おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson490 自分とつながらない人 「まず自分と通じる」、 これが伝わる表現のスタートラインだ。 自分と通じていない人の話が、 人に通じるはずもない。 自分と通じるチカラは、みんなにある。 ただ、ふだん、 自分と交信する作業を、 サボりつづけていると、 いざ、自分と通じようというとき、 つながらなくて、 迷走することがある。 うまく「自分とつながる人」、 なかなか「自分とつながれない人」、 なにがちがうのだろうか? 「自分」について文章を書いてください というと、とても多くの人が、 次のような構造の文章を書く。 1.まず自分の「欠点」をあげる。 2.次に欠点の「原因」を考える。 3.そのような欠点のある自分は「嫌だ」 変わりたいと願う。 4.これからこんな自分になりたいと 「決意表明」で締める。 たとえばこのような文章。 「私はなんて面白味に欠ける人間なんだろう。 子どものころ目立って嫌われて以来、 人並みであろうと自分を押さえてきたツケだ。 しかし最近、型破りでも面白い人にたくさん会い、 そんな自分に嫌気がさした。 これからは嫌われることを恐れず、 面白い、魅力ある人間になりたい。」 学生、社会人とわず、 自分を表現するときに、 「欠点」から入る人はとても多い。 私もよくやる。 自己肯定感が低いとされる日本で、 自分を反省的に見ることは、 謙虚でいいことのように思われている。 しかし、このようなパターンの文章の多くが、 他と似たような印象になり、 なかなか「かけがえのない自分」を表現できずにいるのは なぜだろう? 「無いものは生めない」と、私は思う。 「人間の面白味」をテーマに 自分を表現するのならば、 「面白味にまつわるエピソード」とか、 「面白味があることでまわりにどう影響するか」とか、 「人間の面白味とはなにか」とか、とにかく、 面白味について語らなければならない。 しかし、その肝心の「面白味」は、 「自分には無い」と言っている。 「欠点」とは、自分に「欠けているもの」、 そう、「自分に無いもの」だ。 「無いものは語れない。」 表現とは、自分の中に「有る」ものを、 生むようにして、外に出す行為だ。 だから「欠点」という「無い」ものではなく、 「有る」ものに目を向けたほうがいい。 できれば、 自分の中で歴史の深いもの、 自分に根を張っているもの、 すでに身についてあたりまえになったもの、 を見ていくのが、自分と通じる道だ。 一方で、 じゃあ「長所」から見ていけばいいのか、 じゃあ「自分は素晴らしい」と書けばいいのか、 というとそうでもない。 「自分はダメだ」という文章も、 「自分はいい、素晴らしい」という文章も、 実は、同じ問題を抱えている。 早々に「自分を裁く」という問題だ。 ふだん自分を見つめることをしていない人が、 あらためて、自分という氷山の奥に向けて、 潜るように自分を見つめていくと、 まるで鏡をみるように、次々と自分の姿を見てしまう。 多くの人は、すぐに欠点が目につく。 だが、すぐに美点のほうが目にはいる人もいる。 その時点で、 「自分はダメだ」と落ち込む人も、 「自分はいい、素晴らしい」と歓ぶ人も、 それ以上深く、自分に潜れないように思う。 表現は、「いいか、だめか」を裁く行為ではない。 「いいか、だめか」のモノサシをいったん放さないと、 それ以上、深い自分は見えてこない。 例えばこういうことだ。 ふだんの自分が、 もっと心の奥にあるもう一人の自分と、 対話して、通じ合おうとしている。 心の奥の自分が言う。 「私はなんて面白味に欠ける人間なんだろう」 するとすかさず、 「そんな自分はだめじゃないか。 もっと面白い、もっと魅力のある人間になろうよ!」 そこで対話は止まってしまう。 心の奥の自分は、否定されて何も言えなくなってしまう。 反対に、 「面白味に欠ける? それって素晴らしいじゃないか。 いいことだよ。普通がいちばん、普通こそ素晴らしい!」 と絶賛しても、心の奥の自分は、これでいいと思い、 やはり、何も言わなくなってしまう。 「自己理解」をしたいと言いつつも、 早々に出てきた自分の特徴を、 「いいか、わるいか」と裁いて、 そこで手が止まってしまっている人も多いのではないか。 「自分と通じる」人は、 「いいか、わるいか」で語らない人が多い。 自分を見つめる過程で、 嫌な側面や、美しい側面が出てきても、 そこで自分がいいの、わるいのと裁かずに、 じっくり、辛抱強く、自分の言い分を最後まで 引き出して聞いてやる。 心の奥の自分が 「私はなんて面白味に欠ける人間なんだろう」 と言ったとしたら、 「いつごろからそう思ったの?」 「そのときどんな気持ちだった?」 「自分で自分が面白いとおもった経験はないの?」 「そのときどんなところが面白いと思った?」 「いちばん印象に残る面白さってどんなもの?」 というふうに、判断を加えないで、 次々と、その言い分を聞いていく。 一言聞いたら、さらに、その奥にある想い、 また一言聞いたら、その言葉の意味、 今度は、その言葉の手触りや匂い、 ある側面を聞いたら、その反対側の側面、 というように、できるだけまんべんなく、 できるだけ深く、自分の言い分を聞いていき、 ついには、心の奥の奥にあった、 「自分の最も言いたいこと」をひっぱり出して言葉にする。 「最も言いたいこと」を浮上させる。 これが「自分と通じる」ことだと思う。 たとえその「最も言いたいこと」が、 ささやかでも、ちっぽけでも、 人から反発されがちなことであっても、 「もっとも言いたいこと」が見つかった文章は、 その人と言葉が、ぴたりと一致して、 読む人に染みとおるようなチカラがある。 じっくり、辛抱強く、自分の声を聞く。 声を聞いて受け取った「最も言いたいこと」を 忠実に書く。 ただそれだけで、 自分と通じることができるし、 人に通じる文章にもなる。 にもかかわらず、それができないのはなぜだろうか? 「欲」が邪魔しているように思う。 自分は、より立派で、もっと賢く、もっと素晴らしい人で あってほしいという「願望」、 願望を通り越して「欲」があると、 自分以上に自分を良く見せようとする文章になる。 すると、せっかく自分との対話で見えてきた自分を、 「こんなの本当の自分じゃない」と通り過ぎたり、 立派でない自分を、文章の上で、 必要以上に裁いたり、落ち込んだりする。 あるいは、もっと立派でもっと壮大な人物になるべく、 自己変革に駆り立てる。 等身大の自分と、自分の書くものがブレてしまう。 これでは自分とつながれない。 自分は、現実以上に素敵な人間であってほしい、 という欲を捨てる。 かといって卑下もしない。 まずは「自分の中で歴史の深いもの・根を張っているもの」 から話を聞いていき、 「いい・悪い」のモノサシを捨て、 「最も言いたいこと」が出てくるまで、 じっくり、辛抱強く、自分の言い分を引き出して、 聞いてやる。 「自分とつながれない」とき、 私自身も、これらを試そうと思う。 |
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2010-05-12-WED
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