おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson384 おかんの戦場 先日、祖母が102歳の大往生をとげた。 故郷にもどると母が、 風邪をひいていた。 母にとって、祖母はお姑さんになる。 「おかんは体調わるそうだなあ」、 とは思ったのだが、 夜中にもどった私に、 「ふろはどうするん?」とたずね、 そろそろと、ふろをしはじめたし。 冷蔵庫から、がさごそと ありあわせの飲み物やお菓子をもってきて くれたので、さほど心配していなかった。 ただ、母はこういうもてなしを けっこうきちんとやる、 けど、そのとき、袋ままもってきたお菓子は、 本当にありあわせとしか言いようがなく‥‥、 買い物にもいけてないようだし、 そうとう疲れているのかなあ、と思って、 聴けば、 「病院で点滴を受けてきた」という。 私なら、とても起きてはいられない状態だ。 「またもや病気の母に世話をやかせてしまった‥‥」 5年前の正月がよみがえる。 そのとき、母は腰が痛い痛いといっていた。 あまり痛いので病院にいったが何でもないと言われたと。 それでも、暮れの大掃除から買い出し、 正月のお客さんたちへの、お料理、もてなしと、 母がだれよりも忙しく、立ち働いていたので、 さほど心配していなかった。 ところが後日、MRIという精密な機械で検査をしたら、 やっぱり腰の小さい骨が折れていたのが見つかった。 母は即入院、ギプスをつけて絶対安静。 骨折している母に引いてもらった布団で寝、 骨折した母がつくった鍋を食べて、 自分は寝正月を決め込んでいたのかと思うと 気が遠くなった。 「おかんは、どうしてそんなにがんばれるのか?」 私だったら、痛くてとてもがんばれない、 というか、がんばろうとさえしないだろう。 「腰が死ぬほど痛いから」と、寝込んで、 用事は家族にやってもらう。 それで何にも問題はない。 気にいるようにやってくれないと、 痛さと不安であたりちらす、 私なら、そうなる。 がんばっているというより、 自然に体が反応してしまう、 母を見ているとそう思う。 この日も、祖母のお通夜をつとめたあと、 病院に駆け込んで点滴を打ってもらい、 夜更けに戻った娘に風呂をわかし、 腹がすいてないかと心配までしている。 自分のことより、まわりの人のことに先に目がいく、 世話をしようと思う前に、もう手が動いている。 それは姉にも感じる。 4つ上の姉は、地元で結婚し、 2人のこどもをりっぱに育ててきた。 母も姉も家族のために人生を捧げてきた。 私ひとりが、東京に出て、 「やりたいこと」とか、「自己実現」とか、 こどもも生まず、好き勝手をしている。 その自分の生き方に後悔なく、 だれに文句を言われても、言い返す自信があるが、 ただ、母や姉にむかったときだけ、 自分は人間として、女として、 なにか決定的にまちがっているんじゃないか? と、 ぐらぐらするような感覚になる。 この日も、ひと足さきに帰った姉が、 さりげなく、すかさずすっと手がでるようにして、 母をかげで助けていた。 田舎の敷居をまたぐと、 自分は、とたんに役立たずになる。 ふだん仕事人間で家をあけ、たまに家にいる男のようだ。 もしくは、職場で気の利かない新人のよう、 母を心配するものの、手が出せず、足腰立たず。 母も姉も、こどもを育ててくるなかで、 風邪をひいたとか、熱がでたとかで、 休んでいられる状況ではなかったろう。 かたときも待ってはくれない、自分以外の存在のために、 毎日毎日、目を配り、心を配り、手を差し出し‥‥、 その積み重ねが、 こんなに自然で優しい行動、強くて温かい人格に なっていったのだなあ。 かなわない。 ひとりぐらしの気ままな自分の日々を思い、 打たれるような思いがした。 ふだん、仕事にかまけて見ないようにしていたものが、 どっと押し寄せるのはこんなときだ。 自分は仕事をがんばってきた。 でもそれだけでいいのか自分? 葬式の当日。 途中からだれの目にも明らかに、 母は気分が悪くなってきた。 姉はすかさず自分のひざかけをとって、さっと 母の肩をおおい、 隣りにいた、いとこのお姉さんが、 母の背中をずっとさすりつづけた。 