YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson481
   「働きたくない」というあなたへ 5



「楽しく生きる」

就活生セミナーの広い会場で、学生の
この言葉が、耳に飛び込んできた瞬間、
前後の文脈も、わけもわからず、
私はどきん!と凍りついた。

現場の肌感覚か、26年教育の仕事をしてきての
経験からくる直観か。

とにかく理由のない衝撃だけがまず先にあり、
話を聞いたのはあとからだった。
あとから先週書いたような話を聞き、
聞いてさらに衝撃を受けた。

先週にひきつづき、この問題を考えてみたい。

まず、「楽しく生きる」を弁護する声、
学問の現場にも「楽しく生きる」人がいて困るという声、
違う立場の、2通のおたよりから紹介したい。


<何となく他の力で>

「楽しく生きる」
すごくよく分かります。

幼い頃から将来のことを考えろ、と言われ続け、
受験も、就職も、将来楽しく生きる為、
と言われ続けた大学生は、
ずっと将来の為に、今楽しくない時を
過ごしてきたのではないでしょうか。

でも、いざその将来が来てしまうと、
やっぱりちっとも楽しそうではないんです。
親を見ても、周りの大人を見ても、
ずーっと一生懸命働いて、
気が付いたら取り返しがつかないところに
来てしまっていて‥‥

実際に自分が仕事についたら、
周りの人のこと、お客様のことを考えて、
一生懸命仕事をするだろうな、
ということが分かってしまう。

じゃあ一体自分はいつになったら
楽しく生きれるんだろうか。

そして、働きたくない、と思うようになったんです。
今、この流れに乗って働いてしまったら、
もう降りられないような気がする。
今までと同様、何となく流れていってしまう気がする。
それがすごく怖いように思えました。

結婚したい、とかお金が欲しい、というのも
そこで区切りが欲しい、
ということなのではないかと思います。

特に女性は、結婚すると
これまでと違った方法で人生を送ることが出来る。
また、まとまったお金があれば、海外に行ったり、
学校に行ったり、
お金のことは考えずに、違ったチャレンジが出来る。
貯金とか、年金とか、老後とか、
何も心配せずに好きなことにいっぱいお金を使える。

これから先ずっと続くであろう働く人生に、
そこで一区切りつけることが出来る。
しかも自分の強い意志ではなく、
何となく他の力で。

そのことがすごく魅力的に見えるのではないかと思います。

実際に私の周りにいた子は皆卒業が近づくと一様に
「お金があれば働きたくない」と言っていました。
私にとって、働き始める、ということは
降りれない一生続くレールに乗ってしまうことのようで、
すごく怖かったのを覚えています。
だれも、いつどこで降りた方がいいのか、
乗り換えた方がいいのかを教えてくれない電車に
無理やり乗せられているような気になったからです。
(ちえ)


<楽しく留学する人たち>

「楽しく生きる」
働きたくない若者。

就活生ではないのですが
こちらで出会う日本人留学生についても
同じようなことが言えると思います。

私はアメリカの大学院で教育を専攻しています。

ズーニーさんが強調していらっしゃるとおり
前向きに目標をもって留学している学生の方が
数としては多いのですが
やはり残念ながら全員ではありません。

日本で受験を切り抜け大学に入って
2年ぐらいが過ぎ、就職の話が聞こえてくると
働くことから、あるいは
働くということを考えることから
逃げるために留学を選ぶ学生がいます。

とりあえずしばらく留学すれば
英語もできるようになるだろうし学歴にハクもつくし
その後はどうにかなるだろう、といったところでしょうか。

ズーニーさんが出会った就活生と同じように
決して悪い子たちではなく、むしろ素直ないい子なのですが
自分で考える・見つける・進むということが
苦手なようです。
アメリカの大学という“自由意志”の
カタマリみたいな場所だと
特にその受身の姿勢が目立ちます。

修士論文の準備をしている日本人留学生がいます。

卒業まであと3ヶ月だというのに一向に論文が進まず
彼女の担当教授に
「ひょっとしたらこちらの指示が
 聞き取れていないんじゃないか。
 日本語で聞いてやってみてくれないか」と言われました。
話をしてみると
彼女は指示を理解しているのですが

