おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson430 話そう 「けなして、ほめる」という話法、 結局、つかっていいの? 悪いの? どうすればいいの? と、ここ数回読んできた人は思うかもしれない。 いま、私はこう思う。 この話法は使っていい、と。 だけれど、 結婚式など、相手の一生の思い出に残るシーンでは、 極力、事前に「原稿を書いて準備する」ようにし、 くれぐれも、相手を少しでも傷つける内容になってないか? 相手にとって嬉しい内容になっているか? 慎重に、何度も何度も見直してほしい。 「けなして、ほめる」話法は、 難度が高く、素人がうっかりつかうと 相手を深く傷つけかねない。 そのため私自身、この話法を封印しようとしていた。 ところが、読者から、 ときに、この「けなし」の部分に、 日ごろから言いたくても言えなかった本音がこもる こともあるんだと教えられ、 「だとしたら、この話法を封印してはいけない」 と改めさせられた。 私たちは、自分の想いを表現する訓練を受けていない。 だから、大人になっても、 自分の想いを出せない、出し方さえもわからないという人が いっぱいだ。 けなしてほめる話法が、少々不具合でも、 素人が日常的に、 本心を小出ししていける発路になっているなら そこに、フタをしてはいけない。 「それで傷つく人がいてもいいのか?」 と思う人もいるかもしれない。 人が傷ついていいのではない。 だからこそ、はやいうちに失敗を繰り返しながら 自己表現の出し方を覚えるのだ。 いまの日本人に、 わずかでも表現の通り道を塞ぐようなことをすれば、 窒息してしまう、 表現教育で全国をまわっている私の実感だ。 排泄機能を担当しているお医者さんなら、 ずっと出せなかった患者さんが、 おもらしをしてしまったと聞けば、 「よかった」とおもうにちがいない。 本人やまわりはそれを「失敗」ととらえても、 「どんな形であれ、体の外に出てくれてよかった。 出せないことのほうがよっぽど問題だ」と。 表現をめぐる現状はそれと同等の せっぱつまったものがある。 日常のガス抜きのようにして、 たまった想いを小出しにできていれば、 大きな衝突や決裂は避けられるかもしれない。 また、それが多少きつい言葉になって 出てしまったとしても、 まだ、言葉ででたほうがましだと私は思うのだ。 言葉化されなかった想いは いつか必ず別の形になって表れる。 心身の病気、問題行動、犯罪のような形で出るより、 まだ、言葉で出てくれたほうがいい。 だからといって人を傷つけていいわけではない。 「けなして、ほめる」という話法の落とし穴に、 対応するすべを、 読者に知恵をいただきながら2つ提案したいと思う。 先週、実家が葬儀屋さんを営んでいるというルナさんの メールを紹介した。 葬儀屋さんは、亡くなった人をおくるというだけでなく、 残された家族の悲しみを癒したり助けたりする方向で プロの力を提供してくれる仕事なんだと、 私自身、最近気づかされた。とても新鮮な発見だった。 そのもっとも人間の機微に繊細なプロが、 お祝いの花束をつくるとしたら、 だれよりも礼儀や相手の気持ちに添ったものになるに 違いない。 しかし、高校のとき、先生の出産祝いの花束を ルナさんのお母さんがつくることになり、 クラスメイトは、誤ったイメージから、 「菊を入れるな」「黒いリボンをかけるな」と ルナさんにおもしろおかしくはやしたてる。 ルナさんは先週 そのときの気持ちを勇気をもって投稿してくれた。 これは、ルナさんと同じような体験をしたという読者、 いわば、先輩からのメールだ。 <気持ちを表現する> 私の実家は精肉店です。 ルナさんと同じ様な体験を、小・中・高としてきました。 ルナさんのお友達のように 「気にしているの?」と言ってくれる 人はいませんでしたが。 もし、そんな言葉をかけてもらっていたら、 私も泣き出してしまったでしょう。 私も数年前まで、 「可能な限り人を傷つけないように、 人と衝突しないように」 と生きていました。 傷ついた体験を持つと、 傷ついた人を敏感に感じるようになります。 極力、誰かを傷つけるような事態にはしたくない。 私はその人の傷に気付いたのだから、 助けたり癒したり何か力になりたい。 