おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson388 ワンフレーズ狩り いわゆる「ワンフレーズ狩り」のような現象、 これは豊かなことなんだろうか? 例えば、倖田來未さんは、ラジオで言ったひと言で メディアの前で涙の謝罪を余儀なくされ、 活動も大幅に自粛させられている。 ほかにも、政治家やスポーツ選手など、 あいついで失言があるたびに、世間はそれを責め、 当人は謝罪、自粛や処分、ということが繰り返されている。 有名人だけではない。 男女も、上司と部下も、家族も、友達どうしも、 「言った」「言わない」 と、日々、失言でもめている。 「傷ついた」「そういうつもりで言ったんじゃない」 「あやまってよ」 と、激しく責めあっている。 そこで、問題になっているのは言葉だ。 しかも、極端にみじかくて、わかりやすい、 はっきりした言葉、 いわゆる「ワンフレーズ」だ。 けして1万字、2万字で書かれた文章を じっくり読んだあと、 「あなたの言葉に傷ついた」 と批判しているのではない。 1年のその人の言動を総合的にみて、 「あなたの昨年の言動全体に私は差別を感じた」 と責めているのではない。 ワンフレーズ。 その人のこれまでの言動の総量よりも、 「たったひと言」のほうに、 激しく反応してしまうのはなぜか? ワンフレーズにとらわれたり、 責め立てたり、排斥したり、 言葉を狩る行為、 これは、豊かなことなんだろうか? 私も、「ワンフレーズ」にとらわれて、 大切なものを見失いかけたことがあった。 それは、私がとても信頼を寄せている編集者さんが なにげなく言った、ほんの「ひと言」だった。 いまから思えば、その人は悪気で言ったのではない。 むしろそこに、まったくネガティブなものが なかったからこそ、 あっけらかんとわたしの前で言えたのだと、 今はよくわかる。 だけど、そのときの自分は、 「ひと言」の魔力のほうにとらわれてしまった。 一瞬で、水をかけられたように心の灯が消える感じがした。 その人とは、付きあいも長く、 お互いに人に言えないようなことも、 心を開いて言いあってきた。 信頼関係は深いと自負していたのだが、 その「ひと言」は関係を一蹴するかのように、 当時の自分にはうつった。 「なんだ自分たちの関係はそんなもんだったのか‥‥」 と、私は、しょんぼり、がっかり。 私のただならぬ様子に編集者さんは、 あとから、ずいぶんフォローをしてくれた。 その言葉は決して悪意で言ったのではない ということを、心を砕いて説明してくれたし、 これまで、いかに誠実に、いかに大切に 信頼関係をつむいできたかということを、 丁寧に、根気強く、説明してくれた。 でも、ほんとうにふしぎなことに、 そういう、あとからかけられるいい言葉が、 全部自分を素通りしてしまうのだ。 ちゃんと聞けば、 ずいぶんうれしいことも言ってくれているというのに、 「ワンフレーズ」にとりつかれた自分には、 いっこうに耳にはいってこない。 さらにふしぎなのが、 何年来の信頼のつきあいは、 増えも減りもせず、たしかに事実としてあった、 ということだ。 その何年来、その人が自分に何をしてくれたか、 いつ、なにを、どのように、どうしてくれたか、 事実をひとつひとつ冷静にたどれば、 信頼関係があるのは疑いようのないことだ。 なのに、相手の言動の総量よりも、 「ワンフレーズ」に自分がとらわれていたのはなぜだろう? もともと私は理屈っぽい、頭でっかちな人間なのだけど、 当時は、それがかなり悪いほうに出てしまっていた。 言葉にすがり、言葉に執着していた。 私は、それからも、その「ひと言」を根にもって、 ときどき持ち出しては、相手を試したり、責めたりした。 その「ひと言」にこだわっていても、 いいことはなにもないばかりか、関係はぎくしゃくする。 それがわかっていても、 「たったひと言」の呪縛からなかなか自由になれず、 苦しんでいた。 いま思えば自分は、「たったひと言」で空いた心の穴を、 別のしっくりくる言葉で埋めてもらおうと必死だった。 でも、そこに説明を求めても求めても ほしい言葉からは遠ざかっていった。 そんなころ、「通じ合う」ことについて、取材に来た 別の編集者さんが、こんな原体験を話してくれた。 その人が「ほんとうに心から通じ合えた!」と 実感したのは、 なんと言葉の通じない外国人との間だった。 その外国人とは、英語も日本語も、まったく通じない。 