YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson397 通用する言葉


仕事上後輩にあたるような人を叱ったようなあと、
なんとも言えずざわつくことがある。

この気持ちはなんだろうか?


ミスユニバース世界大会で、
ここのところ世界2位、ついには世界1位、と
ものすごい快挙の「日本」だが、

その影には、「イネス」というスゴ腕の教育係がいる。

イネスはどうやって、日本の女の子を
世界に通用する美女に育てあげるのか。

少し前、テレビでドキュメンタリーが放送され、
私が最も衝撃を受けたのは、
イネスが、仲良しグループを引き離したことだ。

同じ年頃の女の子がいると、
どうしても仲良しグループができる。
ことしの日本予選の最終選考には10人が残った。

うち3人の女の子がいつもむれていた。

ジムに行くのもいっしょ、
ジムで着るスポーツウェアも3人おそろい、
食事をするのも3人いっしょで‥‥。

イネスはそれを許さなかった。
イネスは離れるよう命じ、そしてこう言った。

「もう友だちはいないと思いなさい。
 友だちは、あなた自身よ。」

これには反発を覚えた視聴者も多かったかと思う。
友だちつくって何が悪い、個人の自由ではないか、と。
でも、離れた後の女性たちは、メキメキ魅力を開花させ、
ついには、そのうちの1人が優勝するまでに至った。

私にはイネスの言っていることが
よくわかる気がした。

「自分の絶対価値と交信しなさい。」

そう言いたかったのだと思う。
仲良しどうし、いつもむれていると、
自分の腹に聞いてみて、「自分はどうしたいのか」
を出さなくなる。

右の顔色をうかがって、左の顔色をうかがって、
お互いの顔色を読みあって、
なんとなくみんなのしたいものに合わせておくと、
なんとなく楽しくいられる。

でもそうすると、だんだんだんだん、
食べるもの、着るもの、行動パターンが似てきて、
ついには個性が育たなくなる。

世界の舞台で通用するのは、
まず、「オリジナリティー」。

オリジナリティーを開花させるには、
右の顔色、左の顔色と交信するのではなくて、
他ならぬ自分と交信して、

「だれがなんといっても私はこうしたい」
「私はこれが美しいと思う」
という、自分の絶対価値を出すこと
からしか始まらないのだと、
イネスは言いたかったんだと思う。

でも不思議なことに、
私にも、何かと言えばよく集まって話す5人の友人がいる。
はたからは、女6人仲良しグループと見えるだろう。

でも、この友人たちといると、
個性が薄まるどころか、
常に、「自分はどうしたいのか」を問い直され、
背中を押されまくられているような気分になる。

つきあうことで、
どんどん個性が弱まっていく友だちと、
逆に自分の絶対価値を問い直され個性が強まる友だちと、
いったいその差は何なのだろう?

「そこで話している言葉が、ひらいているかどうか
 じゃないですかね。」

私が上記の問題意識をぶつけたとき、
編集者のMさんが、そう答えた。つまり、

自分と友人たちが話しているとき、
もしそこに、全然関係のない観客100人がいたとして、
自分たちの話を聞いていたとしたら、

観客100人にとって自分たちの話してることは面白いか?

非常にせまーい、閉じた集団が、
自分たちの狭い世界にしか通じない言葉で話しているとき、
よそものの観客100にとって、
その話はおもしろくない、というか、
そもそも何を話しているのかよくわからない。

先日、名古屋でやったワークショップで、
地方から都会に就職活動に来ている学生がいた。

彼は、
「自分は大学までずっと地元で育った。
 だから友人は、
 小学生のときからよく知ってるやつばかりだ。
 だから、外から来たものに、どうやって
 自分のことを伝えるかという力を、
 まるで鍛えていなかった。
 でも都会で就職活動してみて、
 都会で育った人は、常に、外からきたものに
 自分をどう伝えるか、鍛えているからかなわない」
と言った。

