YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson458
   どんな人とつきあいたいですか?
        ――2 読者はこう考えた


友だち、恋人、結婚相手、
自由に選べるとしたら、

あなたは、どんな人とつきあいたいですか?

先週は、私の友人が、
「おたがいの生きてきた世界が近すぎて、
 だいたい、おたがいのことが想像できてしまい、
 この人と結婚したら、その先どうなるかが、
 先の先の人生まで、ぜーんぶ見えてしまった」
という相手と、どうしてもおつきあいできなかった
という話から、

育ってきた環境も、境遇も、視野の半径も、
自分とぴったり重なって、
いわゆる「つりあいがとれていること」、
「努力しなくてもわかりあえること」は、
そんなに重要な条件じゃないんじゃないか。

ベン図でいう、円と円の重なりの、
おたがい重ならない部分、つまり、
「わからない部分」が大きくあるからこそ、
おもしろいんじゃないか。

わかりあえないというのは、
口でいうほどラクじゃなくて、
ひどく傷つくし、ひどく苦しいけれど、

それでも、自分の世界から大きくはみ出す部分を
もつ相手とのつきあいは、
自分の狭い世界にこじんまり甘んじることを許さず、
確実に自分をひらいて、世界を広げてくれる。

「ギャップ=自分を外につれだす力」だ。

と、ここに書いた。
それについて、読者はこう考えた。


<妻の勇気>

仙台市に住むKと申します。
「Lesson457 どんな人とつきあいたいですか?」

を読んでいた途中。
急に涙があふれてきたので、びっくりしました。

わたしは東北の生まれです。
将来、仙台にある施設で、とてもしたい仕事がありました。

その前に北海道で仕事をしていた時期があり、
そこで出会った女性と、2年前に結婚しました。

正義感が強く、表情の豊かな女性です。

妻は、北海道が大好きです。
そして、仙台に行くことが決まっていた私と結婚しました。

私は、このことをずっと、申し訳ないと感じていたのです。
私のやりたいことのために、
妻の何かを犠牲にしているのではないかと。

ぶつかり合うことも少なくない僕らですが、
妻は、私のことが好きだと、言葉にしてくれます。

支えられている感覚、嬉しい気持ちの奥で、
ずっと消えない申し訳なさがあるのです。

そして今日、
ズーニーさんの文章を読んでいて涙が出ました。

妻は飛び込んできてくれたのだ、と。
私の分からない部分、分からない土地、分からない未来に。

申し訳ない気持ちは、失礼だと思いました。

私も、飛び込みます。
妻のすべてと、ふたりの分からないこれからの人生に。

分からないときは、申し訳ない気持ち抜きで、
素直にぶつかり合っていこうと思います。

本気でやりたい仕事を、私は見つけました。
思うようにいかないことの方が多いですが、
行い続けることを自分に課しました。

職場では一人だけど、私は家族で仕事をしている。

12月に赤ちゃんが生まれます。
(読者 Kさんからのメール)



「申し訳ない気持ちは、失礼だ」
という一文に、こちらのほうが泣きそうになった。

この一文に、ふたつの気づきがあるように思う。

ひとつは、「妻の勇気」。
妻の行動は、
「自分のほうが譲って夫にあわせておいてあげよう」
というような、譲歩や従順のたぐいのものではなく、
つまり、申し訳ないという気持ちを向けるような
レベルではなく、
もっと覚悟をもった、もっと人生をはったもの、
尊い「勇気」の行為であったということ。

もうひとつは、「自己への肯定」。
妻が妻の人生をはって選んだ、「自分の人生」。
選ばれるだけの価値をもった生き方であり、
選ばせるだけの尊厳ある世界であるし、
そうしていくんだ、という覚悟を感じる。

つづけて、3通のメールを見てほしい。


<結論が同じ、でなく>

私は、
「考え方の筋道が納得できる相手なら
 出した結論が正反対でも友達でいられる」
と思っています。

生まれ育った地域や経済環境が一緒でも
家の教育方針やら性格やら絶対に差はあるので
同じように筋の通った考えをしているはずでも
その途中経過や参考にする事柄などに左右されて
大きく違う結論に至ることは当たり前だと思うのです。
(読者 Yさんからのメール)


