おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson386 自己PRの視点 自己PRって、むずかしい。 就職にしろ、日々の仕事のシーンにしろ、 自分のいいところを、自分で伝えないと、 なかなかわかってもらえないご時勢なのだけど、 ふだん自分を売り込むことに慣れてない私たちは、 妙に自慢たらしくなったり、 せっかくの長所を言いそびれたり。 そこで今日は、就活などで効く 「伝わる自己PRのポイント」を考えてみたい。 よく、「自分には華々しい経歴がない、 だから自分は自己PRがだめなんだ」 という人がいる。あれは本当だろうか? 私は仕事柄、さまざまな大学に行くのだけれど、 まず、華々しい経歴の持ち主も、 ばんばん落とされているという現実を見る。 この売り手市場の就職戦線でもだ。 いわゆる世間的に名の通った大学で、 海外経験や、部活での目に見えた実績など、 就職には苦労しないだろうと思える経歴の持ち主でも、 次々と面接で落とされ、 書類選考でも落とされている現実がある。 また、私は昨年度から 就活のエントリーシート模試の審査を させてもらっているのだが、 採用担当の目になって、真剣に、切実に、 「自分は本当に、この人と一緒に働きたいかどうか」 「自分だったらこの人を採るかどうか」と 何百という学生の自己PRを見ていくときに、 「華々しい経歴」は、あっても、なくても、 それが合否の分かれ目にはならない、 ということを実感させられている。 優勝などの栄光の実績をあげていても、 「それがどうした」というか、 印象にさえ残らないものもある。 逆に、鼻についたり、自慢っぽく響いたり、 マイナスに作用する場合さえある。 もちろん、優勝などの実績をひきあいに出して、 それが好印象とともに受けいれられる場合もある。 華々しい経歴とは、それ以上でも以下でもない。 あるかないかより、とりあげ方が大事なのだ。 そして、「これだ!」と思う自己PRには、 とくに華々しい経歴などなくて、 例えば、「バイトでお客さんとのコミュニケーションが 以前よりうまくいくようになった」というような、 ささやかな成功体験に基づいて述べているものも多い。 栄光の実績や、人に誇れる経歴は、 ぱっと咲いた「花」のようなもので、 「花」の部分だけ切り取って、 「私は優勝経験があります」「超有名機関で働いてました」 「どう? すごいでしょ」と見せられても、 それだけでは、社会という大海原を、 会社という船で航海する運命共同体として、 「この人を選ぼう!」という気には なかなかなれないものだ。 一緒に何かしようというメンバーを選ぶとき、 人は表面的でない、もっとシビアなところを見る。 植物にたとえるなら、根や茎の部分。 つまり、その人が花を咲かせるまでに 何を思い、どう考え、どういう方向性で努力を積んだのか、 選ぶ側はそこが見たい。 会社というところは、 日々小さな問題や、ときに大きな問題も起きる。 未知の問題も起きる。 学生が、学生時代に咲かせた花が、 たとえ小さな、ありがちなものであったとしても、 「その努力の過程が丁寧に説明されている、 問題にアプローチするときの目のつけどころがいい、 考え方や努力の方向に共感できる」となれば、 「会社に来て新たな問題に遭遇しても、 役に立ってくれそうだ」 と期待がもてる。 逆に、大きな花だけを見せびらかされても、 どう考え、どういう方向に努力を積んだのか、 プロセスがまったく説明されていないもの、 プロセスが説明されていても、 その考え方にまったく共感できないものは、 印象に残らなかったり、ただの自慢にうつったりしやすい。 花=実績より、そこに至る考え方や努力の方向性。 では、どんな考え方なり、努力の方向性なりが示せれば、 相手の心を動かせるのか? それは、あくまで目的あってのものだ。 相手が求めるものによっても違ってくるし、 自分がやりたいこと、就きたい業種によっても違ってくる。 とても一概に言えるものではない。 だからここでは、就活の文章に接する中で 私が気づいたポイントをひとつ、 たたき台としてあげておきたい。 自己PRに悩む人になにかヒントになればうれしい。 