おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson390 言葉が伝えようとしているもの 言ってることがよくわからないんだけれども、 「なんかこの人はおもしろそうだ」 とひかれる人と、 わかりやすい話をするんだけれども、 「よくわかったけれど、だからどうした」 と、底が浅い感じがする人、 この差はなんだろう? 先週の「言わないという嘘」、 先々週の「ワンフレーズ狩り」は、ともに大きな反響で、 あらためて、「ほぼ日」読者の底深さをおもいしった。 いいメールがたくさん来て、 読者メール特集にしようかとも考えた。でも、 感想と呼ぶにはあまりにも深い、 読者の実体験にもとづくテーマへの理解。 そこから次の境地へはばたくための、 メッセージや問題提起を含んだものも多く、 ひとつひとつが作品のような気がした。 なので、わっと紹介して終わるより、 ひとつひとつ深めていったほうがよさそうだと感じた。 いただいたメールは、私なりのかみくだきをした上で、 今後のコラムに、生かしたい。 直接メールを引用させてもらったり、 メールの奥にある視点をテーマにとりあげたり、 コラムの「ここぞ」というところに、 生かしていきたいので楽しみにしてほしい。 というわけで、さっそく今日も 読者のこんなおたよりから始めたい。 <自己像と自分との一致> 就職活動中の一学生です。 Lesson389「言わないという嘘」 昨日たまたま読んだ本とリンクして、心に響き、 メールさせていただいた次第です。 リンクした点は、 「すべきなのにしないことは自分への裏切り」 「自分への裏切りは自分を正当化することにつながる」 という点です。 「言う嘘」は他人に対する裏切り 「言わないという嘘」は自分に対する裏切り と私は感じました。 本心は「私もAさんに祖母のことを聞いてほしい」、 言うべきだと思っているのに 「相手のために言わないでおこう」と自分を裏切る。 すると、相手のことを慮れる「思いやりがある自分」 事実は事実として受け入れる「ものわかりのいい自分」 という自己像が出来上がってしまう。 当然、そういった自己像と現実をすり合わせていくと ひずみが生まれる。 周りの思いやりのない言動、 理解のない対応が積もっていくと、 やがて自分を正当化し、 「被害者の自分」を形成してしまう。 「自分が言わなければ世界はなにも変わりない」が、 実際には、 「自分が言わないことで世界の見え方は変わっている」 と感じました。 そして、それはとても不自由なことだと思いました。 私も就職活動中の身として、 自己像と現実をうまく同期させていきたいと思っています。 (就職活動中の学生さんからのメール) 自己像がゆがめば世界もゆがむ。 そして、自分の寂しさに気づかない人は、 無自覚なままに「愛のまちぶせ」をする、と思った。 「愛のまちぶせ」とは、むかし読んだ本にあった言葉で、 妙に印象にやきついて、日に日にデカクなっている。 いまは、この言葉を自分なりに、こう解釈している。 だれでも寂しさは抱えていると思うが、 それは、自分の内面にぽっかり空いた穴のようだ。 一人ひとり、寂しさのツボはちがう。 つまり、穴の大きさも違えば、空いた箇所もちがう。 寂しさを自分で認めていれば、 人の手を借りるなり、まぎらすなり、しのぐなり、 のりこえるなり、と手はある。 だけど、自分で気づいてないとしまつが悪い。 無意識に、自分のポッカリ空いた穴にフォーカスを合わせ、 「私の寂しさに気に入るように、気に入るやり方で、 愛をくれ、愛をくれ」と待ちかまえるようになる。 こういう状態は、とっても不自由だ。 たとえば、すっごく面白い映画を観に行ったのに、 おなかがすきすぎていて、 食べ物のシーンしか覚えていない、 というような状態だ。 自分の空腹にフォーカスがあっているので、 そこにはまる情報しか受けつけられない。 せっかくのいい情報があっても素通りしてしまう。 私の寂しさに気にいるように、気に入るやり方で愛をくれ。 会話の相手に、こんなまちぶせをされたら、 まちぶせされるほうだって不自由になる。 せっかくおもしろいテーマをふっても、 相手のピンポイントにはまらないものは却下される。 だけど、相手のピンポイントにあわせるったって、 何千ピースあるジグソーの、たった1つを手探りで あてるような作業だ。 あたらないし、 あたるまで、会話ははずまないし。 はずれを繰り返していると、 責められることになる。 「自分の気に入るようにしてくれない」ではない、 「あなたがまちがっている」と。 相手は自分が寂しいとおもっていない。だから、 自分の寂しさにフォーカスを合わせて ものごとをみているとも思っていない。 だから、そこにフィットしない情報を「まちがっている」 と認識する。 