<同じ“気持ちいい”を感じる感性>

美味しいケーキを食べながら
美味しい紅茶を飲み
おしゃべりを楽しみたいティータイムのメンバーには

例えば 甘いものが好きで 紅茶の香りが好きで
茶器の美しさが解ったりして
騒がし過ぎない 適度な明るさがあったり

自分が気持ちいいと感じる事を
同じように気持ちいいと感じる感性を持っている
友達はそれだけで充分だとおもいます

お酒も飲めないのに
飲み会に参加し 酔っ払いの相手をする苦痛とか
海外旅行に行った事がないのに
海外旅行の話で盛り上がっている人達の
会話に入っていけないで
なんとなく劣等感感じながらも
だからと言って海外に行くお金も時間もなく
仮に何かの魔法でそんなお金と時間が手に入っても
今は別の事に優先したい何かがあったりしたり。。。

自分を広げたり大きくしたりする為に
距離をおいたほうがいい人と
苦痛を伴っても関係を持ったほうがいい人がいて
どの程度 自分に余裕があるのかにもよったり
苦痛を伴っても 別に何も得られない関係もあるし

クリエイティブな仕事についてなければ
そんなにヤッキになって
世界広げる為に違う価値観の人と
関わる必要無いかなと思います‥‥。
(読者 Naoさんからのメール)


<自分とつきあっていますか>

「あなたはどんな人とつきあいたいですか?」
というズーニーさんの問いが、
「あなたは自分とつきあっていますか?」
に聞こえました。

本当に分かりあうことは、
おそらく奇跡に近いものだと感じています。

私が本当に分かりあえたとき、
お互いの外側が全て無くなり、
ただただ涙が出でてきました。
その時に、人の内側は涙なのだと感じました。
涙といっても、悲しい涙でもなく、うれしい涙でもなく、
ただただどうしようもなくあふれてくる、
あたたかな涙です。
その涙を抑えているものが、
人の外側なのだろうと思いました。

境遇が近い人と境遇の話しをしていると、
とてもラクに、とても簡単に、
分かりあえたように気持ちになりますが。
それは分かりあえたというよりは、
合わせやすいまま「合わせている」だけだなぁと思います。
境遇が違う人の場合には、
「どうせこちらの気持ちが分かるはずはない。」と、
互いに思い合っているのに気付きます。
それもいわば、「合わせている」ことに
なるように思います。

合わせて安心していると、
自分の中の涙が乾いてくるような感覚がします。
ぶつかりあうと自分の中にある涙があふれ、
その涙が、一歩外に
自分を押し出しくれるような気がします。
(読者 Sarahさんからのメール)



Naoさんの「苦痛を伴ってもなにも得られない」ケース
というのは同感で、
いかにギャップのある相手であっても、
そこに「強く引かれるなにか」がなければ、
そもそも、乗り越えようという
スタートラインにさえ立てない。
「ギャップがあり、かつ、強く引かれる」というのが、
私自身には、必要なようだ。
そこに「愛」があるか、どうか。

また、「つりあい」を気にするとき、
見ているものは、まだまだ「外側」だと
気づかせてくれるのが、Yさん、Sarahさんのメールだ。

Yさんのメールからは、
境遇だとか、家が裕福であるとか、成績がどうだとか、
外から見た条件は人さまざまで、
また、外から見て違わないように見えても、
実は教育方針などで、相当に違う世界を見て
自分と人は育っている。
そのため、結論が違うのはあたりまえで、
結論が違うこと=わかりあえないことでは決して無い
とYさんは言っている。つまり、

結論よりも思考の筋道、その納得感。

これは私自身、全国を表現のワークショップで
まわっていて、とてもしっくりする考えだ。
なぜなら、結論が反対の人、
自分と反対意見の人の表現にも、
大勢の人が引き込まれ、感動し、ときに涙する光景を
私は、数多く見ているからだ。

Sarahさんはさらに、
「つりあい」のような外側を見ている限り、
合わせようが、合わせられまいが、
結局、自分の内側はないがしろじゃないかと言っている。

どんな人とのまえに、自分とつきあっているのか、と。

自分の内なるもの、
出してみるまで自分でもわからないし、
出すのも厄介で苦痛をともなうし、
出したところで、否定されるか、
わかりあえるかわからない。
それでも、内がめくれて外に出てしまうまで、
あるいは、出してしまうまで、
うわべの付き合いはつづくのだ。

どんな人を選ぼうが、
内なる自己を表現することなしに、
わかりあうことはありえないと、
私はこのメールから感じ取った。

今日紹介する、最後のメール、
この1通を読んでほしい。


<「つりあい」を気にする生徒たち>

最近の高校生たちが「つりあい」を気にして
人付き合いをするとのことですが。
先が見える安心や、
共感できる相手と付き合うほうが楽だから。
それだけじゃない気がします。

