YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson422 結婚しても働きますか?
       ――2.自分と社会のつなぎかた



結婚しても働きますか?

となげかけたLesson420には、
たくさんの反響をいただいた。
まずは、結婚前の女性の、こんな声から、


<現在25歳。>
彼と結婚の話題が出るたび、
なんで決断してくれないの? とイライラし、
その一方で、他人に自分の人生の判断を預けてしまう、
自分の人生からの責任逃れをしようとしている
自分に気づきます。
(北海道在住、ペン)



<自分自身がわからない>
先日、ある研究職の男性が
学生時代に教授に言われたひと言を教えてくれました。
「結婚するなら学生のうちに。
 お金が無くても、職が決まらなくても
 それでも良いという相手じゃないとダメだ」

大学に残って研究をするということは
すぐにパーマネントの職に就けるわけではないことを
意味します。
この教授の言葉は、
愛する人と幸せになるための覚悟がある女性を選べ、
そういう意味なのだろうな、と私は取りました。

私はそういう女性なのか? と自分に問いかけたとき
胸を張ってイエスと言えないような気がします。

他人の稼ぎをあてにするなんて自分の人生を歩けない、
自分の収入は確保しないといけないと考えています。

ただ「結婚したい」と思う瞬間を思い起こすと
男性ばかりの職場に疲れ、
身も心も休まりたいと感じている時であり
結婚を逃げ場として捉えていたのだと気付かされます。
決して結婚は楽なことではないと頭ではわかっているのに
楽になりたい、頼りたい、だから結婚したいと思う私は
自分の幸せしか考えていないのです。

妊娠を機に専業主婦になった友人は、出産後
「いつダンナと別れても子供を守れるよう、
 手に職を付けるために学校に通う」
とキラキラした目をして将来の構想を話してくれました。
とても仲の良いご夫婦なのですが、
彼女から母の覚悟を感じ、圧倒されました。

「お嫁さんになりたい」と公言している女性を
どこか白い目で見ているくせに、
逆にその天真爛漫さが羨ましいとは素直に口に出せない。
友人のように覚悟を持っていないことが情けなく、
本当はどうしたいのか、どうなりたいのか、
自分自身がよくわからないまま、日々選択をしています。
(そら)



<仕事をしたい>
現在、25歳です。
今年アパレルに就職しました。
25歳で新入社員というのは、時々キツいと思うし、
焦りやプレッシャーもあります。

25歳といえば、結婚ラッシュで、
自然と自分の方にも結婚話が振られます。
先輩の女性から「結婚して養ってもらいたい」と聞く度、
今まで築き上げてきた、
この服飾に対するキャリアはどうでもいいんだろうか?
と私は思います。

今、こんなに頑張って働いているのに、
それを簡単に捨てられるんだろうか?

大学時代に一緒に美術を学んだ友達も、
結婚して美術から離れたりしています。

私なんかは大学時代は落ちこぼれで、
まともに学校に行ってなかったし、
評価も悪かったけれど、
結婚した友達は真面目にきちんと制作していたのに、
そういうものとは無縁な世界に行ってしまった感じがして、
違和感を感じるようになりました。

彼女達は現在も美術が好きでしょう。
しかし、それで食べる、という訳ではないんだ、
と思いました。

私は最近、結婚をしたくない、というように思うように
なりました。

何故なら、結婚すれば共稼ぎでも、
自分が家事をやることが目に見えるし、
一人で十分に生きていけるし、
これから先の仕事の選択も自由に出来るからです。

食べさせてもらったとしても、
なんとなく相手に申し訳なく生きていく気がするからです。

ただ色々考えて、いつもぶつかる壁は、子どもです。

子どもが欲しいと思った時に、
第一線では働けないと思うし、
自分の両親が共稼ぎだったせいで、
幼少は寂しく過ごしたので、
自分の子どもにそれはさせたくない、と思います。

そういう何か将来を考える度、窮屈に感じ、
日本で働くことの難しさを感じます。

結婚か仕事かの二者択一を迫られている気がします。

出来れば子どもが欲しいし、
第一線は続けられないとしても、仕事をしたい。
旦那に申し訳なく生きていきたくない。
そんな風に私は思っています。

私は私と同じように考える若い女性が少ないことが
残念だし、
そういう私を受け止めてくれる男性が少ないのも残念です。
(nano)



