YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson424
      伝えたいことが生まれる瞬間



自分が言いたいことと、
相手の期待はズレている。
常に!

これをどうすればいいんだろう?

先日もあるセミナーで大学教授から、

「根本思想、
 つまり、自分の腹にある本当の思いに
 正直であろうとすることと

 相手にとっての意味、
 つまり、相手の願いや期待を理解して、
 そこに意味ある発言をしていこうとすることは、
 矛盾している。

 常に!!!

 この矛盾をどうすればいいのか?」

という質問を受けた。
また社会人向けの講座では、
ある女性会社員に、

「聞き上手であろうとして、
 たとえば相手と自分の映画の趣味が
 くいちがっても否定せず、

 それはなぜ? どんなところが好きなの?

 など、どんどん質問をしていって、
 相手の言い分を聞いてあげたら、
 相手は満足していったけど、
 どんどんこっちが苦しくなってきた。

 相手理解にも、
 こっちが楽しくなければ限界がある。
 この不満をどうしたらいいのか?」

と聞かれた。

言いたいことを言っても、
相手に伝わらない。

だからといって、
相手をわかってあげてばかり、
相手がおいしいだろうことを言ってあげてばかりでは、
こっちが不満になる。

よくここで、「バランスなんだ」と人は言う。

人によっては、50対50。
つまり主張と理解を半分半分にしろと。
人によっては、6割、7割、いや9割、
相手の言ってほしいことを言ったはてに、
やっと1割、自分の言いたいことが言えるという。

でも、なんのために9割がまんする?

結局は、相手に好かれたいから?
あるいは、最期の蜂の一刺しのように、
自分の言いたい1割を聞かせるため?

「自分は9割がまんしたんだから、
 今度は1割くらい私の言いたいことを聞いてよ‥‥、」
なんていうのもなあ。
どこまでいってもエゴとエゴの平行線、

バランスで片づけるのは、自分はどうも面白くない。

言いたいことを「伝えたいこと」に
どうブラッシュ・アップさせるか?

そこが肝心なんだと私は思う。

言いたいことを言っても、
伝えたいことを伝えたことにはならない。

たとえば、
「私を好きになってくれ」
と言って、相手が好きになってくれれば、
こんなにラクなことはないんだけど、

「好きになってくれ」
と言われるだけでは、
相手は自分のことを好きになれないかもしれないし
好きになってくれと言われると
かえってプレッシャー感じてダメだ
という人だっているかもしれない。

逆に、好きになれなどいっさい言わず、
さりげない相手への理解を伝えたようなあと、
相手がしみじみ、
「ああ、こういう人いいなあ、好きだなあ‥‥」
と思っていることがある。

じゃあ、「こういう人好きだなあ」と
相手からしみじみ思ってもらうには、
何を伝えるか?

ここから伝えるための格闘がはじまるのだ。

人によっては、
相手がうれしいと思うことを言ってあげようとし、
ある人は、自分の魅力をいかに
いやみなく、さわやかに相手に伝えるか、
に心を砕こうとする。
またある人は、それでも「自分を好いてくれ」と
直球で伝えようとする。

そう、「自分が本当に言いたいこと」、
それを見つけるだけでもかなり大変だし、
達成感があるのだけど、
それをそのままぶつけても、まだ、
プレゼンテーションのスタートに立てない。

「伝えたいこと」が見つかって、やっとスタートに立てる。

先日、大学のプレゼンテーション技法の授業で、
まさにそこをやった。

ある学生は、
就職活動のシーンで、
面接官へのプレゼンテーションを想定してワークをやった。

テレビの仕事に就きたいという動機を、最初は、
「自分の作品をテレビの映像に映してみたい」
というような言葉で語っていた。
学生らしい正直な表現だ。

それが、伝える相手であるテレビ業界の人を理解したり、
相手側から見て、どんな人材を求め、
どんなふうなプレゼンをされるとうれしいかと考えたり、
伝えるためのシナリオを組んだりしているうちに、