学生の自己PRを見ていると、 会社が「目標達成」の場であるということが、 かなり浸透してきたためか、 「目標を達成する力」をPRする人が多い。 例えば、「苦手分野の克服のため、自分で目標を立て、 一日○時間と決め、勉強を積んだ結果、目標達成できた」 「大会に出るため独りコツコツ自主トレをした。 結果、入賞した」 と、かいつまんで言えば、そのような方向でのPRだ。 これは、とてもいいことだと思う。 会社という船の乗組員として、 これから「利益」や「成果」を 一緒に達成していく仲間として 手をあげるには、ふさわしい自己PRだ。 しかし、何十、何百という自己PRの中で、 「自分が本当に採用するとしたら、どの人を採りたいか?」 と読んでいると、欲を言えば何か足りない感じがする。 「この人は独りコツコツ努力して 成果を出せる人だとわかった、 でも、うちの組織に来てうまくやっていけるだろうか?」 と疑問がよぎる。 勉強と仕事の違いは何か? 勉強は「個人の努力」がものを言う。 目標に向けて、暗記をしたり、演習をしたり、 自分が努力したらした分だけ、 着実に成果につながっていく。 一方、仕事は人とのつながりに左右される部分が大きい。 会社のメンバーとの協調のあり方、 外部のスタッフや取引先との連携、 お客さんとの関係性、 そこでものを言うのは「コミュニケーション力」だ。 独りコツコツ目標を達成する力を「タテの努力」、 と呼ぶとすると、 仕事には、それに加えて「ヨコの努力」、 つまり「人とつながる力」が欠かせない。 かといって、協調性だけをやたら売り込むのも考えものだ。 例えば、「サークルではみんなと仲良くできた」 「バイト先では上司もみんな友だちになれて楽しかった」 それはいいことだけれど、それだけだとやっぱり足りない。 自己PRをするときは、 何か根拠となる具体例を引いてこなければならない。 そのときに、 心を動かされる自己PRは、 タテ×ヨコうまくリンクして 成果につながった例をあげている。 すなわち、 「目標を達成する力 × 人とつながる力 = 成果」 だ。例えば、バイト先で、あるいは、サークルで、 成果がもうひとつあがらない、というときに、 「自分ひとりががんばった、がんばった分だけ成果は出た、 自分ひとりが成長できた」というのは、タテだけ。 「ちっとも成果はあがらなかったけど、みんな仲良く 楽しかったからそれでいい」というのは、ヨコだけ。 ちょっと極端な例だけど。 タテ×ヨコ両方がある、というのは、 自分が努力するのはもちろんだけど、 「人とのつながり」に着目して、 コミュニケーションのとり方を変えたり、 人に働きかけたり、 関係性のなかで成果に導いたというような例だ。 例えば、「サークル活動に消極的な人たちに、 いかに積極参加してもらうかが成果へのカギだと思い、 メンバーに働きかけていった結果、 全員が積極的に参加するチームづくりができた。 その結果、サークルの成果もあがった」とか、 「バイト先で、 お客さんとのコミュニケーションのとり方に着目して、 改善していった結果、お客さんは喜び、 売り上げはあがり、 自分はより責任ある仕事をまかされるようになった」 というような方向だ。 もちろん、正直に考えて タテ×ヨコ両方をあらわす例がないときには、 タテ、ヨコそれぞれ別々に例をあげて、 両方それぞれにPRしていくやり方でいい。つまり、 「目標を達成する力 + 人とつながる力」だ。 これも片方だけより強い。でも、 「目標を達成する力 × 人とつながる力」 を一発で示せるような具体例があれば、 それにこしたことはない。 この場合、過程に納得できれば、 咲かせた花の大小は、ほんとうに気にならない。 自分が努力するのはもちろんだが、 まわりの人とのつながりを自覚し、 そのつながりに働きかけ、 まわりと一緒に伸び、一緒に成果や喜びを手にしていける。 そんなタテ×ヨコの「努力の過程」を 読み手が納得できるように説明しようとしている人が、 私がいま、一緒に働きたいと思える、 「自己PRがうまい」と感じる人だ。 |
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2008-02-20-WED
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