ただ自分の研究したいことが
見つからないだけだと言いました。
誰かが研究テーマを与えてくれたらがんばれるのに、と。

彼女は博士まで進みたいと聞いていたので
その目的のなさにも驚きましたが
「見つからないだけ」と言う彼女の
「だからといって別に困っていない」様子に
カルチャーショックというか
ジェネレーションギャップというか
とにかく衝撃を受けました。

そういう学生は留学も
『楽しく』がテーマになっているのかもしれません。

もちろん20歳前後の学生が初めて親元を離れ
外国に暮らすのですから楽しいことばかりではありません。
言葉の壁、文化の違い、勉強や友人のことなどで
悩んだり落ち込んだりするのは日常茶飯事です。

そういうときに『楽しく』を持ち出してしまうと
テレビや映画を見て英語を聞いたからまぁいいか。
珍しいものを食べたからまぁいいか。
日本人の友達としゃべったからまぁいいか。
ガイジンの彼氏・彼女ができたからまぁいいか‥‥となって
つらいときに踏ん張らないクセがつくような気がします。
それを続けていくと足腰が弱くなって
どうしても誰かにおんぶしてもらいたくなる。

一緒に歩いてくれる人はいても
おんぶしてくれる人はいないんじゃないかな、と思います。

私は自分がいい年をして日本で働くことから離れ
恵まれた環境で研究までさせてもらっていることに
後ろめたさがあるので
なおさらひっかかるのかもしれません。
少なくとも私にとって留学は楽しいものではありません。
(emi)



「玉の輿にのりたい」という学生について、
仕事仲間のTさんが、こんな疑問をもらした。

「彼女らが求めているのは、本当に夫なのか?」と。

彼女たちの胸中を察すれば察するほど、
彼女たちが求めているのは、
夫ではない、魅力的な恋愛対象でもない、
ましてや人生の伴侶などでもなく、

「お父さん?」

という気がする。というのだ。
卒業すれば、社会的な意味でも乳離れを要求される。
親や家族という古巣を追われるかっこうになる。
彼女らは巣立ちを表面的には受け入れつつも、その実、
無自覚に、「つぎの家族」「つぎの父親」つまり、

「つぎの保護者」

を求めているような、そんな気がするというのだ。
「依存」。
読者のりえぞーさんはこう見る。


<結婚相手はお財布か>

自分の好きなことしかしたくないけど、お金だけはほしい。
なにもしないで、お金だけもらえればもっといい。
つまりはそういうことで、
それならば働きたくなくて当たり前だろうと思います。

「給料をもらう以上、プロとして最低限の仕事をして、
 社会と上手く関わらなければなりません」?

社会はそんな考えで上手く関われるようなところじゃないと
あたしには思えます。
誰だって、多かれ少なかれ、
払ったものより多くのものがほしいと思う。
みんなそう思うからこそ、
自分にできるだけのことを精一杯やらなきゃ
お話にならない。

自分以外のひとのことを
一体どんなふうにとらえているのか?

玉の輿に乗りたいひとにとっては、
結婚相手はただの財布扱いだし。
結婚が夢な男子学生にとっては、
家庭は仕事をがんばらないための理由だし。

自分以外のひとを、
自分のための道具みたいに思ってるのかなあ。
(りえぞー)



「楽しく生きる」から、
反射的に脳裏に浮かんだものが2つ。
「寂しい国の殺人」と「女性による結婚詐欺」だ。

「自己表現」と「自立」と「幸せになること」。

90年代に、村上龍が「寂しい国の殺人」で、
少年犯罪を取り上げていた。
あの事件を私は、「自己表現」と
強く結びつけて考えていた。
表現されない自己は無に等しいとされる時代、
「透明な存在」である自己を、
わかってほしい、認めてほしい、と強く欲求したとき、
自己表現の手段を持っていなかったら?
生まれてこのかた自己表現の場もなく、
力も鍛えていなかったら?
行き場のないマグマはどうなるのか?
ということについて、深く考えさせられた。

21世紀になって、
「寂しい国の殺人」という言葉で浮かぶのが、
女性による「結婚詐欺」だ。

グルメ・エステ・高級ホテル・ブランド品など
「快楽」に費やすお金ほしさに、
複数の「婚活」中の男性から、お金を騙し取り、
殺害したと、現時点では報道されている。
真相究明はまだだが、これまでの報道で知る限りで
考えると、

この事件は「幸せになりたい」欲と
強く結びついた犯罪だと思う。
関心の範囲が狭く、最終的には「自分」しか視野にない。
「結婚」「快楽」「人の金」。

なぜ「自分の手で」稼ぐことを考えなかったのだろう?

