YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson460 優しい人


志(こころざし)を持っている人は強い。
就職活動にしても、日々の職場のコミュニケーションでも、
人を吸引するし、
言葉に説得力がある。
初対面の人からも、すぐさま信頼を得る。

「志」は持とうとして持てるものではない。
とくに「志が育ちにくい」とされる日本で、

はやくから志を持っている人は、どこがちがうのだろうか?

この春、私の姪が、志望どおり、
地元の岡山で、社会福祉士として就職した。

ほとんど奇跡だと、叔母の私は思っている。

就職難のうえに、そもそも社会福祉士の求人がない。
姪は3月になり、大学の同級生が次々巣立っていっても、
就職先がなかった。

一般の会社などに切り替えれば、
姪に働き口がないわけではなかった。

しかし、姪には「志」があった。

「社会福祉士になれなければ、就職はしない」
と、他の仕事をあきれるほどにキッパリ、拒んだ。

彼女に第二志望などない。
地元の福祉を志しているので
よその土地へ行く気もさらさらない。
第一志望に全がけの人生だ。
全がけで、中学・高校・大学と生きてきた。

姪のこの意志の固さに、
私は打たれ、このコラムでも、
「Lesson225 テーマと世界観」
「Lesson235 意志ある選択が人生をつくる」
などに、姪の「志」について書いた。

そしてほんとうに志は道を拓いた。

3月も過ぎようとする土壇場で、
大きな個人病院に「社会福祉士」の需要が出て、
姪は、らくだが針の穴をくぐるような難関をくぐって、

全がけの第一志望どおり、ほんとうに
岡山で、社会福祉士になってしまった!

叔母の私も、親戚も、親や兄弟でさえも、
だれもがあきらめていた。
姪だけ、あきらめなかった。

姪には志があったからだ。

志がある人間は強い。

しかし、「志が育ちにくいのだな」
ということは教育現場でも実感する。

「志」を語るとなると、
優等生とされ、何でも器用にこなしてきた学生が、
とたんに、しどろもどろになるのを、
何度も見てきた。

私の表現教育のワークショップは、
ステージ1から3まであるのだけど、

ステージ1のテーマは「自分」だ。

自己表現がニガテといわれる若者だけど、
私の見る限り、いまの若者は、
「自分」について、とても豊かに言葉で表現する。

だれ一人として似ていないし、
とても胸に響くし、印象に残る。
もっとも感動的なのが、
「自分」についての表現だ。

それが、ステージ3の「志」となると、
とたんにガクッと難しくなるようだ。

「自分」と「仕事」と「社会」をつなげて語る、
さらに「将来の展望」まで、となると、
これは、現役バリバリの社会人ですら難しい。
なにしろ学生は、まだ働いたことがないのだ。
「自分」のことなら、語る言葉も山ほどあるが、

総じて、学生は、「自分」について語るほどには、
感動的に「志」は語れない。
そう思っていた。

ところが、先日、
仙台の、ある専門学校にいったとき、逆転した。

学生たちは、「自分」についての表現も
感動的にやったのだが、
それ以上に、実感をこめて、感動的に、「志」を語った。

まだ十代の、社会に出ていない1年生たちが、
「将来仕事に就いて、どうしたいか」
「人や社会にどう貢献したいか」
「自分」と「仕事」と「社会」をつなげて、
聞く人にしみいるように語った。

これには、春から学生をずっと見てきた先生たちも、
なにがおこったのか、と驚いていた。
勉強がニガテ、国語はニガテと訴える生徒たちの、
どこにこんなに豊かな言葉の表現力が
隠れていたのだろう、と。

その専門学校は、理学療法士・作業療法士を育てる学校だ。

目的がはっきりした学校だから、
志が語れるかというと通常はそうでもない。

わたしはもちろん、専門学校や、
現役の看護師や、医師、養護教諭にも、
同様のワークショップをしてきたが、
目的がはっきりした人でも難しいのだ。
その仕事に就いてさらにどうしたいか、
「その先のビジョン」をとなると、
プロでも描くのが難しいのだ。

だから、まだ働いたことがないのに、
自分のことよりもリアルに、
将来の「仕事」について「志」を語る十代に、
私は驚いた。

なぜこんなに「志」が育っているのだろう?

その日、見事に「志」を伝えた学生に共通していたのは、
「優しい」ということだった。

世の中には、自分のことよりも優先して、
他者についつい心を配っている、
「優しい人間」が、ほんとうにいるものだなあ、と、
その日、私は、打たれていた。

理学療法士・作業療法士という仕事柄、
彼ら彼女らが、将来仕事を通して関わる人は、
病気や怪我、障害を持った人や、高齢者たちだが、
彼ら彼女らは、その仕事を目指すずっと前から、
自分でも意識せず、他者に心を配ってきた。

ある男子学生は、
「残念ながら、今の社会には、
 障害者に対する、差別や偏見がある」と言い、
仕事を通して、無くしていきたいと言った。

その学生は、小学校のとき、
別のクラスから、ときどき、障害を持った生徒が
合流して授業を受けにくることがあった。

そのときに、クラスメイトたちが
偏見をもっていることに気づく。
それは、耐え難いことで、
その学生は、なんとか偏見を無くしたいと思うが、
「優しい」=即「強さ」ではない。
現実の偏見を取り去る力は、そのときの彼にはない。