「その場の空気」を細かく見極めて、 大きな波が立たないように、 なるべく水面が平らになるようにと 自分の力を無意識に注いでいました。 ですが、いつもそれができるわけではありません。 それに、「傷つけない」という不安から来る行動は、 自分の気持ちを置き去りにしていました。 自分の気持ちを置き去りにした行動は、 じわじわと自分を蝕みます。 さらに、私のことを大切に思ってくれ、 私の幸せを願ってくれている人を大きく傷つけていました。 それを知ったのが、数年前でした。 私は、ルナさんのことを臆病者だとは思いません。 まだ傷が癒えていないのではありませんか? 誰だって、血をダラダラと流したまま、 走ったり跳んだりすることは無理ですよね。 人の心の奥を、即座に理解することはできないと思います。 いつもみんなが傷つかないようにすることも、 残念ながらできません。 私たちは全知全能の神様ではないのだから。 傷ついた体験を持つ者が傷を癒した後にできることは、 傷つけられたときに、 「そんなこと言われたら悲しいな」 「ちょっと傷つくよ」 と表現することではないか、と今は思います。 気持ちを表現することは、 誰かを責めることとは違うと思うのです。 その場の空気が少しくらい悪くなっても、 大人げないと思われても、 自分の気持ちを表現したことで 誰かが一瞬傷ついたとしても、 自分を置き去りにせず、状況を受け止めて引き受ける。 きっと伝わると信じてみる。 ついつい空気を読み、 バランスを取ろうとしてしまう私にとっては、 それがチャレンジになっています。 (今野) 私もルナさんを臆病者だとは思わない。 傷ついた人間が、他の人に同じ想いを味わわせたくない と思うのは、すごくまっとうなことだと思う。 そのステップをじっくりとちゃんと踏んだ人だからこそ、 今野さんのいうように次の段階に進んでいけるのだと思う。 意図しなくて、つい、傷つけてしまったほうも、 それで、ひどく傷ついたほうも、 「話す」ことなんだと、今野さんに教えられる。 「話す」ときに肝心なのは、今野さんのいうように 「想いを表現する」ことだ。 このような場合、たとえ話したとしても、 「ひどいじゃないの」 「ぼくが悪かった、ごめん」 のように、良い悪いをただ「裁いているだけ」で、 気持ちにフタをし、 実は、なにも表現できていないことが多い。 そうではなくて、傷ついたほうは、 「胸がずきんとしめつけられるようだった」 「悲しい気持ちになった」と 自分の気持ちの色や手触りを表現して伝えることだ。 また私自身、 傷つけられたケースを思い出してみて、 相手から聞いてみたいのは、やはり、 相手の根底にある想いだ。 「あのようなことを言ったのは、なぜ? ほんとうはどんな気持ちを伝えようとしたの?」と。 「けなし」には、言いたくても言えなかった 相手の本音がこもることもあると聞いて、 私は、私を傷つけた相手の気持ちを考えてみた。 私自身に問題があり、私の言動が、気づかぬうちに、 少しずつ、少しずつ、 相手にストレスを与えていたのかもしれない。 もしそうなら、やはり知っておきたい。 あるいは、どこか何かに誤解が生じていて、 相手は誤解によるストレスをつのらせたのかもしれない。 もしかしたら、私自身に直接原因のない、 相手自身のおいたちや、 状況からくるストレスかもしれない。 それを理解すれば、傷の模様もかわるかもしれない。 相手がいいかわるいかと、責めるよりもまず、 相手がなぜ、それを言わずにはおれなかったのか、 まず、相手の気持ちを引き出して、聞いてみたい。 「話す」ことは、一番簡単にできそうだと思っていると、 実は、自分の想いを表現したり、 相手の深層にあるものを引き出したり、 かなり億劫で、面倒で、勇気もいることだけれど、 そこから通じ合うこともある。 「話す」ことと、もうひとつの対応策が、 人をほめるときなどに、 「自分らしい表現方法を持つ」ことだ。 これについては次回お話したいと思う。 |
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2009-02-04-WED
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