おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson463 どうにもならないものを受け入れる力 3 人生には、どうにもならないことがある。 受け入れようにも、受け入れられないことに対し、 私たちは、どうすればいいのだろうか? 答えのないこの問題に、 読者の方々から、続々とおたよりが寄せられている。 このおたよりがとっても、力になる。 私自身、視点がひろがり、勇気がわいているし、 読者からも、「投稿を読んで力づけられた」 「ありがとう」と、お礼の声が届いている。 きょうも読者のおたよりから、考えていきたい。 <受け入れる力> 「受け入れるべきなのに受け入れられないこと」、 私にとって親しい友人が亡くなったときが そのような事態でした。 長い時間考えた結果、まずは 「受け入れられない自分を受け入れる」 ことからはじめるべきだとわかりました。 受け入れる力は、 まず受け入れられない自分を受け入れることから始まる。 経験から私はそのように思います。 (F.C) <傷ついた車> 子どものころから憧れていた車を、 数年前にようやく購入しました。 毎日乗ることができない私は、 集合住宅の駐車場で出番を待っている愛くるしい姿を 見ながら、心のなかで挨拶を交わしています。 先日、その愛車に小さな傷がついていました。 つけられた、と言った方が正しいかもしれません。 誰の仕業かはわかりません。 隣の車が後部座席のドアを開閉した際に生じたものです。 それは素人でも判断できるほど、明らかな傷でした。 全身の力が抜ける感覚とともに、 隣人への怒りと言葉にならないほどの 攻撃的な気持ちでいっぱいになっていました。 心のどこかで誰かが名乗り出てくれることを期待し、 信じながらも、ただ時間だけが流れ過ぎてゆきます。 都会のマンションで、 隣人宅のチャイムを鳴らすことは とても勇気が必要でした。 怒りの感情を抱きつつ、 表面的には作り笑顔で挨拶をしました。 さらに「心当たりはない」という方に 立ち会ってもらうことは、 感謝の気持ちはあっても、 精神的にはかなり消耗する作業でした。 私は福祉や保健、医療、教育の現場で、 ソーシャルワーカーという仕事をしています。 本来、人を信頼するということを大切にする職業 でありながら、心の中で見えない他者を疑い、 攻撃している自分が存在するのです。 やがてその感情は私自身に向かい、 自分を責め、虚しい気分でいっぱいになっていました。 それが、車に傷かついた以上に、ひどくしんどかった。 人を信じて生きたいと思っている私は、 そうできない自分のちっぽけさに直面し揺らいでいました。 そんなときふっと立ち止まり、 自分と向き合った時、自分が他者と戦わず、逃げずに、 今できること精一杯していたことに気づきました。 そして、同時に心がすり減って、 弱りきっていることを素直に受け入れました。 その結果が、 「よくやったよ。あきらめよう」 と現実を受け入れることでした。 すると、心もカラダも自然に和らいでいったのです。 (tacora) <耐え切れず手を出してしまったら> 終いの住処として購入した一戸建ての隣に とてつもなく吠える飼い犬がいました。 耳栓も効かず、6年が過ぎたある夜、 風邪っぴきで寝てた私は 狂ったような吠え声に飛び起きました。 さすがに我慢出来ず、 ホースを取り出し馬鹿犬に向かって水をかけました。 夜中12時の事です。 2時間後ドアホンを押す音に起きると、 なんと5人もの警察官達が住居侵入したこと で話を聞きたいと来ました。 私は一生の内で最も切れ、警察を引き連れて、 庭に入って無いこと、どれほど騒音に耐えてきたかを 隣の住人の前で捲し立てました。 現に向かいの家の方は あまりのうるささに引越して行きました。 二世帯住宅にし、介護用にリフォームしたにも関わらず。 口には口で言い返すこと。 口に手を出したら 相手がすぐに正義になってしまいますから。 (T) <逃げられない、戦えない、弱れない状況で> 昨年の冬、日曜日の昼のことでした。 昼過ぎまで熟睡していた私の元に 兄から一本の電話が入りました。 罪を犯し、これから自首するという内容でした。 平和に過ごしていた毎日が一転した瞬間でした。 