単純にそれが、不思議でしょうがない。
詐欺も殺人も決して許されることではない。
許されないが、そのエネルギーを裏返し、
プラスに発揮すれば
「能力」になる。

複数の男性を次々とその気にさせるコミュニケーション力、
殺人は決してゆるされないが、
これが別の良い仕事であれば、
大変なリスクを引き受けて、
大変危険なことをやり遂げる力。

それだけの力をプラスに向けて、
早いうちからコツコツと磨き、社会にもまれ、
伸ばしていけば、
騙し取ったお金より、はるかに多くを自分で稼ぎ、
自分で得たお金で、グルメやエステ、
高級ホテルに行くことも、
ぜんぜん夢ではなかったのに。

なぜ、人のお金をあてにしてしまったのか?

なぜ、自分で稼ぐことを考えなかったのか?

なぜ、自分には稼ぐ能力があると信じなかったのか?

なぜ、「自立」を目指さなかったのか?

人生の岐路、あとは「自分を信じる」だけ、
というところに、立っている人は
多いのではないだろうか?

「自分を信じる」と「信じない」の境界はなんだろう?

根拠などまったくなくても「自分を信じる」ことはできる。
ただ、どこかにあるかもしれない
「他力」をあてにしている限り、
自分を信じることはできないし、
ましてや自分で立つ(=自立)ことは遅れてしまう。

これから社会に出るあなたには、
立派に自立し、人や社会に役に立ち、
その気になれば、年に何千万、何億と稼ぐことも
決して夢ではない可能性がある。
その潜在力に、気づけるか? 気づけないか?

「自分を信じる」と「信じない」の境界はなんだろう?

まずは、こんなところから切り替えてみたらどうだろう?

「幼い頃から将来のことを考えろ、と言われ続け、
 受験も、就職も、将来楽しく生きる為、と言われ続けて、
 ずっと将来の為に、今楽しくない時を過ごしてきた」

ではなく、

「幼い頃から、将来のことを考えろと、
 おとなたちのありがたい叱咤激励をいただきながら、
 受験もさせてもらい、
 小・中・高それから大学まで出してもらい、
 私は、自分の意志で、楽しみを先送りする人生を、
 自分で選んで今日まできました」

「降りれない一生続くレールに乗ってしまう、
 だれも、いつどこで降りた方がいいのか、
 乗り換えた方がいいのかを教えてくれない電車に
 無理やり乗せられているような気になったからです」

ではなく、

「就職を選ぶのは、ほかならない自分です。
 だれも鎖でつないだりしないのだから、
 最終的には、やっぱり自分の意志です。
 一生続くかもしれないレールに、
 乗る人も乗らない人もいますが、
 私は自分の意志でレールに乗ります。
 乗って、もし降りたくなったり、
 乗り換えたほうがいいと感じたら、
 すでに、降りたり、乗り換えた経験を持つ人に
 必死に意見を求め、必死に答えを探し、
 でもまた最終的には自分の意志で決めていきます」

このような表現の先に、
きっと「自分を信じる」ことはできる!

きょうも先輩の意見を紹介して終わりたい。


今私は(司法試験浪人→)法科大学院浪人生です。
都会の大学をへて田舎の自宅で浪人中の23歳です。
社会人一歩手前なヒトにとって、
この特集はあまりに響きます。
ありがとうございます。

宅浪していると、えもいわれぬ気持ちに毎日なります。
不安のような、からっぽのような、ひとりのような、
自分が空気のような、とにかく社会との接点がないと
毎日つらいです。

同じような試験を受ける友がいれば、
勉強法など教えあったりして、
刺激しあいながらできるのに、
と思いつつもかないません。

でも、将来の選択肢を自由に選ばせてもらって
勉強しているのだから、かなり親の理解があるほうで、
ありがたいです。

そんなこんなで、昨今、
いったん弁護士という選択肢をおいといて、
自分は将来どんな生き方をしたいのか、何をしたいのか、
どんなふうに仕事を通して社会とかかわりたいのか、
いろいろ本を読みつつ、本気になって考えていました。
それで、いろいろいろいろ考えている中、
一つの結論が出ました。

