YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson459
   どんな人とつきあいたいですか?
        ――3 人を測るモノサシ


「あなたはどうやって、あなた自身を尊重しますか?」

と先週のコラムで問いかけたところ、
印象的なお便りが届いた。


<自分を測るモノサシ>

先週のコラムを読んで、
最後の問い「どうやって自分を尊重するか」から
私が気づいたことは、
私の中にはそもそも「自分を尊重する」という概念がない、
ということでした。

それは尊重していないということではなく、
「尊重する」という意識がなく生きてきた、というか。

同様に、「(社会や他人から)必要とされているか」
という問いが掲げられることもありますが、
私にはどうもその考え方も欠落しているらしく、
「必要か不必要か」を殊更に気にする気持ちというのが
あまり良く分かりません。

勿論、社会的に必要とされなければ存在できない、
居場所がなくなる、ということは分かるのです。
けれど、その問題と「自分が生きるということ」は
また別というか、直結しないというか。

私の中では、何より
「自分が自分(自身)を必要としてるか」、
「必要」を言い換えれば

「面白がれるか」「楽しめるか」

が一番大事なことだったのかもしれません。
そして、それが出来ていれば、
自然と「自分を尊重していた」状態になっていた
のかもしれないなぁ、と思いました。
何か伝わるものがあれば&ヒントになれれば幸いです。

(みるくねこ)



「いいなあ!この考え」
読んでまずそう思った。

そして、なるほどと腑に落ちた。

私自身、「社会に必要とされていない」
「居場所がない」という苦しみは、
38歳で会社を辞めてからの約5年間、
これでもかというほど味わった。

だからそれがどれほどつらいことか、
身をもってわかる。

けれども不思議なことに、
社会的に必要とされていない、
居場所が無い、稼ぎが無い、
存在が耐えられないほど軽い、
ということと、
「自分を好きである」ということは、
まったく別物だった。

当時なぜ、
社会から必要とされ居場所も稼ぎもあった自分より、
社会から干され、居場所もなく、無収入で、
人生最もトホホな状態にあった自分のほうが、
理屈抜きに「好き」と感じられたのか?

不思議でならなかったけれど、
このメールを読んで、たしかに、

「おもしろかったんだなあ!」 と思う。

何しろ自分の1年先はおろか、
明日のことさえも予測できない。ゆえに、
自分には、つねにハラハラ・ドキドキさせられた。

石橋をたたいて割るような怖がりの性格で
会社を辞めるなんてとても勇気がないだろうと
思っていたら、辞めるし。

それだけ大胆なことをしたと思ったら、
くよくよ悩んで心底、
明日からどうしようかと困っているし、
案外弱っちいなと思ったら、
死にもの狂いのがんばりを見せる。

生まれて初めて見る、驚くようなむき出しの自分。

ひとつひとつ予想外の行動をとっているようでいて、
実は、追い詰められて、追い詰められて、
「自分にはこれしかない」
というあとから考えたら根拠のある道を選び抜いている。

何しろ映画でなくリアルなのだから、自分を心底、
「コイツおもしれーなー」と思った。
「コイツの未来はわからないけど、
 とにかくコイツの未来は面白そうだから、
 自分は全がけで、コイツについていこう」と。

期せずして、自分の小さい枠を超えて
年齢も職業も、生い立ちも、
人生でもっとも多様な友人ができたのも、この時期だった。

「自分を面白がれるか? 楽しめるか?」

先週のメールにはこんな意見もいただいた。
2通続けて紹介したい。


<自分には価値がない、から気づく価値>

ズーニーさんは
「つりあいを気にする生徒に、
 自信を持たせる方法」として、

ひとつは、「勉強でも、スポーツでも、絵でも、
 なにか自信のもてる能力や資質を伸ばし、
 自己肯定感を強めていく方法」、

もうひとつが、「勉強ができるとか、
 スポーツができるからとか一切関係ない。
 あれができるから、これができるから、
 だから私は素晴らしい、のではなく、
 “ただ生きてるだけで自分は素晴らしい”
 という“命の絶対価値”を身につけさせるということ」
を挙げていました。

一個人の感覚として申しますと、
ひとつめの方法は『脆い』です。
なぜなら、必ず、
自分の上をいく存在にかち合うから、です。

では、もうひとつの方法、簡単に
「ただ生きてるだけで自分は素晴らしい」なんて、
自分自身の口から、実感を伴って言える人が、
一体何人いるのでしょうか?

