おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson428 場を盛り上げようとして 悪気がまったくないのに 人を傷つけてしまう、 そんな失敗をしてしまったとき、 「無意識だから防ぎようがない」とあきらめないで、 自分の「油断ポイント」を 知っていくといいんじゃないだろうか。 先週の、 「いったんけなしてから、ほめる」やり方には、 国内、海外からもいいお便りが寄せられた。 この2通、まず読んでほしい。 <人はプラスの言葉よりマイナスの言葉の方が印象に残る> ホステスをしています。 「いったん落として、持ち上げる」というのは 時として人を傷つける、その通りだと‥‥。 常連のお客様の一人に、 「初めお見掛けしたときは 話しづらそうな方かと思ったのですが、 実際お話しすると優しい方で安心致しました。」 という趣旨の事を以前言いました。 これはそのお客様に対する私の正直な感想でもありました。 そのお客様の席にその後も何度かつかせて頂いた数ヶ月後、 ふとした話の流れの中で、 「前に、『怖そうに見えた』って ○○ちゃん(私)に言われたよねー」 とお客様が何気なく言われた時、 「しまった」と思いました。 私としては、“お客様って優しいですよね”、 という事を表現したかったのに、 お客様は(前置きの)“話しづらそうに見えた” という部分をより深く受け止めていたのです。 さらに、お客様の中で 「話しづらそうに見える」→「怖そう」と解釈していた。 (私自身が覚えている限りでは 「怖そう」とは言っておりません。) 自分に対するマイナスの評価の言葉というのは、 誰しもなかなか忘れられない。 忘れられないどころか、 よりマイナスの解釈へ持っていくことがある。 しっかり反省して今後のコミュニケーションに 役立てて参りたいと思います。 (Nori) <場を盛り上げようとして> 「あとよし言葉の落とし穴」、 私がずっとモヤモヤしていた思いは これだったんだ!と、胸のつかえが 取れるような気持ちでした。 忘年会のときの事です。 50代の男性にいきなり言われました。 「以前は君の事が大嫌いだったんだ。 もう側にも寄れない! ってぐらい。 でも、今はこうして仲良しだよね〜。 話してみないと分からないものだね〜。」と。 恐らく彼は私を褒める意味で言ったのでしょう。 確かに私はふざけてばかりいて、 軽く見られる事が多かったです。 でも、私がある大会に出場する事になり、 そこに居合わせた彼は 私への印象が変わったのだそうです。 彼はその時の感動した思いを何度も語ってくれ、 周りの人にも「この人はすごいんだよ」と よく言ってくれていました。 彼の言っている意味は分かったので、 その時私は精一杯笑顔を作りましたが、 きっと顔は引きつっていたと思います。 最初に言われた「大嫌いだった。側にも寄れない」 という言葉が、刺さってしまったのです。 席を立って帰りたくなるのを必死で堪えました。 彼は、最初にうんと悪く言う事で 「今は仲良し」のくだりが強調されると、 劇的な効果だと思ったのでしょう。 しかし、私はその一言で、それまで話していた事も 食べた料理の味も吹っ飛んでしまいました。 その日の記憶は、その言葉だけです。 彼と仲良しである事はちっとも嬉しくなくなりました。 彼は話術にかなり自信を持っている人です。 実際、抑揚のある話し振りでいつも内容も面白く、 しかし同時に自分の言葉に酔い、芝居がかり過ぎて 話が長くなる傾向もある人でした。 彼は場を演出する事がメインになってしまい、 発した言葉が人を傷つけていることに無頓着に なってしまっていたのですね。 私自身が話すとき、 多少インパクトは弱くても、相手を傷つけたくない。 彼の言葉に傷ついた今、 その思いは強くなりました。 正直な気持ちを伝えるか。話を面白く演出するか。 相手が心を開いてくれるのは どちらなのでしょうか。 (Tさん) 人は自分へのプラスの言葉より マイナスの言葉のほうが印象に残りやすいものだ。 接客の現場から寄せられた 読者の言葉に痛く共感した。 私は、たとえ人を傷つけても 言うべきことをズバッと言わずにおられない性分だ。 傷つけることを恐がって言いたいことを言わないのは、 臆病ではないかとまで、思っていた。 だが実際、自分がメディアに出て、人の反応を浴び、 マイナスの言葉が予想以上に、 黒く濃く長い陰を落とすことを考えると、 「マイナスを与えない」コミュニケーションも ありなんじゃないか。 決して、臆病や、消極的などではない。 むしろ、忍耐や想像力など主体性がないとできない 行為なんじゃないか。 