社会人になって個人として
社会的な責任を負うことを怖がるな、

ということです。
当たり前すぎてふっと笑われてしまうかもですが、
これに初めて気づいたんです。
私は、まだ学生気分だったんですね。
きっと今もまだぽやーんとした学生気分です。
どの職業も、社会人になると責任が多分に増します。
特に弁護士なんて、個人として負う責任が
とても大きいです。
でもそれを怖がっていたら、社会人にはなれません。
私はいろいろ保守的に考えすぎていたみたいです。
あれもだめこれもだめじゃあ全然前に進みませんでした。

なぜ弁護士になりたいか、
それは弁護士じゃなきゃだめなのか、
なども改めて再び考えました。
自分なりにいろいろ行動してみて、
やっと少し見えてきたように思います。
(ゆきんこ)


楽しく生きる、大事なことですが
消費したり受け取るだけの楽しさは
あっという間に底をついてしまいます。
そういう楽しみには、
お金がいくらあっても足りないのです。
(Y)


「楽しく生きる」ことは賛成です。
誰もが反対しないでしょう。
ひとそれぞれに「楽しく生きる」価値基準や行動基準が
あると思います。

「玉の輿」も「楽しく生きる」手段としては、
いいかもしれません。
でも、きっとそいう人の欲望にはきりがなく、
さらなる「楽しく生きる」ことを求め続けるのでしょうね。

井上陽水さんがテレビで歌ってました。
「限りないものそれが欲望、流れゆくものそれが欲望」。
40年前に。
(47歳、男、会社員)


「働きたくない」人へ。

「仕事はしたくない。でも、お金はほしい」。
本気の本気でそう思うのなら、
「仕事をしないで、お金を手に入れる方法」を
本気の本気で考えてみたらいいと思います。

そんな方法が本当に発見できたのなら、
それはそれで素晴らしいことですし、
考えている間は、「考えること」自体が
もうすでに、その人の仕事に
なっているのではないでしょうか。

仕事とは、会社に就職することだけではありません。
仕事とは、「かまえてしまう」ほど
遠くにあるものではなくて、
ごく身近にあるものだと私は思います。
(みずまる)


僕は社会人20年生です。

僕は学生の頃からずっと
「楽しく生きたい」と思い続けてきた一人で
今もそう思い続けています。
僕は「楽しく生きたい」と願うことを考え直す事は
難しいと考えています。

ただ方法論が間違っている。

楽しい仕事に出会うのは難しい。だから、遊んでいたい。
となるのは、
「そこに楽しみを見つける」能力が
まだ備わっていないだけだと思います。

選択肢の多い世の中では
「より多くの楽しみを提供してくれる」方を
選んで生きることに慣れすぎていて、
「見つける」ことができないのです。

楽しみを見つける能力の有無で
人生は変わると思っています。
(24)


私は大学卒業と同時に子どもを授かったので、
働いたことはありません。

子育てをしていると
社会から遠ざかっているように感じ、
「そのうち働かなくては、
 そのために今のうちに何かをしなくては」と
焦ってしまうことがありました。
そのために子育てがストレスとなり、
家事もおっくうとなり、子どもと向き合って
ため息のでることもありました。

子育てをしている間に、
大切なものを見逃してはいまいか、
と不安になっていたのだと思います。
でも今は「子育てを通して社会と立派につながっている」
と思うことができます。

私は今子育てに束縛されていて、そこが私の居場所で、
ここから社会とつながるのが私の仕事なのだ、と。

「スイミー」という絵本があります。

小さなさかなが集まって大きなさかなを作り
自分たちよりも大きなさかなたちを追い出す、
というお話です。

その中に「けっしてはなればなれにならないこと、
みんなもちばをまもること」という言葉があります。

私たちは小さなさかなが集まって
大きなさかなを作っているのだと思います。
だから、今私がいる場所が私のもちばであって、
そこを私がまもらないといけないのです。

「自己実現よりも大きな何か」に私たちは束縛されていて、
それを知って自分のもちばをまもることで
自己実現もかなうもののように今は思います。

どんなに選択肢があっても、
どれを選んだらいいのかわからずにいる間は
自由にはなれない。
あるいは無限に選択肢があるだけではどこへもいけない。

もし今その間で立ち尽くしているのなら、
それは本当にもったいないことだとおもう。
今自分が立っている場所をもっとよく見渡したら、
きっとそこに自分の探しているものがあるはずです。
見慣れすぎていて見ていなかったものが
絶対にあるはずです。
(いずみ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-03-03-WED
YAMADA
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