最初は、カタコトの英語とか、ヘンな日本語とか、 なんとか言葉を駆使して、伝えようとするものの、 相手はもやもやと霧がかかったような顔をし、通じない。 そのうち、英語も、日本語も、おたがいの持ってる言葉 ぜんぶだしても通じないのだとわかると、おたがいもう、 言葉なんかには頼らないで、身ぶり、手ぶり、で伝え合う。 でもジェスチャーにも文化がちがいがあるのか、 相手のもやもやした表情は晴れない。 それでも、相手もなんとかしてわかろうとし、 自分もなんとか伝えようとし、 しまいには言葉にも頼らない、手の動きやカタチでもない、 なにかが働いたというのだ。その瞬間、 「あーあ!」「そうそう!それ!!」 と霧が晴れるように、通じ合えた歓びは格別だったという。 その瞬間、相手と共有しているのは 日本語ではない、英語でもない。 言葉は何ひとつ表有していない。 でも、まったく同じ「想い」がおたがいの中にある。 これがコミュニケーション本来の目的だ。 伝えようとしているのは、言葉ではない。 言葉は手段だ。 言葉は何ひとつ共有できなかったからこそ 通じ合う、本来のゴールにたどり着けたのだ。 逆に、「言葉尻」にとらわれすぎると ただ言葉をわからせようと伝え、 ただ言葉を受け取るだけが目的になってしまう。 するとコミュニケーションは記号化してペラペラになる。 頭でっかちの私も、そんなこんなで少しずつ、 「言葉尻」ではなく、 不完全な言葉が必死で運ぼうとしているもののほうに 注意をやるようにした。 それでも、例の編集者さんとのぎくしゃくは なかなかおさまらず、 ある日、ぶつかってしまった。 ちょうどその日は、自分の人生の節目の日で、 心穏やかにこれからの人生を考えるべき記念日に、 人とぶつかってしまう自分はなんなのだと落ち込んだ。 その日は、最初はケンカのように、最後は冷静に たくさん話し合ったが、 言えば言うほど、すれ違う気がした。 おたがい悪意はない。 おたがい相手をわかりたい、わかってほしいと思っている。 なのにすれちがうのはなぜだろう? その日は結局、言葉はすれちがうばかりで、 「これだ!」という一致点も見つけられずに 終わってしまった。 ところがふしぎなことに、 次の日、めざめて、 おもいのほか、心があたたかかった。 すれ違いに落ち込むかと思っていたので、自分でも驚いた。 本に「読後感」があるように、 人と別れたあと、その人との時間の総量が、 ひとつの印象になって自分の中に わきあがってくることがある。 人は会っているとき、言葉にできない 暗黙知を共有するというけれど、 その編集者さんは、 風邪で体調も悪い中、 私の記念日と知って、 なんとか話し合いをよいものにしようと 暗黙知の部分でがんばってくれていたのだ。 それが、その日は、言葉やカタチに現れなくても、 翌日、あたたかい読後感となって伝わってきた。 言葉はとても強いものだ。 でも、その魔力にとらわれてしまうと、 その言葉以外のものが 見えなくなってしまうことがある。 これは自分についてだが、 だれかの「ひと言」に、「言葉尻」に、かみついて、 相手を責め立てているようなとき、 それは私の言葉に対する感覚が鋭くなっているのではない。 不完全な言葉が背中にしょって、 運ぼうとしても運べなくている 暗黙知の部分が見えなくなってしまっているのではないか。 ならばそのとき、自分の、 言葉に対する体力は衰えているということだ。 そんなときは、本で言う読後感、 その人の想いの総量のほうに耳を澄ませていたい。 「すれちがってもいいじゃないか」 例の編集者さんはそう言った、 お互い悪意がないのにすれ違うのはなぜか、 という私の言葉を受けて、「すれちがっていい」と。 続けてこう言った。 「言葉を尽くしたのに、 誤解が解消できなかったとしても、 そこに悪意がなかったのであれば、 人はいつかまた信頼関係を結べるように思います。 生じてしまったすれちがいをどうにかしようとして 状況を丁寧に説明することももちろん大事ですが、 言葉はもっと深いところにあるものを届けるために 存在するように思います。」 この編集者さんとは現在まで、 温かい信頼関係が続いている。 |
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2008-03-05-WED
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