YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson453 恋するように嫌う


いつも「その話題」になると、
相手とギクシャクしてしまい、
コミュニケーションがうまくいかなくなる
というものはないだろうか?

私はある。

ある作家のことだ。

私はその作家が「嫌い」で、
編集者さんはその「作家」が好きだ。

それで、いつも、その作家のことが話題にのぼると、
編集者さんと、なんだかギクシャクし、
話をするのに倍エネルギーが要るような、
重い、苦しい感じになってくる。

話が終わったあとは、
消耗し、ぐったり疲れて、あと味も悪い。

こんなとき、心のなかで何が起きているんだろう?

私は、嫌いなものがほとんどない人生を送ってきた。

食べ物にまったく好き嫌いがない。

好きな人には関心があるが、
さして好きでない人のことをわざわざ考えもしないし、
関心も向かなくなるし、近づいていかないから、
結果的に、「嫌いな人」という存在もいないのだ。

だから、たぶん人生で初めての経験なのだ。
なにかを強く嫌うというのは。

作家といっても、小説を書く人、映像をつくる人、
絵や造詣、工芸とさまざまだ。
ここではジャンルを特定せず、ひろく
「ものをつくる人」という意味で「作家」と言っている。

ここではその人のことを言いたいんじゃなくて、
純粋に「何かを嫌う精神」のことを考えたいのだから、
あえて対象をぼかして「作家」という。詮索はご無用だ。

少し前のこと、その作家の作品を見た。

見終わったとき、「ざわっ」と体にいやな衝撃が走った。

それは、0コンマ1秒、あっという間の、
一瞬にして体を突き抜けるような、いやな衝撃だった。

あとから考えると、たぶん私は、その一瞬で、
会ったことも話したこともないその人を、
ただ作品を通してだけで、きらってしまったようなのだ。

そのときの私は、嫌いと名づけることさえできず、
なんとも言えない「あと味」の悪さに、
帰る道すがら、帰ってからもずっーと、
そのことばかり考えた。

なんなんだろう? なんなんだろう、この感じ。

いろいろと理由を考えてみた。
「ここがこうだから嫌なのか?
 こういう姿勢が受け入れられないのか?」
あげく、自分が嫉妬しているんだろうか、とまで、
あとづけでいろいろ理由をつけて、
自分を納得させようとした。

でも、納得していなかったのだとわかる。
なぜなら、それから数日間、考えたくなくても、
そのことばかり考えてしまっていたからだ。

無意識に、でも、どこかでせっぱつまって、
私は、記憶をたぐり、たぐり‥‥、ついに、

「この感じ、かつて味わったことがある!」

と、うっすら同じ感覚を過去に味わったことがあることに
思い至った。

それは、記憶する限り、ぜんぜん別の作家の別の作品だ。

案の定、ネットで検索してみると、やっぱり、
ぜんぜんちがう作家の名前が書いてあった。

次の瞬間、私は「ぎよっ!」とした。

なんと、スタッフ欄に、しかも主力のスタッフとして、
私の嫌いな、例の作家の名前があったのだ!!!

私は遠い過去に、まだ名前さえ知らず、
作品を通して、例の作家に出逢っていた。
出逢ってそして、まぎれもなく、
あの、いやなざわつきを感じ取っていた。

あのときも稲妻が走った。
コンマ1秒のいやな衝撃だった。

私は、現在にいたるまで、その人を嫌いな、
それらしい理由を探したが、結局、理由は見つからない。

理由などないのだ。たぶん、理由なく、なんか嫌なのだ。
しかも、かなりせっぱつまって、嫌いなのだ。

その後、どうしてなんだろう?

なぜか、その作家のことが話題に出ると、
平常心ではいられない自分があった。

いままでは、自分があまり好きでない、
どちらかといえば嫌いな作家の話が出ても、
相手がその人を好きだといっても、
「へーそうなんだ」「そんな見方もできるだ」と、
べつにざわざわせずに、話ができた。

ところが、その作家のこととなると、
その作家が好きだという人の話を冷静に聞けず、
その作家が好きだという人の感性を疑いたくなり、
しまいには、その作家が好きだという人に対してまで、
「そんならいいや、
 こんな人とは別につきあわなくても‥‥」と、
その人までもいやになってしまう感覚があった。

ちょ、ちょっと待て。

「考えることとか、教育を仕事にしている私は、
 こんな、ちっちゃい了見じゃいかん。
 嫌いな人がいるだけでも恥ずかしいのに、
 その人を好きな人まで嫌いになるなんて、
 どうかしている!」

これと似た話をどっかで聞いたな、と思ったら、
ある芸能人が、昔、アイドルのおっかけをやっていた話だ。

その芸能人は、昔、アイドルのおっかけを
「かくれて」まわりの誰にも言わずにやっていたそうだ。

だから、まわりはその人が熱狂的なファンとは知らず、
その人の前で、そのアイドルがいいとか悪いという。

それで、その人は、
自分の好きなアイドルをけなした人に対して、
絶対につきあわないことにしたそうだ。
これが冗談ではないから、ファン心理は恐ろしい。

先日、茂木健一郎さんの『脳は0.1秒で恋をする』
という本が届いて、 そこに、
人は0.1秒で恋に落ちる、
それは脳の「扁桃体(へんとうたい)」が
大きく活動するからだ、ということが書いてあった。
ピン! とくるものがあった。

