YAMADA
おとなの小論文教室。
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Lesson446 さらわれる力


ダメな大学生は、どこがダメなのだろうか?

誤解がないように言っておきたいが、
私は、いまの大学生がダメだと言う気なんか
さらさらない。

優秀だと思っている。

こちらがへこむくらい、
同じ組織にはいったならリーダーとしてあおぎたいくらい、
すごい大学生にも、数々、会ってきた。

ただ、フリーランスという立場で、
さまざまな大学に呼ばれ、
あまりにさまざまな大学生に触れるものだから、

とにかく、すごくちがうな、と。

大学によってもちがうし、
同じ大学でも学生によって、ひとりひとりちがうから。

なにがちがうんだろう? と。

高校なら暗記学力の得点で、
社会人なら売り上げなどの実績で、
よくもわるくも、ある程度、説明がつく。

でも、大学生で、ダメっていうのは、
なにがダメなんだろう?

頭の中をよぎるのが、大学の先生たちのこんな言葉だ。

「具体例にしか反応できない人」
「身近な問題しか関心がもてない人」
「卒論が書けない人」
「文章を読んでも筆者が何を言いたいのか要約できない人」
「本やマンガが読めない人」だ。

近年、学生に限らず、どこで講義をしても、
具体例への食いつきが、驚くほど、いい。
だから私は、講義に具体例を多く取り入れるよう、
ただし、具体例がしょぼいと、主題まで凌駕されるから、
具体例は心してつくれ、
と自分に言い聞かせているくらいだ。

そう思いつつも、いっぽうで、本来脇役の具体例が、
こんなに主役化されてしまって、いいものか、
という疑念もある。

だから、「具体例にしか反応できない人」の存在は衝撃だ。

言うまでもなく、具体例は、あくまで
「ある抽象的なこと」を言うための手段だ。

本来、抽象的な理解に優れた人なら、
なくても通じるものだ。

いくつかの具体例を取り入れた講義なら、
1つの具体例を聞いては、そこで言わんとする抽象的なこと
を1つ、つかみ、
次の具体例を聞いては、そこで言わんとする抽象的なこと
を、また1つ、つかみ‥‥、それを繰り返して、
最後には、つかみとったいくつかの抽象的なことを
関連付けて、
さらに上位にある、抽象的な大切なこと、
をつかんでいるのが望ましい。

だが、近年、具体例だけ拾うように
聞いている人がいるという。

講義後の感想を書かせると具体例のことしか残ってない。
なにか意見をというと、
あくまで具体例の中の出来事にしか、ものが言えない
そういう人がいるというのだ。

「具体」から「抽象」へ、「抽象」から「具体」へ
という頭の中の変換が、どうも、
うまくいってないようなのだ。

人の話を聞いても、本を読んでも、
まるで「連続ドラマ」を見るように、
具体から具体へはしごをし、
最後に具体しか残らないのであれば、
わざわざ、大学で抽象的な学問をする意味はなんだろう?

「身近なことと結びつけて」、
これも私が講義で心がけていることでもあり、
一方で、問題意識を持っていることでもある。

学生たちはやはり、
学生にとっての身近な問題と関連づけて話すと、
とても食いついて聞いてくれる。
だから「身近な問題に引きつけて」を
モットーにしながらも、
一方で、「自分とかけ離れた遠い世界」を知るのが
大学の醍醐味だろうとも思うのだ。

現代とあまりにかけ離れた時代の学問や、
日本とはまったく違う外国の学問をする先生たちは、
身近な問題にしか興味が持てない人に
どう興味をもたせたものか、頭を悩ませている。

身近な問題と関連づけると、そこだけ、目を輝かせて聞き、
自分から少し遠い問題になると、
とたんに興味を失ってしまう。

遠いと言っても、その距離が、
近年どんどん小さくなってきているらしいのだ。

「卒論が書けない人」というのも、
それと重なっていて、
自分とは、かけはなれた遠い時代のことや、
日本とは、かけはなれた外国のことに、
興味が持てないから、
結局は、「自分がどこにいるのかがまったくわからない」
という。

それは情報化社会の若者だから、
学校の勉強で、縄文時代や江戸時代という言葉は
習ったろうし、
世界地図と言われれば、アメリカがあのあたり、
と見たことはあるだろう。

けれども、そこにリアルな関心がないため、
自分と地続きではない。

だから、自分が歴史の中で、どんな流れをたどった果ての、
どんな時代に立って、ものを言っているのかわからない。
世界の地理を頭に描いて、そこと地続きのものとして、
日本が世界のどこに位置づき、
自分がいまどこに、諸外国とどんな位置関係で
立っているか、わからない。
これは論文を書くときに、なんと心もとないことだろうか。
地図も方向もまったくわからず車を運転するようなものだ。

「文章を読んでも
 筆者が何を言いたいのか要約できない人」も、
「本やマンガが読めない人」も、
ここまでの話と関係していて、

自分に身近な、興味ある部分を、拾って読んでいるため、
ひととおり文章読んでも、
「では結局、筆者はこの文章で何が言いたかったのか」
と聞かれて、説明できない。
筆者のいる、あちら側の世界につかみにいけないのだ。

