YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson487
   「働きたくない」というあなたへ 11



「楽しく生きる」、
だから「働きたくない」、
でも、ちゃっかり就職はする、
「玉の輿の相手を見つけて辞めるために」

悪びれた様子もなく、でも決して冗談ではなく、
真顔で、そう言う若者に、

何が言えるか? 何を言いたいか?

読者の31歳男性は、こう考えた。


<もっと信じてみても良いんじゃないか>

今回の『「働きたくない」というあなたへ』シリーズ、
とても興味深く読ませて頂いています。
まず「楽しく生きる」という言葉の違和感について、
読者の方も書かれていましたが、
「楽して生きたい」ということに対する
違和感なのだと思います。

そして「楽して生きたい」が何故違和感を伴うのか、
それは一人一人が背負ってきた経験が発する、
「楽をしているだけでは得ることの出来ない、
大切なことが存在する」という直感なのだと思いました。

簡単に手に入るものは、簡単に失えてしまう。
自分のなかでの、重みがない。
「自分自身」が介入していないための
結果なのだと思います。

自分のことで考えると、31年間生きてきたなかで
一番辛くて、楽じゃなかったときの出来事が、
現在の「自分自身」の骨子をかたち作っています。

当時はもちろんもの凄く辛くて、
今でもその影響で生き辛い性格になったと思っていますが、
それでも「現在の自分」であって良かったと思っています。

多分いまの自分自身を要約していくと出てくる言葉は、
楽じゃなかったあの頃の出来事から作られています。

もうひとつ「楽しく生きる」への違和感の理由として、
「予想できる範囲でしか生きられない」ことの
不自由があると思いました。

自分で「楽しく」と言った段階で、
「自分の思った『楽しい』という範囲」に
制限されてしまうような気がするんですね。

自分が目を背けたくなるところにこそ、
自分自身を広げるなにかが在る。
そう思います。

『世界はいつもそこにあり』

以前のズーニーさんのコラムで出会った、
木村俊介さんのことばです。
この言葉に出合ってからふと思い出すことが多い
フレーズなのですが、今回のコラムを読んでいて
また思い出しました。
(検索したらもう5年も経つんですね。)

まるごとがそこにあり、
自分はそれに介入出来得る。

もっと信じてみても良いんじゃないか。
世界は、思っているよりも貧弱じゃあない。
自戒の念を込めて、そう思います。
(白井哲夫)



文中の、
「世界はいつもそこにあり」とは、
2005年2月16日付け
「Lesson235 意志ある選択が人生をつくる」
に登場する。

「選んだ先が、結果的に
 すごくいいところだったとか、よくなかったとか、
 自分の選択が、あとあと、まちがっていたとか、
 いなかったとか、そんなことはどうでもいい。
 意志のある選択こそが、自分の人生を創っていくんだ。」

と私が言ったところ、
当時のこのコラムの編集者、木村俊介さんから
こんな言葉が返ってきた。


「その先がどうこうではなく、
 意志のある選択が人生を創る」
きれいごとではなく、ほんとにそうだなと感じました。

世界はいつもそこにあり、

観点の選択や、
ピントのあわせかたひとつの違いで
一歩ずつのあゆみが決まるのでしょうけど、

「知らないうちに
 ずいぶんとこの道に入りこんでいたんだな」

と、よくもわるくも思えることが、
とてもたくさんあると、実感しているからです。
             (木村俊介さんからのメール)



「世界はいつもそこにあり」、

世界は、小さな自分の都合なんかおかまいなしに、
常に、そういうカタチで、そこにある。

世界に対して、自分を「ひらく」か?
閉じるか?

「ひらく」にしても、
どの程度、どんな方面に、どんな観点でひらいているか?
あるいは全開なのか?

そのピント合わせをするのが「意志」だ。

同じ世界に接していても、
意志の持ち方ひとつで、
ひとりひとり、入ってくる情報と、
進む先はまったく異なる。

世界とどう関わるか?

「楽しく生きる」、

この一見、だれからも、
なんのケチもつけようのない正論に、
私はおろおろするほどの違和感をもった。

「楽しい」など、だれの目から見ても「良い価値」に、
異議を唱えるのは今の時代、とっても難しいことだ。
案の定、「楽しく生きて何が悪い」、
「ズーニーさんの価値を押し付けるな」と
叱りもいただいた。

しかし、一方で、
「“はやく死にたい”と言われているのと同じ、
 だから放っておけない」と、
読者の森さんのメールから教えられた。

また、心理学の院生miccoさんからは、
「良い悪いでなく、“浅い”。
 浅いことは決して悪いことではない。そして、
 浅さから脱したいと本人が思えば、いつでも道はある」
ということを教えられた。

そして、今回紹介した白井さんのメールでは、
「予想できる範囲でしか生きられないことの不自由」
という新たな観点をいただいた。

「予想範囲しか生きられない」は、
「閉じている」ということだ。

予定不調和な世界に対して、
自分を「ひらいて」、ありのままの世界とダイナミックに
コミットするのではなく、

小さな自分が、「楽しいと思う価値」に
枠組みを設け、その枠組みの中に、
世界のほうを都合よく取り込もうとする。
都合の悪い部分は見ないようにする。

「予想できる範囲でしか生きられないことの不自由」

「自分が目を背けたくなるところにこそ、
 自分自身を広げるなにかが在る」

という白井さんの言葉は、
自分の人生に引き当てて、耳痛く、
深い納得感がある。

「とじる」か? 「ひらく」か?