相手の求めるものがわかり、
それと、自分のギャップに、いったんはへこむ。

自分の言いたいことをそのまま言っても
伝わらない=相手が採用しようという気にはならない。
だからといって、相手の求める人材像に迎合して、
自分を偽ったり、おもねったりもできない。

さあ、どうするか。

ここから学生の思考がぐんと発揮されたように思った。

最終的に彼がつかみとった「伝えたいこと」は、
自分のテレビを観た人にどうなってもらいたいか、
自分のテレビを観た人と人の間に
どういう影響を与えたいか、
という視点になっており、
彼の本当に言いたいことでもあり、かつ、
テレビ局も新鮮に感じる
メッセージに生まれ変わっていた。

また、ある女子学生は、
自分を家族の一員のようにかわいがり、
家族ぐるみのつきあいをつづけてくれているご夫婦に、
「自分はあなたたちのことが好きだ」
ということを伝えたい、ということから出発した。

「好きだ」というのは、言いたいことだ。

しかし、やはり、相手側から見ていくと、
今の状態で「好きだ」と言われてうれしいにはうれしいが、
それよりも「子ども」のことを褒められたりするほうが
うれしいと気づく。

どうしてそうなるのか、と考えると、
家族ぐるみのつきあいをつづけるなかで、
どうしても会話が浅くなり
1対1の向きあい方ができていないことに気づく。

いまのままだと、
旦那さんのほうにしても、奥さんのほうにしても、
自分が、相手の人間性を心から好きなのだ、
という真意は伝わらず、
ただほんわりとその家族を好きという感じになって
消えてしまう。

そこで彼女は、これからは、もっと自分で意識して
1対1の向き合い方なり、会話をするように心がけ、
やがて、個対個、としてのつきあいが
立ちあがってきたときに、
そのときに逃さず、いまの気持ちを伝えようと決めた。

最初の「ただ好きと言いたい」というところから
スタートして、
どうも、「うまく伝わらないぞ」、となり、そこから、
ただ好きと言いたいのではない、
ただ相手を喜ばせたいのでもない。
漠然と「ご家族」をほめたいのでもなく、
自分は、ご夫婦、それぞれに、
「個としてのあなた」をかけがえなく好きなのだと伝えたい
というメッセージ性が出てきている。

言いたいことをぶつけても、相手には届かない。

そこで、必死に相手を知ろうとして、
相手側から見ていくと、
相手の期待や、願いが読めてくる。

女子学生の場合は、そこで、相手のお子さんを褒めたり、
相手により好かれるようにふるまう自分になるという
選択もあったわけだ。
でも、そうすると、相手は喜んでも、自分は満たされない。

そこで、踏みとどまって、
このような自分が、かけがえないその相手に、
だからこそ言いたい、
「自分にしか言えないこと」は何かと考えてみる。

そこに、「個としてのあなたが素晴らしいのだ」
というメッセージが生まれた。
相手が全然期待していない、欲していないことだろうけど、

だからこそ、相手にとって新鮮に響くメッセージになる。

自分の本当に言いたいことを言っても、
相手に受け入れられない、とわかるのは
本当につらいことだ。

そんなとき、相手の求めていることを知れば、
ついそれに迎合したり、自分を偽ってでも添いたくなる。

けれどもそのどちらでもなく、
互いのギャップを見つめ、
自分と相手は、こんなに遠くギャップがある、
自分はあなたの期待からこんなにズレている、だからこそ、
これだけは言えるし言いたい、というものを探したとき、

相手と自分に、遠いからこそ、大きな橋がかかると思う。

自分が言いたいことと、
相手の期待はズレている。
常に。

そんなときがチャンスだ。
そこに2人が出会った意味がある。
あきらめないで、言いたいことを
「伝えたいこと」まで高め、
自分と相手を遠く大きな橋でつないでほしい。

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2008-12-10-WED
YAMADA
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