おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson452 生かすために捨てる 人生の「ここぞ」というところで、 惑わされず、潔く、 自分に一番大事なものを選択できる人って、 どこがちがうんだろうか? 先日、女である私が女にホレる、というか、 ホレボレするくらい、捨てっぷりのいい女性に会った。 彼女は、人生の岐路で、 自分にとって一番大事なものを、見抜き、選び、 それ以外のものをびっくりするくらい惜しみなく、潔く 捨ててきた。 苦労はあっても、結果的に、彼女は、 仕事もすごくうまくいって、多くの人を元気にし、 恋愛も実り、最愛の人と愛情いっぱいの家庭を築き、 生き生きと、その命を生かしている。 彼女は、なぜ、そんな選択をしてこられたのか? 悲しいことがあったとき、 私たちは、悲しみに「目を曇らせて」しまい、 いちばん大切なものを選択しそこなうことがある。 以前、知り合いの美容師さんに、 「失敗して、お客さんの髪をヘンに切ってしまったとき、 どうやっておわびをするんですか?」 と聞いたことがある。 美容師さんは、「私自身の経験じゃないんだけど‥‥」 と、仲間の美容師さんの、こんな話をしてくれた。 その日、お客さんは、 切られた髪に納得がいかなかった。 そうとうに気に入らなかったらしく、 怒りがおさまらなかったのだろう。お客さんは、 自分の髪を切った美容師さんに向かって 「あなたも髪を短くしろ」と要求したそうだ。 あやまっても許してもらえなかった美容師さんは、 お客さんに言われたとおり、自分の髪を切ったそうだ。 選択は個人の自由だといっても、 私はこの話を聞くやいなや、「なんか、ちがう」と思った。 もっとなにかを「生かす選択」はなかったのか? たとえば、後日、すこし髪が伸びたところで、 店でいちばん腕のいい美容師に、ただで、 髪を整えてもらう約束をもらうとか。 それなら、店一番の腕のいい美容師の腕も生きるし、 時間がかかっても、そのお客さんの髪も生きる。 生きる・生きるの選択になる。 けれども、自分の髪が気に入らなかったからといって、 相手の髪まで切らせてしまっては、 つぶす・つぶすの選択になる。 お客さんは、それだけ怒るということは、 そうとうに自分のアイデンティティにそぐわない 髪だったんだろう。 「髪を切られた、心がつぶれた」 という心境だったかもしれない。 その痛みは本人にしかわからない、軽いものじゃない。 けれども、結果的に、自分と同じように、 「不本意な髪型」をしなければならない人間を もう一人つくる ということは、つまり、2つの心を「つぶす」結果になる。 悲しみ、それだけでは人の選択眼は曇らない。 悲しみに「うらみ」が入ってきたとき、 目は曇るように思う。 なにか悲しみがふりかかってきたとき、 人は、悲しみを与えた張本人に制裁を加える という選択をしがちだ。 わたしもよく、そういう思いにとらわれる。 しらないうちに、「うらみ → はらす」という発想を すりこまれていないだろうか。 映画「GOEMON」には、 「おっかさん」を殺された少年の 「あだ討ち」のシーンがある。 少年「小平太」と病気のおっかさんは、 まずしいながらも、いたわりあって生きている。 わずかな食べ物を、 小平太はおっかさんに食べさせようとし、 おっかさんは、「私はいいから、おまえお食べ」という。 ある日、小平太は暴漢に襲われ、 病気のおっかさんは、命がけで必死で小平太をかばう。 そして、小平太の目の前で、おっかさんは 小平太をかばって、惨殺されてしまう。 ひとりぼっちになった小平太を、 主役の石川五右衛門がひろい、 ただひとつ、「強くなれ」ということを教える。 小平太は後日、暴漢に再会し、母のかたきを討つ。 時代劇によくある話だ。 一般の時代劇なら、ちいさな少年が、 自分より体の大きな暴漢をしとめたところで拍手喝采だ。 当然ながら、私もそんなモードで映画を見ていた。 ところが、石川五右衛門は、小平太を叱り飛ばすのだ。 そんなことをして、死んだ人が喜ぶとおもっているのか? 死んだ人間は、そんなこと、ちっとも望んでないんだよ! 「強くなる」というのは、 そんなこととは全然ちがうんだ! と。 「強くなる」とはどうすることだろう? 私は、この時代劇らしからぬ展開に しばしあっけにとられ、 口をあけたまま驚きを隠せなかった。 驚きの理由は2つある。 ひとつは、石川五右衛門の言うことがあまりに そのとおりだったからだ。 時代がどうだろうが、理由がどうだろうが、 自分が死んだ母親の気持ちになったとして、 自分のこどもに殺人をしてほしいか? 自分のこどもが殺人を思いつめ、 殺人を人生の目標にして生きることを望むだろうか? つまりその殺人はだれも望んでいない。 だれも望まない「かたきうち」を 使命として背負ってしまう。 そうした人間の心が、ひいては戦争につながることを、 この映画はものすごく真摯に訴えていた。 「かたきうち」の発想。 驚きの理由の二つ目は、「うらみはらす」という発想が、 なぜ時代劇だと、まかりとおってしまうのか、 ということだ。 英雄視されたり、拍手喝采をあびる、美化されている。 自分も充分そうして時代劇を楽しんできた。 映画「GOEMON」もそのモードで途中まで見ていた。 けれども、現代の殺人にまで置き換えなくても、 ちょっと考えれば、「うらみはらす」という発想が、 自分を生かさない、まわりも生かさない、 自分の愛する人も「生かさない発想」であることは すぐわかる。 