今の子供たちは小さな頃から競争社会です。

小学生から塾に行き、
子供たちは遊ぶ暇もなく勉強させられている気がします。
良い点数を取ってもほめられることもなく、
次も同じ結果を求められ悪い点数を取ればダメ出しをされ。
運動が得意でも、歌が上手でも、絵が上手でも、
将来のいい学校や
いい会社に入るために不要のものは認められず。

他人に褒められる、自分を認められる。
そういう場が少ないのではないでしょうか。

常に周囲に自分を否定されているかのような
環境で暮らしていると、
自分より「格上」と判断した人と一緒にいれば、
相手にそのつもりがなくても
自分を否定される気分になるのではないでしょうか。

せめて、自分で選ぶ人間関係の中では
否定されたくないのではないでしょうか。
そして、その輪から1mmもはみ出ないように。
同じものどうし群れていれば、
自分ひとりが否定の対象にならずに済むから。
まさに、草食動物なのかもしれません。

傷つくことを恐れずに‥‥というけれど。
傷ついても自分自身にその傷から回復できるだけの、
基礎体力があればいいのだけれど。
少しの傷でも致命傷になるほど、基礎体力がないのなら。
傷つかないように生きていくしかないのです。

私自身は、新しい物好きだし
食わず嫌いはしない性格だから、
今回のお話には頷ける部分がたくさんあったけれど、
釣り合いを気にする子供たちの話は
それ以前の問題なんじゃないかと思いました。

自分自身がしっかり形作られていて初めて、
同じだから安心できる‥‥とか
違うから新鮮‥‥とか感じられるのであって。
ライオンから逃れるために、
シマウマの群れにいるときはシマウマになり
キリンの群れにいるときはキリンになり‥‥では、
それどころではない状態なんだと思います。
(読者 そよぎさんからのメール)



「命の絶対価値」という言葉を
このメールを読んで思った。

生徒たちのおかれた状態は、
「それどころではない状態」というのは、
ほんとうにそのとおりで、

実は先週のコラムの、
「つりあいを気にする生徒たち」のことを、
教育現場で、先生方と話し合ったときに、
もっともっと悲惨な話をした。

それで、
家の貧富の差や、容姿の差や、能力差などから、
なんとなく同級生たちをランクづけして、
その中で、自分のランクをひいて、
つりあいを気にして、「身をひく」という若者に、
どうしたらいいのか?

正解はないし、生徒たちの現状は、
胸がえぐられるように悲惨で、
出口が見つけようにも見つけられないのだが、

その日、限られた時間の中で、
先生方とああでもない、こうでもない、
と考えを出し合って、
ときに生徒の現実に胸をふさがれながら、いきついたのが、
「命の絶対価値」だった。

つりあいを気にする生徒に、
自信を持たせる方法として、2つ方向があるように思う。

ひとつは、勉強でも、スポーツでも、絵でも、
なにか自信のもてる能力や資質を伸ばし、
自己肯定感を強めていく方法。

もうひとつが、勉強ができるとか、
スポーツができるからとか
一切関係ない。
あれができるから、これができるから、
だから私は素晴らしい、のではなく、

「ただ生きてるだけで自分は素晴らしい」

という「命の絶対価値」というものを身につけさせる
ということだった。

その場にいた教授は、
ある心理学の先生の本を引用して、
「12歳までに、親子が一緒になって死を乗り越える
 経験を持つ」ことで、
ああだから、こうだからではない、命の無条件の価値に、
気づかせられるということを言っていた。
親が子どもと向き合って死について教えるのではない。
親と子が、例えば身近な人の死とか、ペットの死とか、
一緒になって死と向かい合い、
そしてそれを乗り越えるのだと。
ともかくも、

いかにして自分というものを尊重できるようにするか?

そよぎさんの言う、「それ以前の問題」、
Sarahさんの言う、「自分とつきあっているのか」、
という問題は、「どんな人とつきあいたいか?」
と常に両輪で考えていかなければならない。

自分の才能を磨いて生かすにしても、
「ただ生きている、それだけで自分は素晴らしい」と
命の絶対価値に気づくにしても、
ベクトルは違うけれど、

あなたはどうやって、あなた自身を尊重しますか?

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2009-09-02-WED
YAMADA
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