おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson410 自分に合った答え 「おとなの小論文教室。」の使い方は? と問われれば、 いま、私はこう答える。 「“自分に合った答え”を見つけるための トレーニングジムのような場です」と。 もしもあなたが、 結婚とか、就職とか、 この先の進路に思い悩んでいたとして、 ほしいのはどの答えだろう? 1は「まっとうな答え」 2は「絶対的な答え」 3は「自分に合った答え」 私がこのコラムを通して応援し続けているのは、 「自分に合った答え」を探そうとしている人たちだ。 向田邦子さんのエッセイに 『手袋を探す』というのがある。 向田さんは、ひと冬、手袋なしで過ごしたことがある。 エアコンなどないため今よりずっと冬が厳しい時代、 素手でやりとおすなど、とても常人にできることではない。 当然、向田さんは、 風邪をひいたり、不便があったり、つらい思いもするのだが それでもどうしても、 間に合わせの手袋をはめようとしない。 向田さんといえば、おしゃれにも、 惜しみなく心血を注ぎ、抜群の審美眼をもっていた。 それは、まだ薄給で衣類も高価だった時代に、 気に入った「黒の水着」を 給料の3か月分をはたいて買うほどだった。 自分がそれを好きかどうか。 自分の気に入った手袋がないなら、 見つかるまで探す。 自分の気に入らないものを身につけるくらいなら、 ひと冬を手袋なしで過ごそうと覚悟を決める。 この、「自分に合ったものを妥協なく探す」徹底ぶりは、 向田さんの人生にも、そのまま言えた。 「男は仕事、女は家庭」の時代に、 結婚をせず、子を産まず、 当時、虚業と言われ、不安定とされた 脚本家の仕事をしていくのは、 世間の抵抗がどれくらいであったかと思うが、 月並みな女の幸せを逃した「負け犬」としてでなく、 どこまでも自分に合った「手袋を探す」道の途上として 中年を生きた向田さんがかっこいい。 どこまでも自分の心近く感じ、勇気が湧いてくる。 私は「自分に合った答え」を探そうとする人が好きだ。 私自身、「まっとうな答え」を 探そうとしていた時期もあった。 「まっとうな答え」を探そうと真摯に挑む人の 向かう先にあるのは「学問」だ。 「学問」の世界では、 私に合った答えとか、 あなたに合った答えを探すのではない。 だれがやっても、同じ手続きを踏めばそのようになる 再現性のある答えが求められる。 論文の「結論」だ。 私は編集者時代に、 たくさんの大学教授や博士と仕事をし、 体系的で幅広い知識と、 粘り強い論理性から繰り出される、 「まっとうで偏りのない答え」 というのが何とすばらしいかというのを実感した。 それでも自分自身、 「まっとうな答え」のほうに向かわなかった。 たとえば、女の幸せというものを、 脳の科学からみたらこうですよ、 心理学からみたらこうですよ、 こうしたら10人中9人の女性が安定しましたよ、 という結果が出たとしても、 それが妥当でまっとうな答えであればあるほど、 自分自身が10人のうち1人の例外である可能性が ぬぐえない。 それが学問的にみてどんなに正しい答えであったとしても、 自分にしっくりしない答えであるとき、 どうしたらいいんだろう。 また、「絶対的な答え」を欲する人が、 歩む道は「宗教」だと思う。 「宗教」をやっている友人も多くおり、 私自身も、こどものころに宗教に興味をもっていた。 ある宗教に入信の一歩手前までいったことがある。 それでも自分にはどうしても、 人間の存在を超えたところにある 絶対的な答えを信じて 身を委ねるということができなかった。 宗教をやっている人から見れば、 ヘタレな理由かもしれない。 でも私は、自分の経験や実感のなかから 自分の答えを模索していくことに自由を感じる性分だ。 学問にも、宗教にも頼れず、 「自分に合った答え」を探していこうとするときに、 ごくふつうに手がかりになるような場がないな、 と私は思う。 だから占いに頼ったり、 自己啓発とか、カウンセリングとかに行ったり、 みんないろいろにしているのだけど。 私が欲していたのは、ただ ごくフツウに自分の頭で考えることだった。 そういう自分が出会ったのが「小論文」だった。 