YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson405
     妄想族はもらいが少ない?
    ――関係を修復する3


まだなんにも起こっていないうちから、
あれこれと想像して、
自分勝手なストーリーをつむいでしまう性分の人を
「妄想族」と呼ぶ。

私も、長いこと「妄想族」だったが、
最近すっぱり、ストーリーをつむぐのをやめてしまった。

事前にあれこれ妄想することは、
人間関係において、結局、
得るものが少ない行為ではないだろうか?

先週の「忘れるチカラ」に引き続き、
今週も、「関係を修復する」ポイントについて
考えてみたい。

私がずっと不思議だったのは、
事前にシュミレーションを完璧にして、
自信満々で100%やりこなせた講義より、
「生徒の反応が予測できない。
 でも、ここは、生徒を信じて、
 自分を信じて、やってみよう!」
と挑んだ講義のほうが、
結果、面白くなるということだ。

段取りも反応も完璧に準備して臨んだものより、
なぜ、予測不能なまま
挑まなければならなかったもののほうが、
面白くなるんだろう?

日本人として49年ぶりにアカデミー賞に
ノミネートされた女優の菊地凛子さんが、
「日本と海外の撮影現場はさぞちがうだろう。
 海外で成功するコツは?」
という問題意識に応えて言ったのは、意外にも、
「先入観をもたない」
ということだった。

日本だから、アメリカだから、でなく、
映画の撮影現場は、監督によって、
一つ一つまったく色のちがう現場になるから、と。

これを聞いて、
先週の読者のこの言葉があわさって、
すっ、と腑に落ちた。

そもそも意識しすぎている事が問題になる。
たとえば、人間がコップに手を伸ばすときに、
関節の角度とかはいちいち考えてないわけです。
勝手に腕が動く。ほとんど自動的だと言える。
結果的に非常に効率の良い動きになっている。
それこそが無意識の部分です――
(読者の大介さんのメールより)

私は、何日も一歩も外に出ないで
本を書いていたようなあと、
久々に外へ出て、地下鉄の階段を降りるとき、
ふと恐くなることがある。

足が鈍ってテンポよく動かないのだ。

ふだん何気なくやっている
階段を駆け降りる行為も、
意識すると、けっこう複雑で、恐いものだ。

こんなとき、意識して、
「右足出して、左足出して…」
と足元を見て、階段一段一段に、
ちゃんと足をはめこもうとすればするほど、
頭と体がちぐはぐになり、つんのめりそうになる。

東京の階段は狭く、
後ろから急いでいる人たちがどっと押し寄せる。

こんなときは、逆に、
足元を見ないで、意識を足に集中しないで、
視線をそらし、意識をそらし、
無意識に身をゆだねるようにすると、
体が勝手にテンポよく階段を駆け下りていってくれる。

無意識に自動的にやった行為が
結局は非常に効率のよい動きになっている。

ストーリーを持って臨むと、
ストーリーにとらわれてしまう。

そこが妄想族の辛いところだ。
予想通りにことが運んだら運んだで、
事前に仕込んだ範囲でしか対応が取れないし、
予想が裏切られれば、裏切られたで、
とまどったり、落ち込んだりして、
リアクションが取れなくなる。

結局は、自分のストーリーにとらわれて現実を見ている。
だから得られるものも、
あらかじめ意識した範囲内でしかない。

ストーリーの外で起こっている
けっこう面白いことを見逃してしまったり、
無意識にしていれば、とっさに面白いリアクションが
とれたかもしれないのに、
意識しすぎてできなかったりする。

「あわてる乞食はもらいが少ない」というが、
妄想族の「もらい」も少ないと私は思う。

ふだんあれこれシュミレーションしない人も、
仲直りのイベントをしかけたり、
「ここで一気に関係の修復を」と思いつめると、
段取りを固めたり、相手のリアクションを予測したり、
自分に都合の良いストーリーをつむぎがちだ。

逆に、関係がぎくしゃくしていると、
悪いほうへ、悪いほうへと、
マイナスの物語をつむいでしまう、
ということもあると思う。
でもある部分だけを意識して
とらわれるという点では同じだ。

「あらかじめストーリーをつむがない」

ぎくしゃくした関係の修復や、ここ一番のときほど、
保険をもたず、本当に予測のつかないところを歩む
潔さが必要だと私は思う。

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2008-07-23-WED
YAMADA
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