そこにフィットしない情報を、 裁いたり、責めたり、うらんだりする。 その実、そういって責めている本人に、そのことが できているかというと、 もともと、そこは空いた穴だから、 ないから求めているのだから、 できないことが多い。 自分でできてないのに人を責める、 ますます自己像はブレまくり、 ますます正当化しようとおもって、人を責め、 ますます嫌われて寂しくなり、愛をまちぶせする。 「もう、よさないか自分。」 と私は、私に言い聞かせる。 寂しがりのくせに、 なかなかそれを認めようとしない自分は、 これまでたびたび、この「愛のまちぶせ」状態に 陥ってきた。 弱いからさんざん陥ったけど、 そろそろ、自分でも、そういう状態はおもしろくないぞ、 っていうか、もったいないぞ、とおもいはじめた。 話をしていて、 たとえ相手の言ってることがよくかわらなくても、 「なんかこの人はおもしろそうだ」 とひかれる人と、 たとえ、わかりやすい話であっても、 「よくわかったけれど、だからどうした」 と、底が浅い感じがする人、 この差はなんだろう? 私自身、会話をしていて、 自分の話を自分でも底が浅い、「なんかちがうな」 と感じるときは、やっぱり、 自分でも気づかぬうちに、エゴにとらわれているときだ。 この場合、会話のゴールはどこまでいってもエゴ、 私をわかってくれか、私を好いてくれ、か。 でも、人と人が会話をするとき、 お互いの欠けたジグソーをさぐりあて、 あるいは、待ち構えられ、強要されて、 そこに愛をデリバリーするしかないんだろうか? 先週言ったように、 「人はそんなに強くない」と私は思うから それも必要なことだと思う。 でも行き着くところ、 どっちかがどっちかのエゴにデリバリー だけではない、会話はもっと自由なはずだ。 私が、話していて「なんかこの人はおもしろそうだ」 とひかれる人は、自由な人だ。 なにものにもとらわれない。 自分のエゴに自由をくもらせることがない。 相手が強い立場の人であろうと、 相手のエゴのツボを聴診器をあててさぐりあてたり、 そこに奉仕したり、もちあげたりを好まない。 だから、あるテーマをふったら、 ほんとうに会話のゴールがどこへいくのか予想がつかない、 とほうもないとこへいってしまうかもしれない、 そんな自由がある人が、 話していて楽しいと感じる人だ。 よく、年長の人が若者に、 「空気を読め」とか、「文脈をわきまえて話をしろ」と 強要している。 でも、これは、ひとつまちがえば、 「私のエゴのツボを聴診器をあててさぐり、 そこに奉仕しろ」ということになりかねない。 ときに空気を乱し、文脈をふまえないほうが、 テーマにとっては、発展的で、 のびやかな栄養を注ぐこともある。 なにものにもとらわれない自由。 自分がまだまだ弱く、不自由だから、 そんな自由にあこがれる。 最後に、私が「自由だ」と感じた読者のメールを 紹介して終わりたい。 人によっては、この人が強がっているように思うだろうか? 私はそうは思わない。 読んだ瞬間、言葉が染み入ってきた。 この人が、この境地にいたるまでに、 どれだけの経験、想い、 思考の向け方があったのだろうと思う。 そう思うと、安易に「わかる」とか、 「まねできる」と言えない。 でも、前回のコラムで読者のたくさんの深い理解によって、 自分の弱さを認めるというスタートラインに立てた私は、 いつか、こういう境地をめざしたい。 <2つの世界の間に「わたし」がいる> わたしには 重いハンディキャップを抱えている家族がいます。 そのため、家族や自分自身の中に 大きな変化や危機があったこともありましたが わたしは 自分の友人や恋人に、 そのことを話したことは一度もありません。 理由は ズーニーさんの言う 「相手に気を遣わせたくない」というのもありますが それ以上に わたしの抱える事情という物差しで相手をはかりたくない という想いが強くあります。 わたしが家族の話をしたら 友人は偏見を持つかもしれない あるいは 深い理解を示して私を勇気づけるかもしれない けれど、 どちらの反応をしても 友人が、 わたしの大切な人である事実は変わらないのです。 深刻な事情を抱えて 明るく楽しい場に居なくてはならないことがあっても どちらかの世界が内で どちらかの世界が外なのではなく どちらも等しく 自分を取り巻く世界 なのだと思います。 つながっていなかったとしても それは「亀裂」なんかじゃない。 2つの世界の間には「わたし」がいる 弱い部分や重い事情を 「明かすこと」ではない架け橋がある そう思っています。 (まこ) |
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2008-03-19-WED
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