YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson486
   「働きたくない」というあなたへ 10



「楽しく生きる」、「働きたくない」、
「でも就職はする、玉の輿の結婚相手を見つけるために」
そういう若者に、何が言えるか? 何を言いたいか?

読者はどう考えた?

まず、5通のおたより、
一気に読んでほしい。


<ラクと別物、わかってるつもりが‥‥>

“楽しく生きる”は、“楽に生きる”ではない。
けれど、いつのまにか私たちは後者を前者の意味で
使ってしまっている。
“楽な生き方”を選んでいるならまだマシ。

実際は選んだつもりで選ばされている。

自分が楽だと思っている裏には、
しんどいことを引き受けてくれている人がいる。
それを忘れている人は想像力が欠如しているのでしょう。

苦労することが不幸せなのではなく、
生きていてもろもろつきまとう苦しさを楽しめる人が
幸せなのではないでしょうか?

ふと、あるラジオ番組で
明石家さんまさんが言っていたことを思い出しました。
10代のころ、笑福亭松之助師匠のところで
弟子っ子修行をしていたさんまさんは、
毎朝廊下掃除をやらされていました。

ある冬の日、いつものようにぞうきんがけしていると、
酔って朝帰りしたらしい師匠が通りかかり、
「なあ、そんなことしてて楽しいか?」
と聴いてきたそうです。
さんまさんが「いいえ」と答えると、
「そうか、そうやろな」と一言。

そのあと師匠がかけたのは、
“だったら、やめろ”でも、“我慢してやれ”でもなく、

「なら、どうやったら楽しくなるか、考えてみ」

という言葉でした。それからさんまさんは、
どうやったらぞうきんがけが楽しくなるか、
一生懸命考えたそうです。
もちろん、それで作業が楽になるわけはありません。

しかし、あれこれ考えるうち、
ぞうきんがけがなんとなく楽しく、
苦痛ではなくなったそうです。

人生で苦しいことをやらなければならないときは、
必ずある。

けれど、そこにささやかな楽しみや幸せを見つけるのは、
知恵ひとつでできる。
どんな状況にあっても、
人間は考えることができるのですから。
私はそういう知恵を持った人間でありたいです。
(竜巻小僧)


<「楽しい」に自分なりの定義をして>

『たのしい』と『らく』は別のものです。
辞書によれば
『たのしい』は満足で豊かなこと。
『らく』は好きで安らかなこと。
だから、たのしければ、らくでなくても頑張れるし
らくを追求しすぎると、
たのしくなくなってしまいそうです。

『たのしい』には躍動感が満ち溢れています。
『らく』には脱力感があります。
動と静、あるいは生と死のような
対極のイメージです。

『楽』という漢字を覚えたときに
じゅうぶん咀嚼しないで飲み込んでしまうと
のちのち混同してしまうのかもしれません。
『たのしい』という言葉の好感度にまかせて
本人も周囲も気づかないうちに『らく』を促進し
さらに『手抜き』のように誤解されているとしたら
これは単なる勘違いでは済みません。

このシリーズで議論されている「楽しく生きる」も
1.満足し豊かな状態を作り出す
2.心安らかな状態を保つ
3.好きなこと・与えられたことだけをする
のような幅があるように見えます。

3では他との関わりは“もらう”に限られ
行動は受動的で苦難・努力・責任を伴いません。
「楽しく生きる」という言葉が3に聞こえたとき
私たちは特にまずいと感じるのではないでしょうか。

『楽しい』を『手抜き』の温床にしないためにも
面倒がらずにきちんと
意味のすり合わせをしていかなくては、
と思いました。
(emi)


<自立から、自律へ>

私のゼミの教授は、
個人のキャリアを考えるにあたって、
「自立と自律の違い」をあげてらっしゃいました。

自立とは、周囲の意向や期待に関わらず、
現在の個人の意図や思いを実現する事
(自己主張・自己実現)

自律とは、周囲から求められている自分の役割を認識し、
それと調整を図りながら、
自分の新たな可能性や価値観を開発していくプロセス
自分の多様な可能性に気付き、発揮しつづけること
自分の価値の絶対化ではなく、自分の役割の開発と発揮
(自分の立場を理解した上での主張)

我々は、自己中心的な自立へのこだわりを捨てて、
自律に向けて努力をしなければいけないと、
学生時代繰り返し注意をされてきました。

自立と自律の違い。
我がままとアサーティブな主張の違い。

自分の為からスタートし自分の為で終わってしまうのか、
さらに一歩を進めるのか。
そういった部分が、活き活きと働いていくにあたり、
重要なのでは
(祥平)


<良い悪いでなく、浅い>

「働きたくないというあなたへ」を読んでいて
心に浮かんできた言葉があります。
『実存神経症』です。

(注:以下は、文献からの正確な引用でなく、
 読者による、文献に基づいての説明です。)