だから、彼は現実の偏見に傷つき、
わがことのように苦しみ続けた。
彼はいつも、障害を持った生徒が輪に入れるように、
仲間になれるように、と思い続け、
いつも静かに行動し続けた。
その想いが、やがてこの仕事と出会わせた。

ある女子学生は、
「年長の人を尊敬している」という。
とりたてて、「自分のおばあさんだから」とか、
「お世話になったお年寄りだから」というのではない。
そういう、個人的なつながりをこえたところで、
どのような年長者に対しても、
無条件に尊敬の念を抱いているという。

いじわるな私は最初、
そんなことがあるのかなあ、と思った。
お年寄りにも、好きな人と嫌いな人はいるのではないか。
嫌いなお年寄りの薀蓄なんて私は聞くのはいやだと。
しかし、彼女の顔を見ると、
取り繕った様子は微塵もない。

「この学生は、
 ほんとにお年寄りといるのが好きなんだなあ」

年長者は、みな自分にない経験をもっており、
その経験を聞くのが、彼女にはたまらない魅力で、
実際、年長の人のそばにいることが幸せで、
気がつくとついつい年長者のそばにいるそうなのだ。

だから、年長者のそばにいられて、
しかも、役にも立てて、喜んでもらえる。
そんな幸せな仕事があっていいものかと、
信じられない気持ちで、この道を選んだ。

その顔は、姪と重なった。

私の姪も、お年寄りと、
個人的な好き・嫌いを超えたところで向き合ってきた。
姪は、中学校・高校と6年間、
誰からも強制されず、自分の意志で、
ずっと老人ホームを訪問しつづけた。
そして大学で社会福祉士を目指し、一生の仕事にした。

世のなかには、
高齢者を弱く守るべき対象と見る向きもあるなかで
姪や、この女子学生のように、
尽きない敬愛を注いでいる存在もいる。
自分が年老いたとき、どうか、この女子学生よ、
働いていてくれ、と願わずにはいられなかった。

理学療法士・作業療法士を目指す人の志だから、
当然、リハビリなどで、
患者さんの持てる力を生かしたい、
できなかったことをできるように支援したい、
元気にしてあげたい、笑顔にしてあげたい、
より自由にしてあげたい、という志が多かった。

その中で、ひとりの女子学生が、
それらは、当然すべきことだとことわった上で
その上で、自分は、
患者さんが失ったものにも目をむけ、
そこを理解し、共有したい、と言った。

「患者さんが失ったものを理解したい」と。

私はとっさに母を思った。
母が心臓を患ったときに、
医師に、
「もう昔のように階段を駆け上がったりはできません」
といわれたことを、とりたてていやな様子ではなく、
何度も何度も、繰り返し、私たち家族に聞かせていたのを
思い出す。

たしかに、病気や怪我をすると、
「もう、永遠に‥‥」ということはある。
母は失われたものを誰かに認めてほしかったのではないか。
そういうときに、安易に、
「がんばればもとどおりに」と励ますよりも、
認めるほうが、
よっぽど、患者さん心がやすらぐことがある。

「患者さんが失ったものを理解したい」、
実の娘でも、わからなかった母の気持ちを、
わずか18歳で、この学生は理解できるのだなと思った。

ここに書ききれない、宝石のような学生の言葉の数々の、
心洗われるような「優しさ」に打たれながら、
私は思った。

「学生たちの中に、他者がいる。」

医者にとっての患者、
教師にとっての生徒、
編集者にとっての読者、
姪にとってのお年寄りのように、

自分の生涯の仕事を通じ、
使命感をもって働きかけ続ける対象を、
仮に「他者」とここで呼ぶとすれば、

彼ら彼女らの中に、大切に思う、「他者」の存在が
まぎれもなく立ち上がっている。
この仕事をやろうと思うずっと前から、
たぶん、やりたいことを探そうとする前に出会っている。

それが志が育っている要因ではないかと思った。

彼ら彼女らは、他者を機能で見ない。
自己実現に役立つかどうかで見ない。
個人的な好悪の感情で見ない。

それを超えたところで人間と向き合うことを知っている。

都会でワークショップをやったときに、
「仕事を通して働きかける他者はだれか?」
と聞かれて、「彼氏」または「友だち」を繰り返していた
学生を思い出す。
好悪の感情をこえたところで、
一人の他人と自分を結びつけることが、
彼女には、この日、どうしてもできなかった。

就活が近づくと、自己実現の磁場に足をすくわれて
ありのままに物事を見られなくなる人がいる。

私自身、そうだった。混線していたし、
自己実現の亡者になりかけたこともある。
もうそうなると、自分の利害をこえたところで、
他者と出会うことが難しくなる。

いかにして他者と出会うか?

はやくから志を持っている人は、
人生の早い時期に、好悪を超えたところで
大事に思う、一人の他人と出逢っている。
いま、私は、そう思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2009-09-16-WED
YAMADA
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