Lesson495 守ってあげたい 4
「カウンセラーになりたい」という人がとても多い、
私のまわりには、
目立って増えているように思う。
その多さは、知人が、ポツリ、
こうつぶやいたほどだ。
「みんなカウンセラーになりたいとか、
コーチになりたいとか、
迷っている人を助けたいという人ばかり。
もっと“俺は、米をつくる!”とか、
“俺はおっきいビルを建てたい!”とか、
そういう仕事をしたいっていう人はいないのか?」
もちろん、カウンセラーも、コーチも、
実際なっている人を見ると、立派な仕事だ。
友人にも第一線でバリバリ活躍している人がいて、
彼らは、努力して人や社会に役立っている。
彼らは、動機もしっかりしている。
こうしたプロたちには、尊敬こそあれ、
なんの違和感もない。
私がどうも、腑に落ちないのは、
これといって動機なく「なりたい」と言う人、
ある日突然、「カウンセラーになりたい」と
言い出す人たちだ。
そういう人は、
過去との連続性がまるでないところで、
唐突に、「カウンセラーになりたい」と言い出した
ように私には見える。
そしてこう言う。
「自分より、弱っている人を、導きたい。」
この言葉で思い出す人がいる。
プライバシーに抵触しないよう、改変を加えてお話したい。
その友人は、ある日突然、唐突に、
カウンセラーになりたいと言い出した。
もちろん、過去に心理学に興味があるとか、
家族などの身近な人が精神面の病気で苦しんでいるとか、
ただの一回でも聞いていれば、話は別だ。しかし、
彼とは何年来の付き合いになるが、
一回も、その方面に興味があるとは、だれも聞いていない。
私も、彼の友人たちも、
ものわかりはいいほうだが、なんとも賛成しかねていた。
腑に落ちない。
彼は、大学時代から、編集者になりたくて、なりたくて
念願の出版社に入社した。
いろいろ苦労はあるだろうけれど、
彼には、編集の仕事がいちばん合っているように見えた。
彼はこう言った。
「弱っている人を助けてあげたい。」
結局彼は出版社をやめ、その道にはいったものの、
長続きはしなかった。2年間迷走をつづけたはて、
やっぱり編集の仕事に戻った。
あれはなんだったのだろう?
「らしく」もなく、根もなく、今から思えば一過性の、
「弱い人を助けたい」と唐突に言い出した彼の心理は?
だから、それから数年たったある日、
まさか自分が、彼と同じ言葉を口にするとは
思ってもみなかった。
私は、あとにも先にも1回だけ、
彼と同じことを言ったことがある。
「病気で心を閉ざしてしまった子どもたちに、
文章を書くことを教え、心をひらいてもらいたい。」
16年間勤めた会社を辞めた38歳のある日、
私は、友人でありプロデューサーをしていた女性に
そう言った。
その女性は、さっと違和感をあらわにした。
彼女の態度を見て、私は、はっ、と、
どうして、こんなことを言ったのだろうと、
われと、わが口を疑った。
私の表現教育の対象は、広く、あまねく、全ての人だ。
下は小学校から、中・高・大学生、
企業の人、一般の社会人、高齢者、
また、プロのライターやジャーナリスト、
学校の先生や、大学教授にも、
文章表現・コミュニケーションの基礎を伝えてきた。
この姿勢はフリーランスになって10年、
まったく変わっていない。
つまり、自分より幼いものにも、年長者にも、
自分より、まだ表現力が磨かれていない人にも、
自分より知力や表現力がはるかに勝る人にも、
対象を選ばず、仕事をしてきた。
しかし、あの一時だけ、私は、確かに、
「こども」、しかも、「病気のこども」と言った。
それまでの自分となんの連続性もない。
もしも、昔から、児童教育に興味があったり、
児童心理に関心があったり、
ボランティアなどの活動をしていたら、
友人だって納得して聞いてくれただろう。
しかし、そのとき、いっさいの根も、背景もなく、
唐突に、聞かれもしないのに、私は、
「病気のこども」と言った。
いま、その心理がわかる。
当時の自分は、アイデンティティの危機だった。
会社という殻をなくし、かたつむりのように、
むき身でもがき、編集者という天職を失い、
内からも存在意義が揺らぎ、
次の仕事もいっこうに見通しがつかなかった。
自分の外に「居場所」がなく、
内からは「自分が何者か?」、わからない。
日々、自分という輪郭を失いつつあり、
存在理由を失っていく。
これは、実際なってみると、予想以上にキツイ状況だ。
小・中・高・大学、それから会社へ就職と、
大多数の人が歩む道を、順調に歩いていると
なかなかわからないが、
いったんアイデンティティがグラグラしはじめると、
四六時中、押しつぶされそうなくらいツライ。
自分が消えつつあるから、その反動で、
はやく、わかりやすい、
なにかのカタチを主張しようとする。
そのときに、無意識に口をついて出たのが、
「自分より弱い人を導く」というカタチだった。
このときの自分をいまふりかえっても、
とても恥ずかしく思う。
病気の子どもにも失礼だし、
実際に、病気の子どもを導く仕事をしている人に失礼だ。
表現力ひとつをもってしても、
子ども=弱いとは限らず、
実際、私は、小学校でワークショップをするとき、
大人以上に、気力・知力・体力を使う。
まるで、子どもというマンモスに挑みかかっていくアリだ。