『実存神経症』は
自分自身の実感や自分自身の内側から
生きられた実感や情熱を持てない状態です。

人生や行為を自分自身のものとして『所持』できず、
『自立』できず、
そして行為や選択の内的根拠や源に
直接接近できないために
『本来的』になることができないのです。

そこに空虚感、存在価値のなさ、絶望や不安が生じます。

人は「世間」の言う通りに生き、単に日課をこなし、
あたかも一般的な文化に従う審判員のために
生きているようなものになります。

実存的な不安は人を
多様な保護や逃避の道を探し求めるよう駆り立てます。

そういった防衛的な闘争は、
人から自由や創造的自発性を奪い、
実存は打撃を受けます。
結局、自分の人生を失う恐怖から逃れようとして、
防衛を失う恐怖の中に生きることになるのです。

‥‥実存神経症は、現代にはびこっていないでしょうか?

「楽しく生きる」「早く死にたい」の中からは
魂の声が聞こえないなあと感じました。
実存が心の奥深い中心とすれば、
それらは心の表面で思い、表面で考え、
表面で決めたことではないでしょうか。

でもその人にとってその時の真実はそこにある。
その人にとってそれは表面ではなくて、
その人の心そのもの。
だったら、少し乱暴かもしれませんが、
それを実現するために生きてみたらいいとも思います。

思い描く「楽しく生きる」ことは、
本当に楽しく生きることになるのか。
本当に死ぬような目に合った時
「早く死ねそうでよかった」と思えるのか。

もしかしたらそうなってみて、
感じるものがあるかもしれない。
人生の方向転換のきっかけになるかもしれない。
(ならないかもしれないけど)

思考するにも、感じるにも、何かとても浅い感じがする。

でもそれは、考えないように育てられてきたから。
与えられた価値観に沿うように求められてきたから。
別に深く考えないと生きていけないわけではないし、
悪いことではないと思う。

私は幸いにも、大学受験で失敗し、
社会から切り離されました。

海外で住まう親戚の家にお邪魔し、
語学学校に行っていました。
そこでは、周りに比べて成績や評判はどうかという
相対的な自分は意味をなさず、
非常に苦しい日々が続きました。
親戚のおばさんは厳しい人で、
毎日私に「傲慢よ」「感謝の気持ちを知らない畜生」と
罵倒をあびせました。

孤独。疎外感。果たして生きていて意味があるのか。

365日のうち300日は泣いていたと思います。
その先に、すべてをそぎ落とされた先に‥‥
それでも立っている自分を見つけました。

地位も、友人も、学歴も、自信も、なにもなくても、
この地球に立っているひとつの生命体への確信。
いわば絶対的な自分でした。
とても小さかったけれど、弱々しかったけれど、
そこに存在していました。

それからは、まわりに合わせ相対的に生きることから、
自分の中心から出てくるものを信じて進む絶対的な自分へ。
環境に合わせる自分から、環境に働きかける自分へ。
自分を円だとしたら、周りの環境から円の表面に
いろんないいものをくっつける自分から、
円の中心から必要な環境を取り入れていく自分へ。

私の転換点はそこでした。
本当に辛い時期でしたが、時を経るごとに、
私の中でその一年は輝きを増してきています。
おそらくは自分の中心に到達した、
私の二度目の「誕生日」のようなものです。

追い詰められると、自己を考えずにはいられない。

逆に追い詰められなければ、
その円の表面だけだって生きていける。

自分の中心からの声が聞こえなくなる。
友達と遊んだり、授業に追われたりして、
なんとなくすごしていく。
とりあえず、進学していく。とりあえず就職していく。
そうして考えずに生きることは、
何ら罪ではないように思います。

どう生きたってその人の勝手。
実存を失ったって、ニートだって、生きていけるし、
一生を終えれる。
なんとなく生きて、なんとなく終われる。

でも本当にそれでいいのか、
自分の人生を自分で引き受けなくていいのか、
そう思った人には全力でサポートしたい。
そういう機会に立ち会えたら、
カウンセラーとして関わっていきたいです。

人を円に例えましたが、
とりあえず日常生活では人は円の表面でばかり出会うし、
コミュニケーションをとっていきます。
だけど、その表面をつくっているものが、
周りにある地位や学歴や服や仕事の
見栄えのいいものを寄せ集めてとりつくろっているのか、
自分の真ん中から湧いてくるものに合わせて
必要なものを選びとっているのか、
一見見分けがつかなくても、
正反対のアプローチで自分をつくっているなあって、
このメールを書いてて思いました。

浅さ、深さ、常にそのときのその人の場所から、
スタートすればいいんじゃないかと思います。
浅い、深いに良い悪いはありません。
ただそこに、そう在るだけです。
出来事に対して自分が開かれていれば、
いつか変わるきっかけが訪れると思います。
(大阪 心理の大学院生 micco)


<もしもいったん、お金に交換しなかったら>

またまた32歳医学生です。
私は以下の事を社会学者の橋爪大三郎という人から
学びました。
自分の考えのように語りますが、人から学んだことです。
どうかご容赦下さい。

