YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson485
   「働きたくない」というあなたへ 9



「楽しく生きる。」

読者の反響には、
たしかに「楽しく生きる」に引っかかる、
という人もいるし、
「楽しく生きる」の何が悪い? いいことじゃないか?
という人もいる。

正解はないのだが、
きょうは、「楽しく生きる」について、
さらに読者のおたよりから考えてみたい。

私は常日頃、「楽しい」というのは、
ものすごく偉大な価値だととらえている。

とくに表現教育の現場で。

「授業が楽しかったー!」という生徒に出会うと、
感心をとおりこして、尊敬するし、
天才じゃないかとさえ思ってしまう。

慣れない「表現する」ということを、
多くの人が、とまどいながら、苦しみながら、
やっており、その姿も、もちろんとても感動的なのだが、

生まれて初めて「表現する」ということをやり、
それを生き生きともう、「楽しんでいる」人に出会うと、
なんて感覚がいいんだろう!
なんて消化が早いんだろう! と驚く。

私は、学びの場で、「楽しめる」という人は、
「才能がある」と同義ではないかとさえ思っている。

私が、独立した後、表参道に、
分不相応なオフィスをかまえ、
家賃等、やっていけるか、不安で不安でたまらなかったとき
母に言われた一言が、

「楽しんで。」

だった。田舎モノの私が、
せっかく憬れの表参道に住めるというのに、
不安に固くとらわれ暗い顔ばかりしていたことに気づいた。
この言葉でどんなに救われたか。

そんなふうに、「楽しい」という価値に肯定的な私が、
教育現場で、わけもわからず耳に飛び込んできた学生の、

「楽しく生きる。」

に直感的に凍りついてしまったのは、なぜか。
その後、読者のメールから、
この言葉の奥に「早く死にたい」にも
通ずるものがあること、
私にとって「助けてほしい」と同じ響きだったことに
気づかされた。

思うに、「楽しい」とか、「幸せ」とか、「正義」とか、

一見、反論の余地がない、
だれの目にも良い言葉というのは、
それだけに、使い方をまちがえると危険というか、
思考停止とか、すり替えとか、逃避とかを
生みやすい所にあるんじゃないだろうか。

例えば「正義」の名のもとに戦争するとか、
「幸せ」を追い求めれば追い求めるほど
遠のいてしまうとか。

読者の2人はこう言う。


<楽しく生きる、でなく>

「楽しく生きる」

私は、それに賛成できません。
私が常日頃、心がけているのは、
「生きることを楽しむ」だからです。

愉快なことばかりじゃない、
苦しいところや、いやなところ、
全部ひっくるめて「生きること」。

そう、理解したうえで、
それを楽しんでやろう! と思っています。

私はそういう考えなので、
「楽しい」も「おもしろい」も、
誰かに与えられるのを待ってるだけじゃ、
もったいない気がするんです。

表面をただ撫でるだけの、「楽しい」とは違う、
もっと深いところ、手に入れるには苦しみもともなうような
「楽しい」という感情だってあると思う。

たとえば、仕事での「楽しい」のように。

受験も就職も仕事も、そりゃしんどいですが、
つらい=楽しくない、って
決定づけられるわけじゃないと思う。

それは本当に、「楽しくない」なのか?
ただ、「楽しもうとしていない」だけじゃないのか?

「生きること」や、「働くこと」は、
楽しむ余地もないほど、
貧しくはないと思います。
(社会人2年目より)


<「楽しい」と「楽しむ」>

「働きたくない」というあなたへを読んでいて
高校生の時、クラスの日誌に
「毎日が平凡でつまらない」
と書いたのを思いだしました。

そんな私ももう30代
昨年1年間、病気になって手術と治療で、
強制的に働けない状態を経験しました。

その1年、
自分について、人生について。
考えて考えて、これといった答えが出たというより、
迷ったり、不安もたくさん感じたけど、
一番は自分の価値観が大きく変わったということです。

わたしは今まで「楽しむ」努力を
してこなかったのではないか?

「楽しい」ことは世の中にたくさんあるし、
その中に自分をおけばいい。
でも、「楽しい」とは思えないことが
どうしても人生には起こってくる。
働いていようがいまいが。
「楽しい」を求めるのもいいけど、

「楽しむ」ことができたら
人生もっと楽しくなるんじゃないか?