同様に、病気のあるなしで、人を弱い、強いと
言えるものではない。
実際、病気の子どもを助ける仕事をしている人は、
尊敬するカウンセラーの友人もそうだけど、
「自分より弱いもの」に向かっているんじゃない。
もっと大きな、遠くて、深い目標、
「人間とは何か」「人の心理とは?」
に挑んで、日々努力している。
あのときの私の物言いは、
あまりにも対象を見くびっている。
社会福祉士をしている私の姪のように、
中学のときからずっと老人ホームを訪問したり、
ずっとお年寄りに関心を払い、
努力して学び続けてきた人、
つまり、動機がしっかりしているし、
根のある人は、「弱い人を導く」と言っても
説得力が違う。
根もなく、唐突に、軽く言った、私は間違っていた。
そのとき、拒否感をあらわにしてくれた友人の女性に
いまは、本当に感謝している。
あのとき同調してくれなかったからこそ、
私は、間違いに気づき、
はやくわかりやすいカタチをアピールしようとはせず、
わかりにくくても、遠くても、明日が見えなくても
自分らしい道をコツコツ築いていこうと覚悟を決めた。
「家族を守る」
この言葉を使う、時と状況によっては、
まったく問題ないどころか、むしろいいことだ。
しかし、私が気になるのは、
1.具体的な敵がいるわけではない。
2.仕事をそれ以上がんばらないことと
セットにして語られる。
3.聞かれてもいないのに自分からふれまわる。
そういう状況で「守る」が使われるとき、
あの日の自分と重なるのだ。
自分のアイデンティティが、それと気づかず
ぐらぐらなとき、無意識に、
「自分の居場所はここにあり!」
「これぞ自分だ!」と、まわりにも、
自分にも言い聞かせたくなる。
そのときに、いいかわるいかは別として、
二つの方向があると思う。
例えば、
「ハリウッドに行って、映画の頂点を目指す!
それが私!」
というように、
外へ、外へ。より遠く、より強い目標に向かう道。
一方で、
「よい家庭人として。子どもや妻を守りたい」
というように、
内へ内へ。より身近、自分より弱いと感じる対象に
向かう道。
どっちがいい悪いということではない。
ハリウッドで頂点取る人ばっかりで、
家庭崩壊になっても困るし、
みんなが家庭志向になって、
だれも外でがんばらなくなっても困る。両方いていい。
問題は、内を目指すか、外を目指すかではなく、
その選択は自分に合っているか、どうか?
いま、内へ内へ、
関心の範囲は狭く狭くなる傾向がある。
「自分より、弱っている人を、導きたい。」
そこに自分のアイデンティティを見つけたい、というとき、
動機が肝心だ。
カウンセラーをやっている友人や、
社会福祉士をやっている姪のように、
そこに切実な動機があり、その人の背景にふさわしいとき、
その言葉には説得力がある。
結局それは、自分より弱いものに向かう行為ではなく、
より強い目標に向かう行為だ。
でも、かつての私や、結局編集に戻った友人のように、
なにか自分のパワーが落ちて、
弱さから言ったのであれば、それは見直してみるべきだ。
導きたいのでなく、導かれたいのではないか?
助けたいのでなく、助けてほしいのではないか?
守りたいのでなく、守られたいのではないか?
私は会社を辞めたとき、
精神的にも、経済的にも、あまりにも不安で
押しつぶされそうだったので、
「退職者の支援システム」みたいなものがつくれないかな
と言っていた。
退職者のセーフティネットになりたいと。
でも考えたら、そのときの自分に、退職者たちを
守るチカラなど、まったくない。
自分の身ひとつ守れずオロオロしていたのだから、
ましてや他人を守るなど、そのシステムを構築するなど、
経験も知恵もないわけだ。
自分の身ひとつ守れない私が、
人を守ると言わずにおれなかった。
そのときの私の心理は、
「いま、私は押しつぶされそうな状況にいる。
このような状況で、本来、なにかが、
私を庇護してくれてしかるべきだ。
なのに、いまの私には、
なんの守ってくれるシステムもない。
ここで守ってくれる存在が何もないとは、けしからん。
私のこの苦しみは、
ひとりではのりこえられないものなのに、
本来ひとりでのりこえなくてもいいものなのに、
システムがないから悪いんだ。
それなら、私がシステムをつくって、
同じ悩みに苦しむ人を守ってあげたい。」
これは結局、自分が「守ってほしい」と言っている。
つまり、自分の苦境は、人が、社会が、システムが
救ってくれて当然であって、
救ってくれないとはなんたることかと、
反旗をひるがえすことで、結局は、そこに執着し、
心の底では、「救ってほしい」とせがんでいる。
会社のセーフティネットにどっぷりつかっていたせいで、
苦境は「みんな」で乗り切るものと、どこかで
思っていたふしがある。
今振り返ると、このときの苦境は、
社会やシステムやみんなをあてにせず、
「自分で」のりこえるべき問題であったし、
実際、「自分で」のりこえるしかなかったように思う。
当時の私のように、「守ってほしい」とは言えず、
あるいは、自分でも自覚できておらず、
「守ってあげたい」と言っている人は、
多いんじゃないだろうか?
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