仕事というのは、大勢の人々が共同で生きていくための
方法論です。
自分が仕事をする代りに、
他の沢山の人が自分のために仕事をしてくれている。
そういうネットワークの中に身を置くことが
就職の本質です。

例えば朝昼晩、3食美味しいものが食べられる。
毎朝大学に電車で通う。授業を受ける。
たったこれだけのサービスを受けるだけでも、
多くの人が自分のために仕事をしていることになります。

農家の人が収穫をして、
都市にお米や野菜をトラックで運んだり
鉄道会社の職員は眠いのに朝早く起きて、
改札を通れるようにしたり電車を整備したりしている。
大学の先生は授業の準備のために最先端の知識を取り入れ、
その内容を本にまとめたり
わかりやすい講義資料を作ったりしている。

子供は人の仕事の恩恵に預かるばかりですが、
大人になるにつれて、誰かの仕事の恩恵を受ける代わりに、
他の人に役立つ仕事をすることが
求められるようになっていく。

仕事は、こうした大勢の人が支えあうネットワークであり、
知恵の結晶です。
皆がこうした仕事をしなくなったら、
世の中は大混乱に陥ります。
食べ物は作られない。電車はこない。大学の授業はない。
これでは生きていけません。
ですから互いに人のために役立つことが
仕事の本質だと思います。

この現実を踏まえずに、何が自分の好きなことか
夢想していても、なかなか社会に踏み出すことは
できないと思います。

こうした現実に私たちの目がなかなか及ばない原因は、
仕事と仕事の交換を円滑に行うために
「お金」を用いるからだと思います。
「役立つとか言うけど、みんな、
 お金のためにやってるだけじゃないか」
と思ってしまう瞬間が、私にもありました。

すると、もう一つ、
企業がなぜ「競争」をするのかということ、
を考えなければならなくなります。

企業が「お金」をめぐって「競争」するのは、
なるべく無駄使いをしないようにするための
ルールなんです。
切り詰めることをしなかった
共産主義の社会が崩壊したのは、
この約束が無かったからです。
もちろん資本主義にも色々な問題があるのですが、今、
このルールを全てリセットするような知恵を
人間は獲得していません。

ですから、この「競争の必要性」という現実について
理解してもらうことも、若い人たちがビジネスというものに
前向きに参加してもらうためには、
とても必要なことだと私は思っています。
(32歳医学生)



考えなくたって生きられる。
それは悪いことではない。
いいか悪いかでなく、
とても「浅い」、かつ「表面的」なのだ、
という、心理の大学院生の指摘、とても腑に落ちた。

たとえ、それが「働かない」という結論であっても、
「玉の輿」という結論であっても、
その人が、深く考えた末の、実感ある結論であれば、
私は違和感をもたない、むしろ応援したいくらいだ。

だが、生きる意味のような本質的な質問に、
ほんの数秒悩むそぶりさえなく、
ツルツルと「楽しく生きる」を連呼したその響きは、
あまりにも「浅く」「表面的」だった。

良い悪いでなく、「浅い」。

程度の差というものがあるが、
それは看過できないほど、凍りつくほど、
「ついに、ここまできたか」というほどだった。

ただ、救いがあるのは、
凍りつくほど、浅い・表面的なところから、
文章を書いている人も、

ていねいに問いを立てて、自分の中にあるものを引き出す。
整理して、人前でアウトプットする。
聞いた人の反応をじかに受ける。
ほかの多様な就活生の考えに触れる。
ということを繰り返しているうち、しだいに、
深みと実感のある文章が書けるようになる。

「考えたい」と本人が思ったら、全力で、
それを支える体制はある。

「考える方法、ここにあります」と言ってあげたい。

Miccoさんが、カウンセラーという職業柄、
「浅い」「考えない」それもいい、
というのにはすごく納得だ。
人間は根っこのところで「生きてるだけで価値がある」
その想いは私も、まったく一緒だ。そのうえで、

ときに生死にかかわる
重い心の病も扱うカウンセラーの領域と、
就活で、大勢の中から「ぜひ、この人を採用したい」と
選ばれる・伝わる文章が書けるように、導いていく
文章表現インストラクターの領域には、
住み分けがある。

心理的な療法のために水泳を教える人と、
オリンピックで勝つために水泳を教える人の住み分けだ。

働きたくないといいつつ結局、就職はする若者へ、
それならば、面接官に
「伝わる・選ばれる」表現をしたいならば、

たとえ自分を「浅い」と思っても、そのことで、
いいの悪いのと、自分を裁いたり、落ち込んだりせずに、
それは自分のスタートラインであると認め、
(インストラクターである私も、裁かずに認め、)

浅いから、一歩ずつ深みのある言葉へ
表面的な文章から、一歩ずつ実感のある文章へ、
自分の表現を磨いていこう! できるから!
と私は言いたい。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-04-07-WED
YAMADA
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