ふたつの方法は、どちらも難しいです。だからこそ、
「あなたはどうやって、あなた自身を尊重しますか?」
の問いには、ぐっさり刺されました。

が‥‥、今年、就職活動を終えた、今の自分には、
この問いに答えることが出来ます。

私は幼少期からかなり長いこと
「死にたがる時期」 がありました。
自分の価値がわからない、
生きている意味がわからない。
周りの人達はなぜ生きることに迷いが無いのか、
例えば「この人の価値なんてないじゃん」、
みたいなことをよく考えていました。

就職活動中も、何度、
自分の価値をうたがったことか。
何度も何度も自分に問いかけ、
その末にやっと出た答えは

「‥‥私に価値なんか、無い。」

でした。
就職活動中は、周りのいろいろな人に相談しました。

付き合っている相手、同じ研究室の先輩後輩、
教授達、他の研究室の友人、
学部時に通っていた前の大学の先輩、留学生の友達、
親、兄弟、義姉、地元の友達、
就職口を紹介してくれる企業に登録しておりましたので、
そちらの担当の方、さらに言えば、
家庭教師をしていた頃の元教え子達にまで。

相談相手は、上は63歳から下は11歳の小学生にまで、です。

誰に相談しても全く答えが得られないまま、
何ヶ月も不採用通知を受け取り続けました。

しかし、自分が相談していた相手の
年齢の幅、性別、立場、住む地域の幅広さに気がついた時、
これまで全く意識したことのなかった
自分の『価値』を見出すことが出来ました。

面接で、そこを全面に押し出した回答をしたところ、
あっさり内々定を頂くことが出来ました。

『自分というものを尊重できるようにする』には
絶対的な時間を要することだと思います。

ともだち同士のつりあいを気にしているのは
高校生だけではありません。
教え子だった小学生の子も同じことを訴えていました。
幼稚園の子や保育園の子も、
早熟な子はおそらくそうでしょう。

人と付き合うということは、
産まれて死ぬまでの一生のことです。
赤ちゃんは別にしても、
自分というものを意識しだしてからずっと
続けることなのですから、
人生をかけた凄まじい大仕事ですよね。

誰も人付き合いの方法なんて教えてくれない。
だから、自分でどうしたらいいか模索するしか無い。

人との付き合い方には、『自分』が、否が応でも、出ます。

私には、どういう付き合い方が良いなんて、
そんなこと言えません。
ただ、現在、私の周りにいる人達は、年齢・職種・
性別・国籍、多種多様です。

人との付き合う中に自分の価値を見出した私の例は
特殊かもしれません。

(Kawashita)



<世の中にはずっと多くのモノサシがある>

先週の読者の方の
「今の子供たちは小さな頃から競争社会です」
という一文がどうしても引っ掛かってメールいたしました。

私は、「今の子供たちほど競争を知らない人たちはいない」
と、全く逆の意見を持つ者です。

今の学校では、
徒競走ではみんなで手をつないで仲良くゴールをし、
偏差値や相対評価が敵視されています。

こうやって競争が排除されていることが、
逆に子供を苦しめていると思っています。
だからと言って、
もっとみんなで争えと言いたいのではないです。
誤解されないように書き直すとすれば、

「全体での自分の位置を知らないことが、
 悲劇を呼んでいる」

ということです。
自分の位置を知らないということは、
自分に適性がないことでも
それを職業に出来ると信じ込んだまま
大人になることも充分あり得ますし、
実際に根拠のない自信を持っている若者は
非常に多い気がします。

自分の位置を知った時には、
ショックなこともあるかもしれません。
しかし、競争がよくないという意見を持つ人の中には
「ビリの人はカッコ悪い」という偏見はないでしょうか。