乱暴な説明で、科学者の人に怒られるかもしれないが、
脳には、「扁桃体」というリクツじゃない、直感の部分と、
「大脳新皮質」というじっくり客観的に
リクツで考える部分がある。

例えば、森でヘビを見たときに、
考える前に、それが意識のぼるより速く、
まるで体にイナズマが走るようにゾクッとし、
「イヤだ!」と判断するのが「へんとうたい」だ。

直感と言われる部分だ。

そのあとから、かなり遅れて、客観的にじわじわと冷静に、
「よく見ると、ただのヒモだ。
 ヘビではないし、危険でもない」
とリクツで考えるのが、「大脳新皮質」だ。

意識や理性が、「ヘビだ!」と認識してから逃げるのでは、
かまれてしまったりして遅すぎるので、人間には、
イナズマのように、瞬間的に直感的に好悪を判断する
「へんとうたい」と、
そうはいっても、冷静に状況を
リクツで考えることもしないと
生きていけないから「大脳新皮質」と、2つの働きがある。

恋は「へんとうたい」のなせるわざで、
だから、人はコンマ1秒で恋をするし、イナズマが走る。

私のこの「嫌い」という感情は
「へんとうたい」の域だと思った。

好きと嫌い、ま逆なんだけど、
起こっているのは「恋」と同じ
「へんとうたい」。だから、変な話なのだけど、
私の嫌いという感情は、「恋」に置き換えてみると
うまく説明がつく。

「少し前のこと、その作家の作品を見た。
 見終わったとき、瞬間に、体を突き抜ける衝撃が起きた。

 あとから考えると、たぶん私は、その一瞬で、
 会ったことも話したこともないその人に
 恋してしまったようだった。

 そのときの私は恋と名づけることさえできず、
 生まれて初めての感覚に、
 帰る道すがら、帰ってからもずっーと、
 そのことばかり考えつづけた。
 なんなんだろう? この感じ。

 以前この感じを味わったことがあると、
 ネットで検索して驚いた。
 なんと主力スタッフにその人の名がある。

 なんと私は、遠い過去、作品を通して
 すでにその人に出逢っており、すでに恋をしていた。

 親でも、長年の友人でも、その人のことを悪くいうと
 許せない。
 一瞬で、好きな人のことを悪く言う人が嫌になる。
 これが恋というものだろうか‥‥」

というふうに、おなじ扁桃体の働きである「恋」に
置き換えてみると、すごくしっくり、説明がつく。

私は、
「こうだから、ああだから、だから嫌い」というような
リクツで説明できる域ではなく、
好きな場合の「恋」のような領域で、
嫌いなものができてしまったんだなあ、と思った。

「恋」が危険なように、こういう「嫌い」もまた、
危険だと思う。

なぜならリクツじゃない部分だから、
言葉で説明したり、理解したりができない。
言葉で人と通じ合わせることができない。
ヘタすると、周囲とのつながりを
絶ってしまうようなところがある。

理性と直感、なんとか対話できないものかなあ。
理性と直感、本来別物なんだろうけど、そこをなんとか
通じ合わせていく努力をしないといけないなあ。

恋にはまりきっている人を、まわりの人が、
扱いづらいと感じたり、人が変わったように
コミュニケーションがとりづらいと感じることがある。

またファン心理というか、スポーツ観戦などで
ファンとファンがぶつかり、
骨肉の争いをしていることがある。

また宗教そのものがわるいのではなくて、
宗教に変に執着してしまった人が違うものを信じる人を
どうしても許せなくて争いになることがある。

それらは心の、理性や言葉が通じない部分が
活発に働いていてそれがために起きる悲劇かもしれない。

だから人は、人が恋するものに対して、慎重に扱い、
目の前であからさまにけなしたりはしない。

「恋」なら、「恋の病」とか、
「いかれちまった」と言って、
名づけることができている分、まわりも大目に見るし、
本人も自覚するだろうけれど、

恋の反対はなんと言うのだろう?

単なる、説明できる「嫌い」とは違い、
直感的に、瞬時に、体を駆け抜けて、説明できないような
「嫌い」という域をなんというのだろう?

私は、いままで人が「惚れた」というものに対しては、
謹んで、敬意をもって接してきた。

けれども、人の「嫌いなもの」に対しては、
けっこう鈍感にふるまっていたなあ、と反省する。

これからは、人の「嫌い」に
もう少し注意を払いたいと思う。

なぜなら、その人は「逆恋」をしているのだから。

恋と同じくらい、ままにならない感情を抱えているし、
リクツにできない分、自分の理性とも
コミュニケーション不全だ。

「恋」という言葉を辞書的に説明できても、
相手に恋の感情を起こすことはできない。

同様に、自分の「嫌い」な感情を、
どうにもまわりに説明できなくて孤立していくことがある。

恋がどうにもならないように、
私の「嫌い」も当分つける薬がないかもしれない。
でも、今後、コミュニケーション不全が出てきたときは、
「逆恋」だなと自覚することで、
すこし、ゆとりをもって対処できそうである。

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2009-07-22-WED
YAMADA
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