ひきつづき、今度は結婚後、
専業主婦を選んだ女性と、
働くことを選んだ女性、2通つづけて紹介したい。


<コントロールできないものを引き受ける>
子どもが出来て会社を辞め専業主婦になりました。
今後落ち着いたらまた働きに出たいと考えています。

子どもを持ち自分の外に守り育てるものが出来た。
その時に社会性が重要なんだと思いました。

24時間子どもを夫婦だけで看ることは到底出来ない、
否が応でも周囲の手をお借りする。
働き続けるのであれば子どもをそれなりの施設に
預けなくてはなりません。
大事に思う家族を預けるのですから
親として社会に開かれていなければ
自分も相手も安心して子どもを預けたり預けられたり
出来ません。

子どもが手の内から飛び出して
一人で動けるようになったら?
その時は地域の人、出て行く社会全てに、
子どもをお願いしなくてはならなくなります。

親として「あそこの子なら大事にしてあげたい」と
思われたい、
「あのお家のためなら人肌脱ごう」と思ってもらいたい、
そう思い家事や育児をしていかなくてはと
思うようになりました。

小さい頃「なぜ母親は近所の人にあんなに丁寧に
世辞やお礼を繰り返すのだろう」と考えていた
まさにそのことを親としてするようになりました。

大人になって結婚して家庭を築き子どもを育て老いる。
それを辿っていても、なんとなく
流されていられるわけではなく、
世の中の流れの中で、皆必死に泳いでいると私は思います。

自分でなんとかできること自分で決められること、
それのためにする覚悟は自分の中のことです。
リスクを押してでも飛び込ませるものがまず身の回りにあり
自分ではどうにもならない、
コントロールできないものを引き受ける、
そういう覚悟もあるのではと思います。

自分を持ち、自分で決めていくことは大事ですが、
自分で決められなくても自分を持つことは
出来ると思います。

「私は、経済基盤のすべてを他人に預けている状態は、
 人生を他人に預けているのと同じだと感じていて、
 それって自分の人生なのかしら?」
私もそう考えていましたが、
ここで言われる「自分の人生」は
とても孤独な感じがするのです。

社会的な視野というものがどう培われるのか、
私にはよくわかりませんが
自分の足元には何があるのか
全てを他人に預けている子ども時代、
かつて皆そういう子ども時代を過ごし
周囲に支えてもらって育ち、
自分の手でお金を稼げるようになる。
その上にある「自分の人生」。
そこに「他人のための人生、他人と支え合う人生」
というものもあっていい。

何が自分を大きくして今があるのか
今何に支えられて自分があるのか、
それもあわせてアイデンティティを組み立てる
必要があるのではと思います。
(Y)



<揺れる波>
私は病院で働いてるのですが、
職場で初めての「2つの選択」をしました。

「結婚しても働き続けること」と
「子供を産んでも働き続けること」。

つまり、『結婚したにもかかわらず、寿退社せずに
職場で初めての産休・育休取得者で
かつ女性で初の子供を持った
フルタイムで働き続けている』職員
ということになります。

夫は、私が仕事を続けることに賛成しており、
協力は惜しみなくしてくれています。
彼はそれを「当たり前」といっています。
彼の職場には働いている子供を産み育てている女性が
多いようです。

しかし、職場の彼と同世代の上司達は違っています。
何かにつけて「子供が寂しいのではないのか?」とか
「小学生になったらどうするのだ?」
「2人目の時に休暇をとったら人の補充はどうするのか?」
「この資格を取っておけば
 他のどこの病院に行っても通用するから」
と言ってきます。

つまり、私を評価する時に「仕事の内容」でなく、
「母親の部分の評価」まで含めて評価し、
かつ「今後近いうちに辞めていくだろう人材」として
みている印象を持ちます。

私としては一度も退職を示唆したことはないし、
「母親」としての部分を心配するのであれば
ヒアリングを行い、
業務負荷の調整や人員の配置を検討するのが上司の仕事で、
その対応をして欲しいと思っています。

実家や夫の父・母も同じように見られている印象が
あります。
言葉の端々に感じることがあります。
両方の家の母達も専業主婦で子供を育ててきたので
仕方ないと思ってはいます。

この状況に対して、
真っ向から反論ができないことも
私のストレスのひとつです。
なぜなら彼らには全く悪気がないのです。
女性は家庭を守り育児をする、
その女性が自分と同じように働いているのでは
心配のひとつもしたくなる
‥‥『悪気のない悪意』が結婚し子供を産み、
仕事も続ける選択をした私の首を絞め続けています。

日によっては声も出せないほどの苦しさを伴い、
選択した後の辛さをいやというほど味わうことになります。
その辛さが波のように自分の中でうねり、
落ち着くまで自問自答をくりかえす日々になります。