悲しみに「うらみ」が入ってきたとき人の目は曇り、 澄んだ目ならわかることが見えなくなる、だとしたら、 私たちは、悲しみが押し寄せたとき、 どんなふうに、自分の歩く道を選択したらいいのだろう? 私も偉そうなことは言えない。 私もどうしたらいいか、おろおろしてとっても迷うと 思うのだけれど、 「このコラムの冒頭で紹介した女性」から 大切なことを学ばされ、自分自身、 目の覚めるような想いをしたので、 ここに謹んで書かせていただこうと思う。 人生の選択を、あまりに潔く行い、 人が捨て惜しみすることをも、欲張ることなく捨て、 結果的に、仕事も愛も得て、 人に役立って生きている彼女に、 「なぜなぜ、なぜそんなに潔くなれるのか?」と 私は、しつこくたずねずにはいられなかった。 彼女は高校生のとき、ご家族を亡くしていた。 それだけでも想像にあまりある、 どんなにつらいことかと思うのに、医療ミスだったそうだ。 高校生の彼女は泣きながら弁護士に訴えにいった。 彼女の話を十分に聞き終わった弁護士さんは、 彼女にこういうのだ。 「お金がほしいですか?」と。 訴訟を起こして勝っても、 亡くなった人の命はもどってこない。 現実的に考えて、一番いい形に裁判が進んで、 最高の結果がえられたとしても、 戻ってくるのはお金である。 裁判は、こちらの思う一番いい形に進むことは少ない。 長引くこともある。 長引いた場合は、その間ずっと、 自分にとって、いちばんつらい、苦しい、悲しいことを、 何度も何度も口にし、 場合によっては何年も、 言葉にして説明し続けなければならない。 選択を迫られた彼女の胸中はどうだったろうか? 訴訟をするにしても、精神、時間、費用、 ものすごい覚悟がいる。 しかし、訴訟をやめるにしても、 どれだけの悔しさ、腹立たしさ、正念が要るだろうか。 訴訟をやるもやめるも、十代の高校生ひとりに、 とても背負いきれないほどの精神力が要る。 ただでさえ、あまりに大きな悲しみの中、 どれだけ多くの葛藤、 どれだけ大きな精神的苦痛があったか、 私は、想像も、筆力も、遠く及ばない。 想像を絶する葛藤の果て、考え抜いた果てに、 彼女は自分の意志で、訴訟をしない、という決断をする。 それを聞いてまっさきに思ったのは、 自分が亡くなった人の立場になったら、ということだ。 もしも、私が、愛する娘を残して旅立ったとして、 天国から高校生の娘をみたとき、どうおもうだろう。 16歳、17歳、18歳といえば、 人間としても、感性や、知性、さまざまな能力が、 磨かれ、ぐんぐん伸びゆくときだ。 人生というスケールで見ても、 この時期の選択が、進学につながり、就職につながり、 現実の目にする風景を、次々、大きく変えていく。 自分が天国にいる立場だったら、 死んだ自分のためにではなく、 娘が、与えられた能力を存分に生かし、伸ばし、 娘自身の人生を生きてくれることを心から望むだろう。 娘に、与えられた命を生かしてほしい、と。 彼女は「生かす選択」をしたと、僭越ながら私は思った。 誤解のないように言っておきたい。 私は、訴訟をしないことが 生かす選択だと言いたいのではない。 「自分が自分として生きるために、 そして自分の愛する人のために 裁判で事実を明らかにしたい、 事実を明らかにすることが、自分を生かすために ぜひとも必要だ」と考えて、戦うことは、 尊く、かけがえのない、その人の選択、「生かす選択」だ。 訴訟をするかしないか、それもとても大変な選択だが、 それよりも、さらに大変で深い、 その人の「それを決めた動機」が肝心なように思う。 後日、大人になって、仕事も成功してから、 彼女は、亡くなったご家族のことを本にされていた。 私は、玄関先でその本をひらき、 ひらいたらとめられなくなり、一気に読んで涙があふれた。 あたたかい涙が、あとからあとからあふれ、 欠点だらけの自分だけど、生きていていいのだと、 自分を生かしていきていこうと、希望にあふれた。 大人になった彼女が、本にしたのは、 制裁でも、糾弾でもない、 ご家族から受けた愛だった。 天国にいってしまったご家族から、生前、 どれだけ大きく、どれだけ深い愛を受けたか、 そのことが彼女にどれだけ勇気をあたえているか、 ただそれだけが、 読む人に愛が染み入るまでに温かく書いてあった。 「生かす選択」 それが口で言うほど、生易しくない、 壮絶なものだろうと思う。 思いながら、今の自分には、えらそうに語る言葉がない。 自分が高校生で彼女の立場だったら、 大学にいくのをやめ、今を生きることから目をそらし、 天国にいる人をよけい、 やきもきさせたかもしれないからだ。 けれども、これだけは、 彼女が身をもって教えてくれたことなので、 忘れないように刻んでおきたい。 悲しいことがあったとき、 目を曇らせず、惑わされず、執着せず、 生かす選択をしたかったら、 「愛」を動機に決断しよう、と。 どんな決断でも、どっちに行ってもいい。 自分の身にうけた愛か、自分が愛するだれかか、あるいは、 自分の人生や自分に与えられた能力に対する愛でもいい。 悲しみの中でも、必死でそっちにセンサーを向け、 思い出し、取り戻し、それを動機に、 ただひとつ「それを生かす選択」ができたらと私は願う。 愛するものひとつ生かす、 そのために他を潔く捨てる勇気こそ、 「強くなる」ことではないか、と私は思う。 |
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2009-07-15-WED
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