きっかけは病気でしたが、
「楽しむ」という視点をもったとき、
欲のためだけでなく、
ほんとうに仕事をしてみたくなりました。
私にとって働くことは、相手を喜ばせること。
そのために必要なことを楽しんでやってみたい。

今なら高校生だった自分に
「自分が楽しまなきゃ」と言ってあげたいです。
(あやとん)



婚活ブームに便乗した商法で、
まるで、「結婚」をパッケージのように売ろうとしている
かのようなものに、でくわすことがある。

でも私は、「結婚」というキットには、
ひとつ、入っていないものがあると思っている。

それは「幸せ」だ。

家電を買うと、ときどき、
「電池は入っていません」「電池別売り」などと書かれ、
電池は自分の手で調達してこなければ、
なにも動かないし、はじまらないことがある。同様に、

「結婚」というキットに、「幸せ」はついてこない。

それは、自分たちの手で、対価を払ったり、
工夫して、つくりださなければならない。

社会人2年目さんの主張をヒントに言うならば、
「幸せな結婚をする」ではなく、
「結婚生活を幸せなものにする」だ。

この二つは、似ているけれど、ずいぶんちがう。

キットに当然「幸せ」がついてくると勘違いしている人は、
無いものを探したり、無いことに腹を立てたり、
虚しがったり、
「つくり出す歓び」が、わざわざ、すぐここ、
に転がっていることに、気がつけない。

「結婚」というキットに、電池が入っていないのは、
楽しいからだ。
自分たちの手で、それを注ぎ込んで、動かすことが。

「楽しく生きる」と「生きることを楽しむ」、

この二つも似ているようで、
ずいぶん違っている。

「楽しく生きる」
そのために働きたくない、お金がほしい、
玉の輿にのりたい、というのは、
いまここにない、かなたにある「楽しい人生」に憧れ、
それを目指す。

でも、そのときの「楽しい人生」のイメージは
どこから来るのだろう?

私の場合、いまここでない、
「かなた」にあこがれるとき、
どっか何かで刷り込まれた「ステレオタイプ」を
イメージしていることが多い。

それって自分らしいか? というと、そうでもない。

「ステレオタイプ」というのは、とにかく典型だから、
自分という個人差おかまいなしにそこにある。

しかし、「生きることを楽しむ」となったら、
「いまここ」を楽しむということになる。

「いまここ」は、まぎれもなく、
自分を取り巻く現実であり、自分の人間関係であり、
よくもわるくも、今まで生きてきた自分が招いた結果だ。

だから、「いまここ」を楽しむというのは、
極めて自分らしい、自分にしかできない行為だ。

玉の輿というキットを、もし、手にしたら、
暇な時間、お金、物など、楽しく生きることの便利な装置が
ひととおりそろっていると思う。

でも、電池ははいっていない。

どうやって、自家発電するのか?
肝心の「楽しい」は、どうやってつくりだす?

「生きることを楽しむ」には、創意と工夫が要る。

そうやって、日々、自家発電してきた人が、
装置を手にしたとき、命を吹き込めるのではないだろうか?

最後に「楽しく生きる」に対する読者の見解を紹介して、
今日は終わりたい。


下の子どもが小学校中学年になったのを機に資格を取り、
介護の世界で八年働いてきました。

面白いほうへ、自分の興味のあるほうへ流れていって、
自閉症支援の仕事(外出介助員)
という仕事に出会い、やりがいを感じていました。
五年間、横浜の最大手の事業所で登録で働き、
途中で、国の政策の変更で時給が三割以上減り、
仲間も減ってそれでも自分は
この仕事が続けられるだけ幸せと
ほぼボランティアのようなその仕事に
こだわってやってきました。

昨年、企業の研究開発をしていた夫が退職勧告を受け、
私も収入を当てにした仕事を
しないわけにはいかなくなりました。
長い付き合いの利用者さんや、その家族と別れ、
スーパーの店頭で試食を勧めて販売する
マネキンという仕事に就きました。

子育てや家庭を一切かえりみなかった夫。
18年間、それでも夫の会社からの給与振込みはあるから、
不満だらけだったけどお金に困ることなく
平日の昼間は早朝からスポーツジムに
通いつめたりしていました。