またもや見守ることしかできない私は、 きのうからずーっと、 その理解しきれない思いを抱えていた。 「母はどうして、こんなにがんばるのか?」 昔の人は鍛え方が違うとか、 母は強しとか、 あれこれ理由を考えても、いまの自分には正直 わかりきることができない。 熱がでても、骨が折れても、 愚痴も言わず、不満も言わず、 自分がやりたいこととか、自己実現とか、 そういうことではないことに対して、 がんばる母の、がんばれる母の、 意味が自分には理解しきれない。 それでも葬式が済んだら、 母を病院に連れて行こうと決意していた。 七十をとおにこえ、心臓の弱い母が、極寒のなか‥‥、 と考えると怖くもあった。 葬式のあとにも、いろいろとすることがあるのは わかっているけれど、 祖母には、子、孫、ひ孫、玄孫、それからその家族と、 人手はたくいさんいる。 見るからに苦しそうな母ひとり、そこで抜けて、 病院にいったとしても、だれが母を責めようか。 ところが、「そういうわけにはいかんのんじゃ」、と 母は、静かにきっぱりと、 たった一言で私の申し出を制した。 私はふだん言い出したら利かない、口では母に負けない。 「見ている人のほうが気が気がじゃない」とか、 説得のリクツも、あれこれと考えていたが リクツは力を失い、それ以上踏み込めなかった。 姉も、まわりの人も、だれも母を止めなかった。 それくらい、母の姿には威厳があった。 これが仕事の後輩なら、いかようにでも説得して 引っ張ってでも、病院に連れて行っただろう。 「母はどうして、ここまでがんばれるのか?」 母は結局、初七日が済むまで、 点滴をうちながら、つとめとおした。 東京に戻りつつ、私はその不可解な、けれど 決して軽視できないものをずーっと抱え、考えていた。 わかれない私は、 「では、自分が点滴を打ってまで やろうとすることは何だろう?」 と考えてみた。 私は根っから丈夫で、いままでにそんな経験はない。 でも想像してみて、仕事だったらやる、 と間髪いれず思った。 たとえば「講演会」なら講演会で、 大勢の人が待っている、私がいかねば、とおもったら、 骨を折ってズキズキ痛んでも痛み止めを打って、 高熱が出ても点滴を打って、 私は行くだろうし、 そこに不満も愚痴も言わないだろう‥‥、 と考えて、はっ、とした。 おんなじだ。 自分にとっての締め切りや講演と、 母が、ごはんを炊いたり、 風呂をしたりするのは、同じだ。 と思ったら、いままでの母の行動に対する 不可解なかたまりがみるみる解けて腑に落ちる気がした。 私は、仕事が自分の居場所だ。 そこは戦場のように厳しい場でもあり、 自分が試され、努力が求められ、待つ人がおり、 結果が厳しく問われ、自分は何か、 アイデンティティにかかわる 抜き差しならない場だ。 仕事から家にもどってくると、 戦場からもどる兵士のように 自分は緊張感をとき、だらだらになってしまうのだけど。 おかんにとっては、その家庭こそが、 抜き差しならない戦場なんだ、と気づいた。 自分の能力や人間性が、試され、求められ、 待つ人がおり、責任があり、結果が如実にでて、 歓びもそこにある。 アイデンティティにかかわる居場所‥‥。 私にとっての講演の壇上が、 母にとっての家庭生活そのものだ。 自分が東京から疲れて帰って、 弛緩しきって実家にもどって、 スイッチ・オフにしているときも、 母にとって、そこはオフなどではなく本番。 母はそこで「生きて」いるのだな、と思った。 そう思ったら、いままで、仕事人間とか家庭人間とか、 妙に申し訳なかったり、 妙に歯が立たなかった母への想いが、 どこかですこし、同志のような、つながる感じを覚えた。 これまで、おかんが、 「ごはんなにたべる?」とたずねるのが、 ときにうっとうしいと想いつつも、どこか軽視できない 重みのようなものを感じていた。 これからは、もっとたいせつに答えられるように思う。 |
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2008-02-06-WED
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