最初は高校生の小論文指導からスタートした。 「小論文」では「意見」が求められる。 学術論文とはそこがちがう。 論文では、結論にいたるまでの論証の部分が花。 だれがやっても同じ結論になることを、 立証していくところに重きが置かれる。 ところが小論文は字数も短いため、 「意見=自分が出した答え」の比重が高い。 正解のない問題に自分自身の答えを出していい。 暗記型の勉強で 一つの正解を出すことを習慣づけられている高校生に、 どうしたら一人ひとりちがった 「自分の答え」を出せるようサポートできるのか。 最初は失敗しつつ模索した。 でもそのうちに、 みんな同じような優等生的な答えになるのではなく、 一人ひとりちがう、自分の頭で考えた実感ある答え、 が出てくるようになった。 そのとき学んだ経験と技術を、 この「おとなの小論文教室。」に応用している。 私が生徒一人ひとりの多様な意見を引き出すために、 そのとき学んだのは、 1先に立派な人の正論を読ませない。 2しかし、何でも好きに考えていいよでなく、 まず問題提起を含んだひとつの本気の見方を示す。 3多様な意見を示す。 自分で考える前に、 あまり立派な人の正論を読んでしまうと、 生徒はそれに負けてしまって、みんな、 「筆者の言うとおり」というような意見しか でてこなくなる。 かといって、 「正解はないから、 何でもあなたの好きに考えていいんだよ」 と言っているだけでは、 生徒は決して自分の意見を出してこない。 まず、立派などでなくていい、 でも1人の人間の本気ある切実な意見を はっきりと見せる必要がある。 私がこのコラムにつたなくてもテーマに対する自分の見方を まずはっきり打ち出すのは、そこが理由になっている。 偉い先生などではないため、 いろいろと不備のある、 しかし1人の本気ある意見というものは、 切実な問題提起を孕んでいる。 それに共感したり、反発したり、たたき台にしたりした人の いろんな意見を導き出す。 私がここに示す、自分にとって切実な意見は、 踏み台であり、たたき台である。 その上で、「多様な意見」を示すこと。 高校生には、ひととおり自分の意見をだしてもらったあとで ほんとに正解はないんだということを実感してもらうため、 非常にたくさんの、それも学者やプロの人だけでない、 一般人や、同じ高校生の意見を見てもらった。 このコラムでも、日本全国だけでなく、 アメリカ、フランス、中国ほか、世界各国から 読者の投稿がくるが、 それを生かして、できるだけ多様な見方を紹介している。 まだまだ不十分ではあるが、 読者の投稿の多さ、切実さ、意見の多様さなどから、 「自分に合った答え」を探そうとする人が、 手がかりにしたり、思考を練り鍛える場として、 このコラムが使われているのを感じる。 「自分に合った答えを探す場」として このコラムが機能しているとしたら、 なんといっても、その最大の理由は、 「読者の主体性」だと思う。 ほんとうに「ほぼ日」の読者は自立している。 私にアドバイスをくれとか、 答えをくれというような読者は スタート以来ほとんどいない。 ズーニーさんの考えがいい悪いと批評する人もまずいない。 みんな、「自分でここまでは考えた」という、 自分の経験や実感からくる考えを、 未完成で恥をかいてもいいから、 「まず提供しよう」と思って投稿してくる。 これは批判的・依存的な書き込みも多いネット社会で 奇跡のように感じている。 だから私は、「ほぼ日」の 「おとなの小論文教室。」の 読者が大好きだ。 もし、あなたが今、何かに悩んでいるとして、 いま探している答えはどれだろう。 1は「まっとうな答え」 2は「絶対的な答え」 3は「自分に合った答え」 私は、自分にしっくりする答えが見つかるまで、 手袋をしないで探し続けようと、 最近やっと覚悟が定まった。 「自分に合った答え」を探して、 見つからなくて、もがいている人が、 好きで、これからもこの教室で応援していけたらと思う。 |
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2008-09-03-WED
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