おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson435 うらまない表現 うらみの感情ほど、 表現を曇らせるものはないんじゃないか。 自分らしい、かつ、人に伝わる表現 をしていこうと思うなら、 うらみの感情をはやく手離したほうが いいんじゃないか。 表現教育の現場で、 一般の人の自己表現をみていて、そう思う。 生徒さんの表現から、 思わぬ深刻な問題を聞いてしまうことがある。 重い病気があったり、 失業して思うように働けなかったり、 家庭内に深刻な問題があったり‥‥、 でも、そうとう深刻な状況にいる人の話にも、 聞いている人たちに、明るい笑いがおきたり、 爽快感すら感じることもある。 一方で、比較的被害の程度は軽くても、 「この人の話は何かスムーズにはいってこない」 もっと言えば、「何を言いたいのかわからない」 とさえ感じるときがある。 そういうときは表現者の根に 「うらみ」の感情があるように思う。 「うらみ」が、 話の秩序をかき乱し、 方向性を失わせ、 判断を鈍らせているように思うのだ。 「うらみ」はどのような心の働きだろう? そこから自由になるにはどうすればいいのだろう? ゆとり世代という学生さんに触れて、 先日、「ああ、そうか」 と気づかされることがあった。 学生さんは部活で体罰を受けていた。 致命傷こそ負わなかったものの、 あやうくそうなるすれすれで、 かなりの怪我も負った。 学生さんは、 その場から離れることで身を守ったが、 逃げ出したということで部から責められたそうだ。 つらい話だ。ふつうなら聞くほうもつらい。 けれど、この学生さんの話は、 聞いていて、明るい、 なにか爽やかな感じすらするのはなぜだろう。 「うらんでない」のだ。 自分に怪我を負わせた人や、 その場から離れる自分を悪く言った人に対して、 うらみの感情がない。 拍子抜けするほどに、学生さんはなぜ、 うらんでないのだろう? 「意志が働いた」、と私は思うのだ。 致命傷すれすれの怪我を負った時点で、 学生さんは、 「怪我をしたから医者に診てもらいたい。 帰らせてほしい」 とはっきり口に出して頼んだ。 でも集中練習期間、許されない。 泣き寝入りという状況もあるなかで、 学生さんは、こういう問題に詳しい人に電話をした。 そして、 「この体罰は必ずしも愛情と言えないのではないか」 という見解を聞く。 そうして自分自身、どうしたいか考えた。 「怪我をした箇所は、 体の中でもとくに大事なところだ。心配だ。 私は、医者に診てもらいたい。」 学生さんは、医者に診てもらおうと決め、 自分の意志でその場から帰った。 「人からどう思われても、悪く言われても、 自分は自分のやりたいことを知っているし、 それを、これからもやっていこうと思う。」 と学生さんははっきり言った。 この学生さんは他にも、ある人から、 いじめにも似た陰湿な言葉の攻撃を受けている。 以前、学生さんがその人に注意したことを、 根にもってか、学生さんが弱っているときを狙っての バッシングだった。 「いまその人に何を言いたいか」 という私の問いかけに、学生さんはよく考えて、 「つきあいをやめたいわけではない」 ときっぱり言った。 どうして?卑怯ともとれる攻撃に、 顔を見るのもいやになってしまわなかったのだろうか? 私の疑問に、学生さんは、 「その人との、 過去の付き合いをふりかえって考えたときに、 自分が、その人から言われたことを取り入れて よくなったことがあったからだ。 だから、もう、つきあいたくないのではない。 生かしあう関係に変えていきたい」と言った。 私は、この学生さんは、 「自分を生かす選択」 というものをよく知っているなと思った。 「その人のせいで自分はやりたいことがやれない」 そう思ったとき、 人はその人を恨むのではないか。 自由は、相手ににぎられたままだ。 でも、学生さんの言動は、 自分には納得しかねる怪我を負い、 しかしその場を去れば悪く言われるのは必至、 という、 「限られた選択肢、ぎりぎりの局面のなかでも、 やりたいことをやる余地はある」 と教えてくれる。 学生さんは、「自分は医者に診てもらいたいのだ」 という自分のやりたいことを知っていた。 その1点、ささやかな自由が行使できたから爽やかなのだ。 同じく、いやな思いをさせられた相手を 切る自由もあれば、つきあいつづける自由もある。 「どちらが自分を生かすか」と考えて、 関係をつづけることも、 感情的な抵抗に負いこまれ、囲い込まれた中での、 ぎりぎり自由の行使だ。 もし、感情の抵抗に負けて、 心根ではつきあいをつづけたいと思っているのに、 切ったとしたら、 「あの人が、あんなことをしなければ おたがい、生かすつきあいもできたものを‥‥」 とやがて相手をうらむようにもなる。 「その人のせいで自分はやりたいことがやれない」 うらみは、他者に自由をにぎられているという 心の働きだとすれば、その表現が、 自分自身を、もっと言えば聞く人を、 自由にするはずがない。 表現は、自分の最も言いたいことを言うという、 極めて、やりたいことを行使する場だ。 自分の「やりたいこと」から 話の秩序がつくられ、 話の方向性ができ、 言葉の選択や、テーマの決定など、 大小さまざまな判断ができていく。 「やりたいこと」をだれかににぎられたままでは、 話の方向も秩序もぐちゃぐちゃになり、 判断が鈍るのもあたりまえだ。 うらみの感情は、まったく切り捨てられるものではなく、 なにか必要があって人間にあるものだと思う。 表現においても、そういう感情をまったく抱かない人が いいかというと、そうでもなく、 うらみの感情を抱きながらも、うずくまらず、 そこから自由になった人のほうが、 表現に奥ゆきがあってしみるように思う。 「その人のせいで自分はやりたいことがやれない」 とおもうとき、 自分はどうしたいのか? ほんとうにそれはやれないのだろうか? 追いつめられた自由、限られた選択肢のなかでも、 自分はどうしたいのか? 自分を最大限に生かすには? と考えてよいし、考えなきゃいけない、と、 学生さんのうらまない表現が教えてくれる。 それでも、やりたいことをやる! うらみから自由になる術はそこにある、 と私は考える。 |
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2009-03-11-WED
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