YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson469
     「余分」のある言葉



最近、お近づきになった「あるご夫婦」のことだ。

そのご夫婦は、
奥さんのほうが、旦那さんのことを、
とーっても好きだ。

もともと、奥さんのほうが、
旦那さんを好きで、好きで、一緒になったらしく、
奥さんの気持ちは、結婚20数年たっても、
50歳になっても、変わらない「熱さ」がある。

一方、旦那さんはクールというか、
どうも、目が「よそ」へいきがちだ。

先日も、その奥さんは、
「だんなさんの、自分への想いがさめたんじゃないか」
「捨てられたらどうしよう」
と、本気で心配していた。

まるでつきあい始めたころの少女だ。

結婚して、20数年もたてば、
恋愛感情がうすれるどころか、
もう男でも、女でもなく、家族というか、
友人のようなつながりの人が多い中で、

それだけ「好き」な人と結婚できたことが素晴らしいし、
「好き」な人とずっと一緒にいられたことがいいことだ、
だから、不安でも、彼女は幸せだ。

というようなことを、私は「友だち」に話した。
友だちは、それを聞いて、
意外なリアクションをした。

「でも夫婦で、どっちかが『好き』って、
 相手のほうには『負担』だよね」

私は、虚を突かれ、一瞬、言葉を失った。

「旦那さんにとっては、負担だよね」

と友人は再び言い直した。
たぶん、こういう意味だと思う。

「旦那さんの目が、よそにいきがちなのは、
 家庭にいまいち、居づらいからで、
 それは、奥さんの『好き』っていう気持ちが
 知らず知らずに、負担になっているからじゃないか。
 少しの負担でも、ずっと一緒にいる夫婦のことだ。
 長い年月、つもり積もると、
 旦那さんの負担は、
 そうとうなものになっているんじゃないか」

「好きが、負担。」

ある種の真実を突かれたような気がした。

恋愛にしても、
友だちにしても、
仕事にしても、

こっちの「好き」が、
相手よりあまりにまさってしまうと、
経験上、うまくいかない。
相手は、どこかに「違和感」を感じ、引き、
やがてギクシャク不協和音をかもしだす。

「負担」の正体ってなんだろう?

反射的に、昔働いていたビルの
「管理人」さんを思い出した。

初老のその「管理人」さんは、
仕事が、とっても! 懇切丁寧、熱心、親切。

掃除なども、隅々まで完璧にやるし、
ビルの居住者が頼んだことは、
逐一、細かく丁寧にやりとおす。
任せて安心だった。

ビルの出入り口では、
怪しい人がはいってこないか、
つねにつねに、入場者の顔をチェックしていた。

住人が少しでも、こまったそぶりを見せたら、
すかさず寄ってきてくれて、傘を貸したり、
荷物を運んだり、さきまわりして助けてくれたり。

あんなに仕事熱心な管理人さんを、
私は、後にも先にも知らない。

にもかかわらず、私は、どうしてか、
この管理人さんが「ニガテ」だった。

たとえば、朝、管理人さんが、
ビルの出入り口を清掃しているようなとき、
私が、はるか遠くから歩いてくるのが見えたとする。

すると、管理人さんは、私が何十メートル先にいようと、
仕事の手をとめて、待ち構えている。
そして、私が近づくと、すかさず、

「おはようございます!
 きょうは、やっと晴れましたねぇー。
 でも、少し寒いですねえーー。
 今年も寒くなるんでしょうかねえー」

と、かならず、ひと言ふた言、
いや、三言四言、四言五言、話しかけた。

そういうご近所コミュニケーションは、
私は、きらいではないし、みずから
買ってでもやりたいほうだ。

けれども、この人のかけてくれる言葉には、
なにか「違和感」がある。
なにか「余分」がある。
なにか過剰で、ねっとり、胃もたれするような、

一言で言って「負担」だったのだと、今気づいた。

ビルの住民と、管理人さんと、
あたたかな交流と信頼感、「だけではない何か」が、
得体の知れない「余分」が、
言葉にのっかってもたれかかる、ようだった。

それが微量でも、毎日のことだから、
積もり積もって負担になる。

ある3月、
管理人さんが、口を尖らせて私にこういった。

「3月31日で、辞めるんですよぉー。
 もう年寄りだから首だそうなんです。
 定年があるんですよー。
 この先、老いた自分が、どこへいくのか、
 どこで働くのか、どうすればいいのか」

不満がましく、やはり、ねっとりからみつくように、
管理人さんは、そう言った。

ここからは、ほんとうに私の邪推なのだが、
もしかすると、この管理人さんは、心のどこかで、
そのあまりに素晴らしい働きぶりに、
住民から、「この管理人さんを残してくれ」と要望が出て、
期間以降もとどまることを、
期待されていたのかな、と思う。

実際、「この管理人さんでなければだめだ」
と思った人も多いだろうし、
「もっといてほしい」とずいぶん惜しまれて
やめたに違いない。

そのあと管理人として、きた人は、
もう、顔も思い出せないほどに、あっさりしていた。
すれちがうとき、こちらから
「おはようございます!」と声をかければ、
「おはようございます!」ときちんと返してくれる。

でも、「おはようございます!」は
「おはようございます!」であって、
それ以上の余分な気持ちもついてこなければ、
それ以下でもない。

私は、寂しさを感じるかと思いきや、
なにか、さっぱりして、
どことなく、「ほっ」としていた。

負担がなくなっていた。

もしも、私の邪推のとおりに考えるなら、
前の管理人さんの言葉には、「余分」がついてきていた。

「おはようございます!
 私の働きぶりって、こんなに懇切丁寧でしょう。
 私っていいでしょう。
 私の働きぶりを認めてください。
 そして、どうかこの仕事に期間延長して
 残れるようにしてください。」

もしも、そうだとしたら、
それは、おたがい無意識のことだから、
だからこそ、コントロールがきかず、
言われたほうは、小さくずっと、負担が積もる。

「余分」のある言葉。

例の夫婦で言えば、
奥さんが料理をこしらえても、
お風呂をたいても、会話をしても、
どこかに、「それ以上」の想い、

こんなに一生懸命つくしている
私をわかってくれ。
愛してくれ。
かわいがってくれ。
浮気をしないでくれ。
私があなたを好きであるように、
あなたも私を好きになってくれ。

「余分」の想いが、くっついて相手に伝わって、
長い年月、毎日毎日受け取るほうは、
「負担」になっていたかもしれない。

無意識だからこそ、心根は、ありありと伝わってしまう。

小説を書いている別の友人にそれをいったところ、
2つ、言ってくれた。

ひとつは、
「おたがいの気持ちがつりあっていることが望ましいね」
もうひとつは、
「言葉に、それ以上の余分なものをこめてはいけないね」

その友人も、デビューはしていないが、
コツコツ書いているから、
よく、2人で「書くこと」の話になる。

書き手のほうが、
あまりにも書くことに思い入れがありすぎても、
読者は、「余分」を受け取って負担になる。

私自身、書き始めて9年だが、
よけいな「やまっけ」があるときは、
読者がどこか「余分」を感じ、「負担」を感じるためか、
文章が、うまく通じていかなかった。

「余分」のある言葉。

「おはようございます」は
「おはようございます」であって、
それ以下の心のない言葉であってはいけない。
けれども、それ以上の「余分」な想いがはりついても、
受け取るほうには負担である。

心の根に、透明感をもって言葉を発したい。

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2009-11-18-WED
YAMADA
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