学生の立場で、自分をこのように客観的に見て、
「とじてる、だから、ひらこう」と自覚しているのは
すごいな、
と思った。

たしかに、私の5人の友人は、
私も含めまだ先が見えなくてもがいている者ばかりだが、
常に「ひらこう」と格闘してきた人たちだ。
主婦でありながらドキュメンタリー映画を撮り始めたり、
小説や、演劇や、テレビの構成など手段は違っても、
皆、悩みながらも、なんとか自分の考えを、
自分の話が通じる狭い範囲、だけではない人たちに、
ひらかれたところに通じさせようと格闘しつづけている。

だから、もしここに、
全然カンケイない観客100人がいて、
この友人たちの会話を聞いていたとしても、
ときどき、「お金を払いたい」という観客まで
出てくるのではないかというくらい、
ひらかれた面白い話をする。

たとえば、ある会社に、
とっても気難しい社長さんがいたとして、
どくとくの話のもって行き方をしないと、
仕事が通らないとする。

会議でも、みんな社長の顔色をうかがって、
筋の通らない発言をする人ばかりだったとして、

全然カンケイない観客100人が
このやりとりを聞いていたら、
ほとんど意味不明なのではないかと思う。

このような閉じた集団に、
外から人がはいってきたら、
最初はとまどうけれど、
そのうち、先輩に教えられたり、叱られたり、
しだいに社長への接し方に慣れていく。

このような組織では、社内情報がものを言うので、
仕事後も、会社の人たちと飲みに行ったり、
遊びに行ったり、自分だけが必要な情報から
ほされないように、結果的に、常にむれて。

その人は、だんだんとその集団で通じる言葉を
鍛えていった反面、
その集団にしか通用しない言葉に
なっていっているとも言える。

たとえ閉じてるといわれようと、
目の前にある環境に適応して生きるということは
すごいことなので、
決して否定したり、
軽んじたりすることはできないのだけど、

目先の環境に、センサーを張って、奉仕して、適応して
むれているうちに、

たいそうなことを言えば、

せっかくのオリジナリティーと
せっかくの世界基準で通用する力を、
育てる機会を自らすて続けているとも言える。

目先の環境にとりこまれることは、
切実でやむをえないことだけに、
私たちは、意識して、
自分の絶対価値に照らすことと、
世界基準に照らして自分の言ってることは通じるかどうか、
ひらかれた視野で見ていくことの、
両方が大切だ。

私は、仕事上後輩にあたるような人を叱ったようなとき、
あとで、なんとも言えずざわつくことがある。

「その時点で崖っぷちにいるのはどっちだろう?」

世界に通用しなくなっているのは、
こっちか? そっちか?

なんとなくこっちが、
歳も経験も立場も先輩のようなとき、
対立したら、先輩が後輩を叱る、
ようなカタチになることが多いけど。

そういうときは後輩も、たいていは素直に聞いてくれて、
勉強になったと感謝してくれて、改めてくれるけど、
あっさり素直に聞いてくれれば聞いてくれるほど、
自分がざわついているときがある。

「自分という狭い閉じた世界にだけ通じる常識に、
 相手を取り込んだだけではないか?」

もしそうだとすれば、
自分の言い分が通れば通るほど、
世界に通用しなくなっていくのは自分だ。

自分の言い分が通らないことは悲しいけれど、
もっと悲しいのは、
自分の言い分が通らないという現実を、
直視したり、認めたり、受け入れることができなくて、
自分と現実に幻想を描いて、
自分より立場の弱い人間に、
自分の幻想の共演者にしてしまうことだ。

そんなかっこ悪いことに、自分はなりたくない。

目先の狭い世界にとりこまれそうなとき、
あるいは逆に、自分という、もっと狭い世界に
相手をとりこんでしまいそうなとき、

ぐっと目を外にひらいて、
たいそうな言い方だけど、
自分を「世界に通用する人間に育てるぞ!」くらいの
勢いで、勇気をもって私は問いたい。

もしここに、全然関係のない観客100人がいたとして、
自分たちの話を聞いていたとしたら、
自分の話はおもしろいのだろうか?
自分の言い分は通るのだろうか?

崖っぷちにいるのはどっちだろう?

世界に通用しなくなっていっているのは、
こっちか? そっちか?

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2008-05-21-WED
YAMADA
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