これも良い悪いではないのだろう。
人間は生きているだけで価値があるのだし、
自分の人生振り返っても、
「閉じ腐って」生きていた時期がある。
それもあとから考えると必要であり、
今の自分をつくってくれた時期だ。

その上で、文章表現インストラクターである私が、
もてる経験と能力の限りを尽くして、
生徒さんの文章を読み、
結果的に、いま、「面白い!」と感じる文章は、

やっぱり、世界に対して「ひらいて」いる人の文章なのだ。

私自身、反省的に思うのは、
私たちが文章を書くとき、どうしても、
感動のストーリーにしたてあげなければいけない、
という強迫観念みたいなものがあることだ。

ラストに「泣かす」、あるいは「笑わせる」、
あるいは「感動させる」などの「オチ」を決め、
その「オチ」に向かって、
都合よく、自分の体験や、見聞きした情報などを、
文章に取り込んで、切って、つないて、
ひとつのストーリーに仕立て上げる。

でも、現実っていうのは、そんなに都合よくそこに
転がっているものだろうか?

例えば、「自分が、ある体験から人間の美しさを学んだ」
という、感動のストーリーじたての文章を書こうとする。
その体験には、たしかに美しい部分もあり、でも
汚い部分もまじっている。
現実に忠実に、「ほんとうのこと」を
書こうとすればするほど、
美も、醜も、いりまじっていて、
そんなに単純に「いい話」にはならなくなる。

そこで、「ひらく」か? 「とじる」か?

「とじる」というのは、自分のオチに向かって、
現実のほうを、都合よく、切ったり、張ったり、
加工したり、
カタチを変えて、おとなしく、文章に納めこんでしまう。

まとまりはあるんだけれど、
展開が読める、オチが読める、つまり、

「予定調和」なのだ。

いっぽう、自分のほうを、
現実世界に対して「ひらく」人は、
ある種、現実にされるがままになって苦しむ。
「自分が、ある体験から人間の美しさを学んだ」
という文章を書こうと出発するも、
その体験を、正直にたどってみると、
人の美しさも見たが、ついでに、
すごく醜い部分も観てしまった。
美しいも醜いも同時に見てしまい、
ただただ「放心」している自分がいたりする。

「これをこのまま文章に書いても、
 感動のストーリにはならない、どうしよう?」と、
もがく。

そのときに、現実を都合よく切り刻んだり、
文章にあわせて、ある側面だけ切り取ろうとはせず、
それでも、「ほんとうのことを書こう」と苦しむ人が、
世界に対して、自分をひらく人だ。

結果、そういう人の文章は、
次の展開が読めない、スリリングで、
ついつい引き込まれて、終わりまで一気に読んでしまう。

完成度やまとまり、オチには欠けるのかもしれない。
へたすると、最後まで読んだ人が
「だからどうなんだ?」ということにもなりかねないような
あぶなさもはらんで展開する。

でも、文章が小さい完成品としてまとまらず、
不完全でも、おどろくべきスケール感で、
私たちをとりまくこの世界のほんとうを
突き刺していたりする。

「世界は、つねにそこにあり」

だって世界はそういうものだ。
自分が必死で努力して働きかけたってままにはならず、
逆に努力する自分をあざわらうかのように、
もてあそんだり、つぶそうとしたり、
大事なものを奪ったり、
でも、まったく予想外のところから、
手が差し伸べられたり、
道がひらけたり‥‥。
世界には、小さい枠組みの自分を超えたスケールがある。

世界をうまく牛耳って、
おとなしく自分の文章に納め込むか?

それとも、世界のほうに自分をひらいて、
自分の文章力には納まりきらないほどのスケールの世界の、
それでも「ほんとう」を書こうとするか?

良いか悪いかでなく、ひらいている人の文章は面白い。
予定不調和だからだ。

人生もそうではないか?

これから社会に出ようとする人は、
ある種「ひらきっぱなし」を強要されることになる。

学校までとは、ゴールも、ルールも、考え方も、
まるっきり違う「別世界」に、ほうりだされるからだ。

なじみのない、自分のやり方・考え方が通用しない世界は、
不安だし、不快だ。

そこで、「とじる」か? 「ひらく」か?

楽しく生きる。
自分の思い描いた、玉の輿というオチに向かって、
都合よく、社会のほうを切り貼りして取り込み、
都合の悪い部分は見ずに、「とじて」、
なるたけ早く、なるたけ傷つかずに、
予定調和のストーリーを歩んでいきたいか?

潔いまでの「ひらきっぷり」で、
別世界に、翻弄されたり、あざわらわれたり、
ふいに助けられたり、思わぬものが見つかったり、
傷つきながらも、「自分の枠組み」を超えたスケールの、
予定不調和の社会人生活を楽しむか?

読者の白井さんの言葉をもう一度上げておこう、


「楽しく」と言った段階で、
「自分の思った『楽しい』という範囲」に
制限されてないか、

「予想できる範囲でしか生きられないことの不自由」

自分が目を背けたくなるところにこそ、
自分自身を広げるなにかが在る。

『世界はいつもそこにあり』

まるごとがそこにあり、
自分はそれに介入出来得る。

もっと信じてみても良いんじゃないか。
世界は、思っているよりも貧弱じゃあない。
(白井哲夫)


「信じろ! ひらけ!」

と、私も、これからの若者と、自分自身に言いたい。

その道に対する、歴史もノウハウもなくても、
いや、ないからこそ、なおさら、「ひらく」ことはできる。

「ひらけ! 世界は捨てたもんじゃない、
 信じろ! 世界は、あなたを待っている」

あの就活セミナーの学生に、私は、心から言いたい。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2010-04-14-WED
YAMADA
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