また、最近のマンガは、言わんとするところがとても
抽象的で深いものが多い。
絵と、言葉と、抽象的な主題、それらを行き来するから、
本よりも、むしろ、マンガのほうが、
「具体」から「抽象」へ、「抽象」から「具体」へ
という頭の中の変換作業が激しく問われることがある。
ついていけない人がいるというのも、うなずける。

ここまでを考え合わせると、
わざわざ高いお金を払って大学に学問にきているのに、
ダメな人というのは、ひとつには、

「いまの自分の世界から出られない人」

を言うのかなあと思う。
すべてを、自分側の、狭くちいさな関心に
引き寄せてとらえ、
そこにひっかからないものは、スルーしてしまう。
自分とは遠い、関係のない、スケール感のちがうものを、
つかみにいったり、くらいついたりして、
自分の世界をうんと遠くへ広げることができない。

いや、「広げる術を持たない」と
言ったほうがいいかもしれない。

同じ一冊の本を読んでも、
自分側の狭い世界に引き込んでしまうか、
初めての、とんでもなく遠く、抽象的で、
わからない世界に、
くらいついてとりにいくか?

こんな話をしていたら、ある編集者さんが、
松岡正剛さんの言葉を引用して、

「本にさらわれたい」

と言った。
自分の生活圏にない、はるか遠い世界にさらわれるには、
「さらわれる」だけの能力が要るんだなあ、と思う。

具体例の拾い読みをする人に必要なのは、
はるか遠い世界に「さらわれる力」なのかもしれない。

「さらわれる力」はどのようにして伸びるのか?

自分自身、ここまで書いてきて、
はずかしいほど、自分の世界を広げる努力ができておらず、
えらそうなことは言えないのだが、
たったひとつだけ、
遠く自分と関係のない世界に、つかみにいく努力として
言えることがある。

「文章の要約」だ。

本をあまり読まない私が、
どうしてこのような読み書きの教育に携わって
いられるのか、というと、
22歳のときから15年7ヶ月、仕事のなかで
日々コツコツ、ずっとつづけた、「要約」だと思う。

小論文の編集者として、入試小論文の資料文や、
大学教授が書いた解説を読み、
それを高校生に伝えなければならなかった。

しかし、それらの文章は、私にはあまりにも難しいもので、
何回読んでも、頭に入ってこなかった。

いちばん躓いたのが、「論理の息」の長さだ。

研究者の書いた文章は、日常会話のように、
ワンフレーズで完結するような話ではない。
「AであるからB、BはCという原因から生じており、
 CとDは並列の関係にあり、であるから‥‥」
というように、
話が、論理的な脈絡をもって、
3000字、5000字、と長い息で続いている。

100字でひとつのことを言っているのならつかみやすいが、
5000字の字数と、まとまった脈絡をもって、
筆者が言おうとすることをつかむのは、とても骨が折れる。

線を引きながら読め、と言われたって、
線を引いたくらいでは、
ブロックのように組み上げられた文章の、
段落と段落の関係や、
論理構成は解き明かせない。

社内の同僚も、社外のスタッフや先生も、
みな、本を読むのが苦でない、知的な人たちばかりで、
私は「難しくて読めない」という劣等感を
打ちあけることさえできなかった。

そのとき、自分がやったのは、とてもベタなやり方だが、
1段落読んでは、「要するに」と、自分の言葉で、
そこで言っていることを短く言い換えて、メモする。
また、1段落読んでは、「要するに」と、自分の言葉で、
短く言い換えて、メモする。
これを、粘り強く、最後までつづけることだった。

短く言い換えても、理解があやふやなもの、
「ここの意味が読み取れた」と腑に落ちないものは、
「たとえばどういうことか」と
自分なりの具体例を言ってみた。
すると、堅い食べ物をかむように、その段落の意味が
飲み込めた。

最終段落まで、自分の言葉で要約し終えたら、
あとはしめたもので、今度は、
自分が要約したものだけを最初から最後まで読む。
すると、全体の論理構成が
浮かび上がるようにわかってくる。

このようにして、論理構成がつかめてから、
もう一度、もとの文章を通して読むと、
まるでウソのように、
明快に、筆者の言わんとすることが、すっ、すっ、と
頭に入ってくる。

読むというより、食べるような、
自分のものにしていくような作業だった。

私は、その地道な作業が、なんとも言えず好きだった。
わからなかった文章が、どんどん自分のものになっていく。
堅い・難しい・専門外のものほど、
噛んで、食べて、自分の腑に落ちたときに
なんとも言えない満足感があった。

読みこなした文章は、もう他人のものとは思えないほど、
論理のすみずみまで、からだの中にはいっており、
ついつい、うれしくて、うれしくて、
本のウケウリを家族や友だちに披露して
不思議な顔をされた。

あの要約のコツコツとした時間がなかったら、
私は、いまも、小さい自分の世界から出て行けない、
出る術をもたない人間ではなかったか、と本当に思う。

出会うことなら、顔を合わせても会えるだろうが、

自分とは違う世界の住人には、何が違うって、
違う論理の脈絡があり、自分にはないような
論理の息の長さがあるんだということを、
実感を持って教えてくれたのは、文章だった。

いかにして、いまの自分から、とんでもなく遠いものと
出会うか、つかみにいくか?

あなたはどうやって、ここまで、さらわれてきたのだろう?

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2009-06-03-WED
YAMADA
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