YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson415
      速く、強く、伝わる言葉


「一発で届く」言葉と
なかなか届かない言葉、

この差はなんだろう?

「速く強く伝わる言葉」といえば、
最近では何といっても
北京オリンピック平泳ぎ世界新で金メダルをとった
北島康介の言葉だ。

前回五輪の「チョー気持ちイイ」は、
いまどきの若者らしさ、
天真爛漫なはじけるヨロコビがあった。

でも今回、北京でマイクをむけられたとき、
北島康介は全然ちがう表情を見せた。
それまでの苦悩が、
陰として、表情にみるみるよみがえった。
何かを言い、
言いよどみ、
しだいにこみあげるものがあり、
言葉にできない想いが、
やがて目から、
透き通ったきれいな雫となって、
ポロリ、ポロリ、とあふれ出てきた。
そのはてに思わず染み出た

「なんもいえねぇ!」

いまこのシーンだけ見ても
何回見ても、
泣ける。

この人は、言葉の伝わるスピードも世界レベルだ。

もうひとつ、
感動しているのに、
どうしてなのか個人的に泣けなかったのは、
24時間マラソンを完走したときの
エド・はるみさんのコメントだ。

エドさん、満身創痍で、
なんどもあきらめかけ、
それでも驚異的な根性で完走し、
ゴールの武道館にはいってきた。
エドさん好きな私は、
そこまでで、もう胸がいっぱいだ。

ゴールは歴代のランナーなら、
くたくたになって倒れ込んだり、
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、
言葉が出てこなかったりするところだ。

ところが、
エドさんは、全身の疲労をぐっと押し殺し、
マナーの講師をしてきただけあって、
マナー本の見本にでてくるようなきれいな姿勢で、
ゆっくりと、ていねいに四方八方におじぎをした。

それから、息もまったくあがっていない、
アナウンサーのようなきれいな日本語で、
いいよどみもせず、流暢に、
謝辞を伝えはじめた。

「これもひとえにスタッフのおかげです」と。

エドさんは、とてもりっぱだった。
エドさんと同世代の私たちの世代は、
苦労を顔に出しちゃいけないと言われて育った。
苦しいときも笑顔、自分のことよりもまわりのこと。

完走したのだから、何でもわがままに言っていいシーンで、
ここまでまわりに気を配るエドさんが、
どれだけまわりに気を使ってきたか、
どれだけ苦労をしてきたか。
「らしい」なとも思い、こういう人好きだとも思い、
でもわかればわかるほど、だからこそ、
贅沢にも、こう思った。

「一言でもいい、もっと生の声をあげてほしい」と。

苦労知らずの若者が、ただぶっちゃけているだけの
「生の声」は、あんまり聞きたくないけれど、
エドさんのように抑制と気配りのきいた大人が、
でも、おさえきれず「生の声」をあげたとき、
そうとうカッコイイよなあ、と。

私は「言葉の産婆」として、
北は北海道から、南は九州まで、
一般の人が、
自分の思いを自分の言葉で表現する(=言葉の出産)
現場に立ち会ってきた。

そこで思うのは、
人は、
「ただ自分が本当に思っていることを言えばいい」
それだけのシーンでも、
なかなか表現に集中しきれず、
いろんなことを考えてしまう、ということだ。

まず「恐れ」。

うまく言えないために恥をかいたらどうしよう、
そのことでプライドが傷ついたらどうしよう、
という恐れを、潜在的に抱く人は多い。

それゆえ「かばい」に入る。
話す前にこんな前置きを長々とする人はそのせいだ。

「えー、私は人前で話すことが大の苦手で‥‥、
 今日もいやだ、いやだと言ったんですが、
 無理やり話せということで、しかたなく‥‥、
 でも、とにかく話しベタなもので、
 お聞き苦しいかもしれませんが‥‥」

聞くほうは、この前置きにうんざりする。
そんな予防線をはりめぐらせなくても
ずけっ、と本題に入ってくれたら、
そっちのほうがずっとおもしろいのに、と。

「かばい」を通して「逃げ」にいく人もいる。

なにか、一発引用、みたいな決めゼリフで
お茶を濁そうとしたり、
非常にたてまえ的な、一般論にすりかえたり、
一発芸みたいなノリで、オチをつけようとしたり。

こんなことをエラそうにいっている私も、
余分なものが、いっぱい言葉にはりついている
ことがある。

「ズーニーさんは試すことがある。
 <私を好きか>と」

あるとき仕事仲間にそういわれ、びっくりした。

職場でも、友だちの間でも、
ときどき、こんな人はいないだろうか。
自意識が強いために、
まわりの人が、自分を好きかどうか、
たえず試す人。
そんな人がいたらかなり迷惑な話だ。

私は誓ってそういうタイプではない。
きわめて自信が薄い人間で、
そんな試しをしたくとも、度胸がない、と思っていたが、
でも、考えてみると、同罪だな、と思った。

私は時たまだけど、
「自分はこの人に嫌われているのでは?」
という気持ちにとらわれてしまうことがある。

そういうときの私の言葉は、
聞くほうにとっては、余分なものが一緒にくっついてきて、
聞きづらいだろうと思う。
何を言っても、そこに、
「あなた私のこと嫌いなのーー?」という
余念がくっついてくるのだから。

私の表現に、まとわりついてくる余分なもの、
あるとすればそれは、たぶん「自意識」だ。

その一件以来、
たとえ、自分を嫌いなひとがいようがいまいが、
この場にとって、さして大きな問いではない
と思い、そういう自意識からできるだけ自由になるよう
訓練した。

結果、余分なものが削ぎ落ちて、
自分の言葉は以前より、のびやかで、伝わりよいと思う。

北島康介の表現には、
余分なものがいっさいない。

「そぎ落とされた表現」だ。

人生の抜き差しならない晴れ舞台、
世界中の人が見守る中で発せられた
「なんもいえねぇ!」は、
だれでも簡単に言えそうでいて、
実は、鍛え抜かれた表現だ。

まず、恐れがない。
それゆえ、自我をかばうような余分な前置きや、
逃げや、まわりくどさがいっさいない。

恐れがないとは、言いかえれば「自信がある」
ということだ。
「自分は今ここにある自分の気持ちを表明する。
素直に気持ちを表明することにいっさいの恐れがない」
と彼が彼に言えるために、
どれだけ厳しい自分との戦いがあっただろう。

世界最速で泳ぐためには、
たとえば髪の毛一本分のようなわずかな抵抗でも
邪魔になる。

余分なものをどんどんそぎ落としていく必要がある。

彼の言葉にそれを見る。
世界中の人が見守る中、
見栄をはろうとすればいくらでもできる、
一発カッコイイ決めゼリフで決めたい。
よく思われたい。
彼にはそういう虚栄心がまったくない。
自分がやってやったんだという優越感もなければ、
自分なんかが、という妙なへりくだりもない。
マスコミにたいするヘンな抵抗感もない。
多くの人を代弁しようという気負いもなければ、
イイ子になろうとも、悪ぶろうともしていない。

余念があれば、アスリートとして、
世界最速で泳ぐときの妨げになるから、

彼はいざというときに、
それらをすべてそぎ落とし、
自分を信じ、
無になることを、
訓練を通じて体に刻んだのだと思う。

言葉は、
本来自分が言おうとすること以外の、
さまざまな余分な思いをはりつけて、
相手のもとに旅立つ。
すると、相手はなにかもやもやとして
すんなり言葉を受け取れない。

余念を振り落とし無になること、
無の我に自信をもつこと、
どうすればそのようになれるかと、
日々、訓練することが必要だと私は思う。

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2008-10-08-WED
YAMADA
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