじゃない。
むしろ初期よりいい、
見る目が厳しくなってるだけなんだ!

そう思ったら急に書けるような気がしてきた。
編集者さんはさらにいった。

「このところ、いい読者メールがきてますよね。
 山田さんの読者とのやりとりもいい。
 そういうことを書いたらいいんじゃないか」

締め切りを待ってもらい
朝出した原稿は、
自分でも「書けた!」という感動があり、
編集部にも、読者にも、ものすごく伝わっていた。

「書く」ことがないとおもうとき、
自分をとりまく世界の「読み書き」が
うまくできてないんじゃないか?

ここ何週かにわたって、
「書くことがない問題」に、
読者からすごくいいメールがきて、それを読んで
あらためてそう気づかされる。

はじめのころNさんの言った、
「書くことがない」状態は、
冷蔵庫にものが無い状態ではなく、
たとえていうなら「波」、
何かに「反応」して波は波立つのだから、
「反応がない状態」ではないか、というのは名言だ。

今週も、こんなおたよりが来ている。
まず読んでほしい。


<もらえ>

「書くことがなにもないときに、あなたならどうしますか」
若い頃、新劇と呼ばれるジャンルの芝居を
やってたことがありまして、
スタニスラフスキーシステムというメソッドの
考え方に触れました。

その考え方とは「まず、感情ありき」。

たとえるなら、悲しい芝居は、
登場人物が抱いている感情(悲しい)を
俳優が、事実、抱くことに始まる、ということでしょうか。

自分のうちに悲しさが無いとき、その芝居は嘘になる。

そう、「自分に無いものは人に伝えられない。
だから有るものでなんとかする表現が強い」
という前提とおなじ考え方なんですね。

余談ですが、伝統的な演劇では
美しく完成された「悲しみの型」の演技があり、
俳優は「型」を美しく完璧に再現することで
芝居が成立します。
いわば、上手な嘘。

しかし才能ある俳優は、
取っ掛かりが嘘であろうと事実であろうと
関係ありゃしないのですね。
演劇の神様に選ばれたひとたちは、
どんな手法であろうとも、
リアルな「悲しみ」を
強く強く観客の胸に衝きとおしてしまうのです。

さて、才能の無い俳優(=私)は
「事実」悲しくなろうとして、
「悲しかったときのさまざまな五感の記憶」を自分の中から
引っ張り出そうと必死でした。

時には自分の内側が枯渇したかのような気持になりました。

体は皮一枚で存在していて、中身は空っぽ。
相手役も観客も無視して、
その空っぽな内側を必死で探していました。

時には感情はフルフルなのに
表現に昇華できないこともありました。

本当に悲しくて泣きながら台詞を言っているけど、
その台詞は私の内側で止まり、観客のところに届かない。

そのときの私は、相手役も観客も拒絶して
自分の悲しみとだけ向き合っていたのでしょう。
演出家はよくこう言っていました。

「相手役から貰え!」

表現とは、あくまで相手あってのもの。

たとえ「自分」を表現したいとしても、
それは相手と関わるいま、
このときの自分を表現すること。

相手役を見て沸き起こる小さな反応、
小さな感情、小さな想い、
それが、いまの自分が持っている「事実」。

なにもかも自分発、
自分でゼロから生み出そうなんて無理なんだ。

だから、自分の内側はからっぽでも良いんだ、と思います。
何もなかったら、貰うことに集中すれば良いんだと、
思います。
(アキ)



これまでたくさん文章を審査してきた私は、
「条件違反にすごいものなし」という経験則をもっている。

たとえば、
「最近感動したこと」というテーマが与えられて、
その条件をまもらずに、
「書くことがない」とか、
「自分は文章を書くのが苦手だ」とか、
「そもそもこの問いに何の意味があるのか」というような
書き出しをする答案に、
一見、型破りの天才がいるかと期待するのだが、
そうでないことがほとんどだ。

おもしろい!と思う文章はきちんと出題者の意図・条件を
まもった上で、自由に書いている。

「書く」ということは、
正確には「読み書き」なのだと私は思う。

出題をした相手や、自分をとりまく対象の
「読み書き」。

「相手も無いものは受け取れない」
これも読者が教えてくれた名言だ。

私たちが日常で書く文章のほとんどは、読み手がいる。

例外として、
孤高の芸術家が人を超越したものを目指すとか、
ずっと人や社会のために書いてきた人が
「これからは他のだれでもない自分ために書く」
というような場合をのぞいて、