大きな隕石が頭上に落ちてきたようでした。 状況が状況だけに誰にも話すことはできません。 仕事を続け、友人と遊び 何事もなかったように過ごす一方で、 逮捕された兄の接見に行ったり、 法廷に通う日々を過ごしました。 一つ一つが胸をしめつけるような出来事でした。 拘留や起訴という言葉が自分の口からでる度に やり場のない悲しい、虚しい気持ちになりました。 しかし、事件によって心のバランスを失った母や 離れて住む父を思うと 動揺や悲しみに浸ることはできませんでした。 まさに“逃げられない、戦えない、弱れない”状況でした。 とにかく自分が壊れないようにしようと努めました。 部屋に花をかざり、好きなものを食べたり、 些細なことでも楽しむようにしました。 それでも先の見えない不安から やり場のない気持ちや消えてしまいたくなる気持ちが 津波のように押し寄せることはありました。 祖母がよく言う言葉に 「生かされている」という言葉があります。 今まではよくわからなかったのですが‥‥ 葛藤、試行錯誤の日々を過ごす中で その言葉の意味がなんとなく分かるようになってきました。 辛くて消えてしまいたい夜がきても、 朝になって自分が消えていることはなく、 喉が渇いたり、トイレに行きたくなったり‥‥ 人は「生きている」のではなく 「生かされている」のではないかと。 全てが解決したわけではありませんが、 一段落ついたいまそう思うんです。 (A) これは、私にかぎってだけど、 口がたつ私の場合は、ときに言葉が凶器のようになり、 ホースで水をかけるよりひどく、 言葉で人を傷つけてしまうことがある。 だからTさんのおたよりは身につまされた。 私のひどい言葉は道を拓いてきたか? というと、「人を傷つけ自分も傷つけることを辞さず」 とずいぶん意気込んで、心の血を流しあったわりには、 劇的に、状況が変わっていない。 まさに先週、古武道柔術をやっている読者が、 「もし勝てる相手だとしても、 怒りにまかせて術をかけてしまうと その時は、勝ったとしても 後に報復や社会的な敗北が 必ず自分に跳ね返ってきます」 と言った通りだ。 言葉と言ったら、 変化のない状況や、自分の小ささにへこみながら、 それでもコツコツコツコツ、9年書き続けた、 このコラムのほうが、実際、道を拓いているし、 また読者のかたからも、「進路が見つかった!」 「自分らしい進路に向けて状況が切り拓けた!」 という言葉をいただき、 自分にとって「劇的」な感慨がある。 「どうにもならないものを受け入れる力」として、 私がいちばんリアルに感じるのは、 母がごはんをつくり続ける力だ。 なんだ、そんなことかと思うかもしれないけれど、 母は、私がものごころついてから、記憶に残る限り、 毎日毎日、三度三度、1年365日、 欠かさずごはんを作り続けている。 母と二人で暮らしていた時期、ひどいケンカをして、 おたがい口もきかなかったような日が、何度かある。 でもそんな日も、ごはんはできていた。 自分だったら、これだけひどいケンカをしたのだから、 ごはんなんかつくれるか、と思うところだが、 母はそういう日も必ず、ごはんをつくった。 時代が厳しくて、たぶん、ごはんをつくるというのは、 「必死のこと」だったんだろうと思う。 昭和30年代の会社員の給料はとてつもなく厳しく、 それでどうやって親子4人食べていけたのか、 どんなに不況といわれる今でも、今の金銭感覚では、 やりくりを想像することさえできない。 どうやって食べていくのかと、母は、 考え出したら夜も眠れない日もあったのではないか。 食料の調達も、いまのようにいつでも店が 開いているわけではない。 家族が食べたいものを、手に入れるのさえ一苦労だ。 貯蔵しようにも、冷凍庫のついた冷蔵庫など 家にきたのはずっと、ずっとあとのことだ。 塩漬けにしたり、酢につけたり、 食料の保存にも工夫がいった。 調理にも、加工食品などがないぶん、 今の感覚からすると、ものすごく手間がかかった。 安い食材をおいしいといわれるように、 精一杯の料理をした。 母は家族のために、常に常に気を張って考えていた。 何を食べるか、どうやって食料を調達するか、 どうやって料理するか、どうやりくりするか。 