介護の仕事も、片手間って感じで、
自分の主張を通して仕事を選んでやってきたことに
最近気づきました。

8時間以上、調理をし、試食を通り過ぎる人に勧めながら
毎日違う店頭に立っています。

お金のためとはいえ、利用者さんたちと別れてきた私は、
もう後には引けない。

私の収入が、今晩のおかずになり、主人のビール代になり
子どもの塾代になります。
腰や膝が悪いので、鍼が背中や腰の何ヶ所にも
入っています。

ひとりでも多くのお客様に共感してもらうため、
コスチュームや、料理の見た目、
お店の担当者とのやり取り、
五感を総動員して売り場に立ちます。

結果、完売することが多いので、
メーカーやお店から指名をもらうことが多く、
昨日は会社に賃上げ交渉して、
四月からの賃上げを確約しました。

昨年までの18年間よりも、充実しているし、
ほんとに毎日楽しい。
やっと私の周りの世界に色がつき、
空気がまわりだしたと感じています。

私は、短大を出た頃は、働きたくないと思っていました。
母や叔母や周りの大人の女性はみな専業主婦でしたし、
こしかけで体のいい職場で少しだけ働き、
できるだけ条件の良い人を見つけて、
若いうちに子どもを産んで
エステに通うような小奇麗な奥さんに
憧れていたように思います。

でも、そんな現実はなにも楽しくなかった。

働くことは楽しいよ!

結婚した夫との現実。
上手く行かない子育て。
周りのママたちとのすれ違いの会話。
いろんな経験をして、42歳の私が今得た実感です。
(真理)


日々、少しずつ失うような、
それに気づかないような生き方はしたくない。
では、日々、自分を満たしていく生き方とは
どうすることでしょうか?

何か特別なことをしなければならない、
ということではないと思います。
自分がする毎日の小さな仕事の数々を
「特別なこと」にしていけばいいのだと思います。

退屈なお皿洗いも、近所の人とのあいさつも、
一体何の役に立つの? と思われる勉強も
自分がやる、と決めたら「特別なことなのだ」と信じて
やっていったらいいような気がします。

そして、「特別なこと」と思い込む以上は、
どんな小さな仕事にも自分の名前が書かれているのだ、
という責任を持つことだと思います。
どんなに小さな石でも、沼に落ちれば水面をゆらし、
その波は案外遠くまで及ぶ。

悪気はなくとも思いやりのない言葉は
どこかで誰かを傷つけるものだし、
誰も見ていなくても善意はどこかで誰かを救うはず。

そうやって丁寧に稼いだお金を
今度は丁寧に使ってゆく。
自分がいい仕事をしたな、と思える人へ
お金が届くような買い物を心がける。
そうすることで、皆がいい仕事をするような
社会になってゆくのではないかな。
そうなったらいいなあと思います。
(いずみ)


「楽しく生きる」を読んで。
43歳、中学校の国語の講師です。

学校は、生徒にヤル気を持たせるため、
どこでもきっと、苦慮されていると思います。
「ナゼ勉強しなくちゃいけないの?」
に明快な答えを出せない先生が多いし、
ゲームもケータイも、楽しいことは山ほどあるんです。

「楽しいがキーワードだ!
 楽しくなければ子どもはやらないぞ! よし!」
と、練ったテーマが「学びを楽しむ授業」でした。
私は間違った方向に進まないよう、願いました。
「学びを楽しむ」とは、学問追求の段階としては、
高次なはずです。

すべては、個々の先生に任されました。

シール、スタンプ、達成カード、寸劇、
そのようなものが大変はやりました。

中学校が、学びまで、
楽しさ一本槍でおしすすめてしまったら、
かえって、生徒が高校生になったときに、
授業にまったくついていけなくなります。
生徒に対して、大変失礼です。

上っ面の、薄っぺらなとこだけ見て、
楽しんでるか楽しんでないかで
カタなんかつけられませんよ。

「楽しく生きたい」ひとたちは、
「ゆとり教育」をどっぷり受けた世代ではないでしょうか。
(愛知県cat)


「楽しく生きる」
この言葉の前に
「自分だけ」がつくか
「私も人も」がつくのかで
イメージが変わると思います。
私も人も楽しく生きるためには、
そこにたどり着くための
道が必要やと思います。
(こう)


正直、仕事をせずにお金をと考えることがある。
でも、そのお金は、元をたどれば
誰かが額に汗して出てきたお金。

自分が得たものでないお金で、素敵なものを買って、
素敵な旅をして、かっこいい車に乗って、
・・・その先にあるのは、楽しい日々でないのだなと。
つまらない退屈な日々ではないかと。