実は、強く優しいことではないか、 と思うようになってきた。 例えば、結婚式とか、 コツコツお金を貯めて記念日に 家族旅行をされているご一家とか、 相手の一生の思い出に残るようなシーンではとくに 「マイナスを与えない」ことに細心の注意を払うことが 必要なんだと。 ところがそのような大切な日に限って、 善意がアダになることもある。 私が会社に勤めていたころ、 コトブキ退社をする友人の送別会に行ったときのことだ。 余興として、同僚たちからクイズが出された。 彼女のエピソードを盛り込んだクイズで、 おもしろ、おかしくつくってあり、 私たち参加者は、おおいに笑い、盛り上がった。 ところが後日、彼女が沈んだ顔で私に言った。 「ケガのことまでクイズに出されるなんて‥‥、 それでみんなに笑われるなんて‥‥ヒドイ。」 彼女のそそっかしい一面を表すエピソードとして、 うっかり壁にぶつかってケガをしたことが 3択クイズで採りあげられたのだ。 正直、私はそのとき、 彼女の気持ちをわかってあげられなかった。 なんで、そのくらいのことを気にするの? みんな彼女のそそっかしさに ほほえましさや好感を感じこそすれ、 ぜんぜん悪い印象なんてもってなかった。 楽しい席のことなのに、こだわる必要ないのにと。 ところがそれからほどなく、 私自身が、彼女とおなじ目にあい、 その気持ちを思い知らされることになった。 私の転勤の送別会で、 やっぱり私のエピソードを盛り込んだ クイズが出されたのだ。 そのとき、家族のことがネタにされた。 みんな笑ったが、私は、笑えなかった。 その瞬間さっと内面が冷え、 そこからまったく楽しめなくなった。 どうしてか、十年以上たったいまだに、 そのときのくやしさがふっとよみがえることがある。 その日、同僚からは いい言葉や優しい言葉もいっぱいもらったはずだ。 なのに憶えていない。その一件だけが記憶にある。 自分が経験するまでわからなかったが、 痛い思いをして、当事者になってみて初めて、やっと、 コトブキ退社した友人の気持ちが身にしみた。 同僚がクイズにしたエピソードで、 彼女がケガをしたのは顔だった。 でも、ずいぶん前のことだったし、 ケガはたいしたことはなかったし、 あとも残らずきれいに治っていたし、 彼女も努めて明るかったので、みんな笑い飛ばしたけれど、 女の子だったから、ケガした当時は内心不安があったろう。 彼女は結婚を期にやむをえず会社を辞めたものの、 ほんとうに仕事をがんばっていた。 ながく勤めた職場を去る日、どくとくの感慨があり、 心はデリケートになっていただろう。 みんなと思い返し、 共有したいエピソードは他にあったろう。 わかってあげられなくて、すまなかった。 2つ疑問に思う。 私と彼女がまったく同じ経験をしたのは 単なる偶然だろうか? 最初私が、彼女の気持ちがわからなかったのは 私が特別鈍い人間だからだろうか? 「場を演出する事がメインになってしまい、 発した言葉が人を傷つけていることに無頓着に なってしまっていた」 という読者のTさんの言葉にはっ、とする。 私たちは、ふだん、人に対して 敏感にセンサーをはってないと 人間社会でやっていけない。 だから、いつもは緊張している。 ところが、悪意ではなく、 「場を盛り上げよう」という善意にかられたときに、 繊細さを欠き、個人の気持ちを手段にしてしまうような 過ちもおきやすくなる。 結果として、みんなにウケたこと、 より多くが楽しめたことはいいんじゃないか、 と片付けやすい。 場の要求や効果から物事を見てしまい、 個人の気持ちを「そのくらいのこと」と 軽視するようなことも おこりやすくなる。 場を盛り上げようとして。 私もお調子者なのか、妙なサービス精神なのか、 盛り上げなければと、つい、 「場」に奉仕したもの言いになってしまうことがある。 そのとき、話題に取り上げた人物への 細かい心遣いを欠きやすい。 「正直な気持ちか? 演出か?」 というTさんの問いかけは、 「だれの気持ちを一番大切にしてますか?」 という問いかけにも聞こえる。 場を盛り上げようとするとき、 自分はだれを大切にしてるんだろう? いま、この場で、 自分が一番大切にしたい、と思っているのは、 一番大切にしなきゃならないのは、 本当は、だれの気持ちだろうか? 場を盛り上げようとするとき、 人の気持ちに対する 油断ポイントも近づいている。 |
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2009-01-21-WED
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