それだけ苦労してつくったごはんも、 子どもは残酷なもので、 嫌いといっては残し、 食欲がないといっては食べず、 友だちの家でご馳走になるからとすっぽかしもした。 母は文句も言わず、 逆に、急に友だちをつれて帰っても、 何人つれて帰っても、お金に余裕がなくても、 ちゃんとみんながおいしいと喜び、満足する ごはんをつくって出した。 いまも東京の私のところにきても、 冷蔵庫に何もなくても、 ごはんの買い物をするところがないような場所にいても、 ほんのちょっとの食材を工夫して調達して、母は すぐに、ちゃんとしたごはんをつくる。 常に常に、家族の食事のことを考え続けている。 朝が済んだら昼。昼が済んだら夜。 夜が済んだら、次の朝は何をしようか、と365日。 いまどきの人のように「一食を抜く」 という発想がない。 食事は母にとってそれくらい抜き差しならないことだ。 どんなに忙しくても、どんなに疲れても、 悲しいときも、相当に体調が悪いときも、 姉が嫁に行った日も、人が亡くなった日も、 母は欠かさず家族にごはんをつくってきたし、 自分も決して、食事を抜かないできた。 その母が心臓を患い、 そんなとき頼りの私の姉まで入院したことがあった。 まだ大学生で、家族の入院になれていなかった私は、 悲壮感をただよわせながら、付き添いに行った。 「しっかりしなくては」、私は、まったく食欲はなく、 それでも、ここで、食べなかったら、 私まで倒れたらおしまいだ、というのと、 三度三度ごはんを抜かずに食べてきた習慣からか、 「無理にでも食べよう」と決意した。 サンドイッチを一口、口に入れたものの、 砂のように味がなく、胸がつまったようで、 どうにものどをこさない。それでも、 母と姉のために、私ががんばるんだとばかり、 ぐいっ、とサンドイッチを飲み込んだ。 その瞬間、どっ、と熱いかたまりがこみあげてきた。 のどをふさいでいた哀しみが、目からわぁとあふれ出して その時ようやく、初めて、私は泣くことができた。 読者のF.Cさんの言葉を借りれば、 母と姉の入院という事実を、弱っちい自分が、 ぜんぜん受け入れられていないことに気づけた瞬間だ。 いつも母がつくる料理にくらべて、 サンドイッチがあまりにも味気なく哀しかったのか、 それとも無意識のすきっ腹が安堵したのか、 ともかく、食べた瞬間に、子どものように素直になって、 自分の哀しみを認め、許してやることができた。 「受け入れがたいもの」が押し寄せたとき、 それは、自分にとって、あまりに存在が大きすぎ、 ときに押しつぶされそうなほどだ。 その大きな力の前で、母がごはんをつくるような行為は、 あまりに小さい。劇的でもないし、直接的でもない。 「こんな大変なときに、こんなことがなんになるんだ」と、 無力にさえ思えるから、人はそういうとき、 ごはんを作るような行為を、見過ごしたり、 あっさりと後回しにしがちだ。 けれど、同じではない。 打ちひしがれたとき、何も食べずに眠るのと、 それでもごはんを食べるのと。 無力ではない。少なくとも自分を支え、 動かしてきたのはそういう力の積み重ねだ。 母がごはんを作り続ける行為は、 私が9年コツコツと書き続ける行為と重なる。 長い目で見て、「受け入れがたいもの」を、 受け入れる力、のりこえさせた力とは。 私にとってコツコツと書き続けたことに他ならない。 劇的でもないし、直接的でもない力。 そのコツコツとした積み重ね、がいつのまにか 思いがけない方向に道を拓いていた。 小さな力だけど、気づくか気づかないか、 やるかやらないか、で大きな差が出る。 なにもせず泣き寝入れば、私の場合は腐る。 小さなことでも長い年月やり続ければ、予想を超え、 劇的に状況を切り拓くことさえある。 では具体的に、私は、あの地下鉄のホームで どうすればよかったんだろう? 読者から面白い答えが届いた。 次回はそれを紹介したい。 「どうにもならないものを受け入れる力」 引き続き、おたよりをお待ちしています。 |
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2009-10-14-WED
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