われわれ一般人が書く文章には、
入試の小論文でも、入社試験の課題でも、
文章スクールの練習課題でも、手紙でも、
かならず、読む人間がいるし、
なんらかの意図があって、書くことが求められている。

例えば、広告業界の入社試験で、
「最近感動したこと」が求められたとしたら、それは、
「感動したことがないような人間はだめじゃないか」と
説教されているのでもないし、ましてや
「あなたは感動できない人間性じゃないか」と
疑われているのでもない。

ひとつには広告に必要なコミュニケーション力をみたい。

自分が感動したささやかなことでも、
自分以外の人間に、わかりやすく、おもしろく
説明して伝えることができるかどうか?
読む人のことを考えているか?

そのように、
乱暴にいうと出題者は、
「最近感動したこと」を知りたいわけではなく、
「最近感動したこと」で、
広告の仕事をやっていく意欲・適正を選抜したいのだ。

そこで「書くことがない」という気持ちにとらわれると、
関心が内向き、「自分探し」のベクトルにはまりこんで、
出題した相手のことを考えない、
自分をとりまく状況を見てないということになり、
読み手はおいてけぼり、だからあまり読んで
いい気持ちはしない。

書くことがないなら、
「自分が文章を書く、その読み手は、
 これから一緒に広告業界をやっていく人材を
 求めているのだな」
と考えて、自分がなぜ広告を目指したのか、
どのくらい意欲や関心があるか、
ぜひ自分は広告業界で働きたいのだ、
ということを、どうやって読み手に伝えよう?
と考えていけば、その過程で、
「そういえば、最近あのコマーシャルに心が動いたな」
など小さな感動がみつかるかもしれない。

書くことは、自分と向き合う作業で、
思わぬ自己発見をすることがあり、
それゆえに「自分探し」と混同されやすい。

でも書くことは自分探しの道具ではない。

書くことはつねに外に向かった行為だ。

少なくとも私はそう思う。
書くことが求められているとき、

この環境とコミュニケートできるか?

通じあえるか?

というようなことが求められていると
私は思う。

自分の置かれた環境に、なんとか、切り口をみつけ、
自分の外を読み、つながりをつけ、自分を出して、
通じ合えるか?

最初の本を書いて、
自分の文章を観る目が厳しくなっていた私に、
必要だったのは、
書いて、自分の目を納得させることではなくて、

見る目が肥えて、それゆえ自分を肯定できない、
それゆえ編集者とも、読者ともつながれない自分を
どうブレイクスルーするか、ということだった。

最初の本を書き上げて、目だけ肥えても
なかなか技術はあがらない、
そんな自分が、一瞬にして劇的、飛躍的に
基準に見合う文章を書くことではなく、できるわけもなく

へこへこの自分が、へこへこのままで、
いかにこの環境と通じ合うか。
そのとき書いたテーマはまさにそういうテーマだった。

ふたをあけると、
「多くの悩みを抱えた自分を、
与えられた環境にどう通じさせていくか」ということには、
たくさんの読者が関心があった。
だから響いたのだと思う。

書くことは外に向かった行為。

経験の量を披露したり、競ったりする競技でもないし、
スキルを披露する競技でもないし、
感性のよさを披露する競技でもない。

感性がどんなによくたって、
それを陳列し、みせびらかすだけの、
感性の商人になってしまったら意味がないのだ。

この環境と通じ合えるか?

そのときに、
自分にないものでは勝負できない。

冷蔵庫に素材が豊富な人も、
素材はとぼしい人も

その環境で生きていかなくてはいけないのは
「自分」だからだ。

自分にないものは書けない
書いても伝わらない。

「書くことがない」と生徒がいうとき、
「自分は意味の無いつまらない人間ではないか?」という
不安や劣等感がつきまとう。

自分は意味の無いつまらない人間ではないか?

自分もそこから脱却できてないから
そういわれるとざらつく。
でもそれをみつけるのが「書く」ことではない。

何とかこの環境とコミュニケートできるか?
通じあえるか?

自分を探すのは、自分で、
一生かかってやっていかなければいけないことだけど、

自分がつまらなかろうが、
高級だろうが低級だろうが、そんなことはいい、
自分として、その環境と
どうにか通じていかなければいけない。

「待ってる人がいる」

書くことがない、という生徒に、
私はたぶん、そういう意味のことを言いたいのだと思う。

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2007-12-26-WED
YAMADA
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