ビリがカッコ悪いというのは主観であって、
そういう事実はどこにもありません。

Aという項目での自分の位置が低いのであれば、
Bという項目にもCという項目にも
挑戦していけばいいんです。

競争が排除されて自分の位置を知らず、
自分の個性も他人の個性もわからぬままであれば、
それぞれの家庭環境だとか、
自分の努力では解決できないもので
比べるより仕方が無くなるのは、
なんとなく想像できます。

大人になって思うのは、
子供の頃に思っていたよりも
世の中にはずっと多くの項目があるということです。

(利恵子)



利恵子さんの言う、
「ビリがカッコ悪いのか?」
という問いに、
「ビリだからこそカッコイイ!」という主観もあるし、
「ビリってやっぱりカッコワルイ、けど、面白い!」
という主観もある。

幼いころから、ずっと
「自分には価値があるのか」悩み続け、
就職競争のなかで、「自分には価値がない」に至った
Kawashitaさんは、悩み続けたからこそ、
つまり、一本の価値に定めず、ゆれ続けたからこそ、
自分自身のキャパシティをこえて、
多種多様な人間とつきあえたんじゃないかと思う。

私も、退職によって、それまで握り締めていたモノサシ、
キャリアアップとか、仕事の質の進化とか、
そういうものがいったん無意味になってしまって、
自分をどういう基準で測っていいのか、
わからなくなって途方にくれてしまったからこそ、
無意識に、自分をそれまでとはまったく違うモノサシ、
「面白いか」どうかで見ていたんじゃないかと思う。

同時にそれは、私が他人を見るモノサシも解放する。

それまでは、自分がこれだけ仕事を
がんばっているんだから、
同じくらい仕事をがんばっている人と
友だちになりたいとか、
逆に、私が仕事人間だから、
仕事以外を充実させている人‥‥とか、
これらは、ま逆なようで、仕事の充実度というモノサシを
基準に自他を見ている。

「つりあい」とか、逆に「ないもの」を気にする精神は、
こんなとこから生まれると思う。

「仕事でナンバーワンにならなければ自分じゃない」
「野球ができなければ自分には生きていく価値がない」
など、
一本の価値をもってひたすらがんばることは、
自分の能力を伸ばすには必要なことだけれど、
一本の価値向かって余裕のないときは、
自分をも、他人をも、この一本のモノサシで裁いたり、
追い詰めたりしやすい。

たとえば、仕事で、常に生産性を求められ、馬車馬のように
働かされていっぱいいっぱいの人が、
生産性というモノサシで、他人をも測ってしまい、
今働いていないお年寄りを尊敬しない、というようにだ。

自分をはかるモノサシは他人に、
他人をはかるモノサシは自分に向く。

その意味で、幼いころから、
モノサシを一元化せず、
ずっとゆれつづけたKawashitaさんは、
人の価値の多様性というものに、
ずっと目を背けずに来たのだろうなあと思う。

人間の価値は何か、自分の価値は何か、と揺れるとき、
価値を一元化させようとする甘い言葉は
ちまたにあふれている。
たとえば「心のきれいな人」だとか、
「才能を開花させている人」とか。

でもKawashitaさんは、どこにも着地せず、
しんぼうに辛抱を重ねて、人の価値を一元化せず、
日々でくわす、新たな価値、新たな人物に、
自分をひらきつづけた、結果が、11歳から63歳まで、
あまりにもはばひろいつき合いになっていた。
それがそのまま、Kawashitaさん自身の価値になっている。

「つりあい」を気にするときの、格差は、
「つりあい」を気にするときの自分には、
大きくて、切実で、越えようのないギャップに思える。

でも、そこにほんとうは差はないのではないか?

自分が作り出した一元的なモノサシに、
自分ではまりこんで苦しんでいるだけではないか。

「尊重できるか?」というモノサシを、
最初のみるくねこさんの言う
「面白がれるか?」に持ち替えたとき、
自分を見る目が変わり、相手を見る目も変わり、
がらっと世界が変わって見えるように、

自分と相手をつなぐモノサシは、案外、
あともう「見つけるだけ」の、すぐそこ、にある。
そういうことが、あるんじゃないかと、私は思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2009-09-09-WED
YAMADA
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