結局は仕事が好きで、
子供を産んで復帰してからの方が
更に面白く仕事をしているので
それが防波堤となり、うねる波が落ち着くまで
待つことで辞めずに済んでいます。

自問自答の日々がこれからも
私の選択・決断を助けることにつながると信じて
今日も明日も明後日も妻として母としてオンナとして
(普段忘れかけてますが)仕事はプロとして
夫と子供とともにこの社会で過ごしたいと思っています。
(K)



人間は社会的な生き物である、と私は思う。

無自覚であっても、どんな形でも、
人は、社会とつながろうとする。

社会とつながる、というときに、
いちばんわかりやすいのが、
「仕事」という「へその緒」を通して、
自分と社会をダイレクトにつなげる、というやり方だ。

仕事をすることで、自分から社会に「貢献」して、
その対価である「報酬」を得る。

一方で、間接的に社会とつながるやり方もある。

たとえば、子どもは働くことができなくても、
お父さんは、社会とへその緒がつながっている。
そのお父さんとつながっていることで、
間接的に社会とつながっている。

また、私自身もそうだったのだが、
大学を出たてのときに、自分と社会を直接、へその緒で
つなぐのは難しいので、
「会社」にはいること、=「就社」を選んだ。
会社は、すでにがっちり社会とへその緒を結んでいるので、
その会社に入ることで、間接的に社会とのつながりを得た。

仕事でなくとも、社会とのつながりは得られる。
だが、お金は、社会と世界を循環するものであり、
通用するものだ。
仕事を通して、お金だけではない、社会に通用するレベルの
情報や、技や、知恵や、時代性や、人の思いや、
いろいろなものが入ってくる。

新入社員であった私も、
社会からダイレクトに養分をとりいれるのでなく、
まず会社が、へその緒で社会から養分を取り入れ、
そこから間接的に養分を得ていた。

だから、個人の努力でどうなる部分もあるが、
会社のへその緒に左右される部分が圧倒的だ。
会社のへその緒が太くまっとうなら、
新人ではなかなか採れないすごい養分も摂取できるし、
会社のへその緒がしょぼくてゆがんでいれば、
自分もなんらかの影響をうけざるをえない。

専業主婦は、
もちろん仕事以外に社会とつながる方法はあるが、
仕事という側面にかぎってみると、
旦那さんが社会とへその緒をつなげていて、
その旦那さんの後方支援にまわることで、絆を結び、
間接的に社会とつながっていく。

自分と社会をダイレクトにつなげるのがいいか、
夫を通じて間接的につながるのがいいか、
どっちがいい、ということは決してない。

社会と自分をダイレクトにつなげ、
常に、貢献と報酬の循環を起こし続けることは
苦しいことだし。

新入社員の人がもし、急に会社が倒産したり、
ずっと専業主婦できた人が夫を失うと、
その先の社会とのへその緒まで、
一時断たれてしまうというリスクはある。

夫のへその緒で社会とつながり、
それを家族みんなで支えているから連帯感があり豊かだ、
と思う人がいていいし。

旦那さんも、奥さんも、それぞれダイレクトに社会と
つながっていて、なおかつ、一緒にいるから連帯感がある、
「ウチは2本のへその緒で社会とつながっているから
豊かだ」という考えもありだ。

どっちを選んでもいいという自由があり、
その自由は、決してさまたげられてはならない。

ただ、どっちを選ぶかで、その先の風景も、自我のあり方も
ずいぶんちがうと私は思う。

選ぶときに、社会を現実的に、ひろい視野で見て、
知っているか、が実は大事だと思う。
自分の反省から、世間知らずで、
囲いこまれた選択肢では、
なかなか自分らしい選択はできていないものだ。

社会に目を広げてみたら、
社会の方が自分を呼んでいる、
そう気づく女性も少なくないのではないだろうか?

読者のYさんは、「お子さん」という
「リスクを押してでも飛び込ませるもの」が
身のまわりにあったという。本当に尊いことだと思う。
「自分でもコントロールできない、でも、確かに自分を強く
必要としている存在があり、それを引き受けた」と。

Yさんの「お子さん」に匹敵するものを、
「社会」の中にみつける女性もいるのではないだろうか?

社会を見たら、社会のほうに、切実な問題や要求があり、
ささやかでも確実に自分を必要としている。
自分がやらずしてだれがやるとまでは言えなくても、
自分がやったほうがいい、引き受けるべきこと、
そういうこともあるんじゃないかと私は思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2008-11-26-WED
YAMADA
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