私は、医療職という、
一生学びが必須な仕事につけたことは、
その内容がわくわくできることもある仕事であり、
人ともものとも関わる仕事だったのは
私にとって、本当にラッキーだと思っています。

学びの必要の無い仕事は無いのかなとも思っています。
(玲子)


“「働きたくない」というあなたへ”を
読んできて感じたこと、
また、昨年自分自身に起きた出来事を通して気付いたこと、
そして現在仕事を通して感じていることに共通するのは

人が「考えること」をしていないということです。

現在31歳ですが、昨年、自分の人生の中でも忘れられない
大きな決断をしなければいけないことがありました。
私の望む答えは最初からでていたのに、
人の意見ばかりを求めて
最後は親がそう望むならとあきらめました。
応援してくれる人もいたのにです。
そして後悔しました。

その後悔はその結果に対してというよりも、
決め方に対してでした。
時間が限られていたプレッシャーもありましたが、何よりも
自分で考えて考えて、とことん考え抜くことをせずに、
人の意見を聞く方に労力を使ってしまったことが
今でも残念です。

その体験があったから、
その直後からもっと自分自身と向き合おうと
自分のコアな部分がはっきりした気がします。

“おとなの小論文教室。”を読んで、
やはり自分の考えというのがあっていいこと、
あるべきであることを強く感じながら、
今回の「働きたくない」を読んで、
これも“考えない”ということに
つながっているのではないかと思いました。

考えたときに初めて物事が
自分の身になるのではないでしょうか?

だから春姉のようにパッケージツアーにのらず、
自分自身で考えた旅行からは満足感、達成感が
味わえるのだと思います。

現在、一般社会人向けの教育機関で勤務していますが、
何を学ぶかというところから
自分で考えることをしていない方からの質問が
多いように感じています。

その方の都合や興味などを聞きながら、
相談にのるような形で話を聞きますが
そういった方の多くが長続きしなかったり、
あまり満足いただけていない印象があります。
これは世代に関係なく、様々な年齢の方です。

少し考えればわかるようなことでも情報があふれている今、
自分で答えを出さなくても
ネットやマニュアルがたくさんあることで
考えることを忘れてしまっていて、
それに慣れてしまっているのかもしれません。

この環境を選択肢がたくさんある恵まれた環境とするか、
情報に踊らされている
不幸な環境とするかは私たち次第ですよね。

最近の私の試みは、取り入れる情報を自分で選ぶことです。

本当は自分にあまり必要のない、
いたずらなニュースから少し距離を置いたり、
ノンストップで情報が流れてくるテレビをつけなかったり。
これだけでも自分の考えたいことに
より多く気を使えている気がします。

考えることは自分が自分の人生を生きていることを
最大限に実感できる。

ということに気がつけたことが昨年の後悔から学べた、
とても大事なことでした。
(のんたん)


私は今修士課程で海外に留学に来ています。
学部時代に就職活動も経験しました。
その時に本当によく「楽しく生きたい」を耳にしました。

早く結婚したい、楽に生きたい、
定時に帰れるから公務員がいい、
何の屈託もなく言う友人がたくさん居て、
でも彼らは別に良い子なのです。
授業にもちゃんと来るし、明るいし、良い子です。
だから、尚更何を言えばいいか、自分が感じている
この違和感が何なのかが分かりませんでした。

留学に来ても同じような経験をしました。
せっかく海外に来たから授業より旅行を取る、
英語が苦手だから人前で発表なんてしたくない。
彼らを見ていて、いつもなんだか
「かわいそう」だと思ってしまいます。

友達としゃべっていて楽しい、
美味しいものを食べて楽しい。
そういう楽しさはいくらでもあるけど、
自分の人生の中で人にぜひ伝えたい
楽しかった思い出を探ると、その裏には
必ず苦労があるような気がします。

楽しさや喜びは、何かに努力し、
必死になる過程や結果として得られるもので、
それをゴールにはできないような気がします。
そこをゴールにするのって、逆に苦しいような
そんな気がします。

だから、彼らの中に
自分でも気づいていない苦しみが伝わって
だから「かわいそう」と思ってしまったのでしょうか。
そんな風に感じます。

自分が感じていたもやもやとした思いを、
他にも感じている人がいることに
ほっとしました。
留学生活、頑張ります。
(帰国まで後3ヶ月の大学院生より)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-03-31-WED
YAMADA
戻る