YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson497
      守ってあげたい 6



「家族を守る、
 そのために仕事をわりきる。」

聞かれてもいないのに、自分からそう言う男性に、
立て続けに出会った。
私のなかに、なんとも違和感があり、
このシリーズにつながった。

読者のリコさんは言う。


<自分で自分に言い聞かせている?>

「家族を守る」への腑に落ちない感に近いものを
私も感じたことがあります。

20代前半や10代の子らが
彼氏や彼女とうまくいっている、
ラブラブだということを
他人にアピールしていた時です。

2人の間でわかっていればいいことで、
なぜ自らアピールするのかなぁ。

不安な気持ちを「ラブラブなんです」と
自分で言うことで、
自分に言い聞かせてるんじゃないだろうか。

「家族を守る」っていうのも、
自分に言い聞かせているだけなんじゃないでしょうか。

本当は考えないといけないことがあるのに、
そう言い聞かせることで
思考停止状態にしてるんじゃないかなぁ。
(リコ)



「家族のために仕事をわりきる」
と言い切る人たちが、その実、
心の底でわりきれてはいない。

心の底の底では、
「わりきれない」と泣いている。
それをなだめるために、
「これでいいんだ」「これでいいんだ」と
言い聞かせている言葉が、
「家族を守る」ではないだろうか?

「家族を守る」って、どうすることだろう?

例えば、なにか危機がせまっていて、
自分の子どもの命を守るとする。

お父さんは、必死で、
定時で仕事を切り上げて、
子どもの送り迎えをするとする。

でも、もし、
会社で仕事をしている間に、
子どもが襲われたら?

学校に不審人物が、刃物をもって押し入ったら?
子ども同士のいじめとか、クラス内の揉め事で、
同級生が逆上して、襲い掛かってきたら?

四六時中、こどもに
ついているわけにはいかない。

そこは、学校にがんばってもらうしかない。

学校には、警備を厳重にしてほしい。
先生には、いじめが起きないように、
こどもが、暴力にうって出ないように、
話し合いをもったり、教育をがんばってもらうしかない。

もし、家族思いのお父さんがいて、
会社を休職して、四六時中、こどものそばにいるとする。

学校にもついていって、
送り迎えもずっと一緒、家でも一緒にいるとして。

そこに、刃物をもった強盗がきたら?

刃物なら退治できるお父さんもいるかもしれない。
では、相手が銃をもっていたら? マシンガンだったら?
相手が複数だったら?
相手が毒をまいたら? 爆弾をもっていたら?

どんなに家族思いのお父さんでも、
それには太刀打ちできない。

そこは警察にがんばってもらうしかない。

鉄砲を持った強盗は、
鉄砲を持った警察になんとかしてもらわなければ、
私たちには、なすすべがない。
爆弾は爆弾処理班に、
毒は、防毒服に身を包んだ専門の処理班に
処理してもらうしかない。

そんな非常時は、おきるわけがない
と思っている人も、

もし、家に子どもといるときに地震が来て、
家が手抜き工事のため、耐震構造がなっておらず、
建物が崩れて、子どもが下敷きになってしまったら?

家族一緒の夕食で餃子を食べて、
もしも、餃子に毒が混入されていたら?

そこは、それぞれの職場の人にがんばってもらうしかない。

建築をする人は、
設計する人も、資材を調達する人も、現場で働く人も、
正直に、安全な建物になるようにがんばってほしい。

食品を加工する人は、
衛生面にも、働く人のやりがいにも、
気を配ってがんばって、安全でおいしい食事をつくって
もらうしかない。

先日、「歩道橋圧死事件」の報道を見て、
そのことを再認識した。

花火大会に押し寄せた人が、
歩道橋にすし詰めになり、
人から人へ恐ろしい圧力がかかって、将棋倒しになり、
何百の死傷者を出した。

亡くなった方の中には、多数、こどもも含まれていた。

歩道橋の構造には問題があった。
警察の警備は、そもそも手薄であった。
警備計画にも問題があった。
当日の対応にも問題があった。

そこでは、どんなに、こども思いの親が、
しっかりとこどもの手を握っていても、
どうすることもできなかった。
どんなに悔しいことか。

プロがプロとして、
それぞれの責務をまっとうしてもらわないことには、
人の命は守れない。

「持ち場を守る」

守るべきものは、仕事とか家庭にかかわらず、
自分の持ち場だと、
先週紹介した「Kさん」の意見に共感する。

また、「ぷーちゃん」の、
「守るを使っていい唯一の対象は自分だ」
という意見にも。

「持ち場を守る」は、以前、
読者のいずみさんの投稿にあった言葉、
もう一度、その投稿をあげておこう。


<持ち場を守る>

私は大学卒業と同時に子どもを授かったので、
働いたことはありません。

子育てをしていると
社会から遠ざかっているように感じ、
「そのうち働かなくては、
 そのために今のうちに何かをしなくては」と
焦ってしまうことがありました。

でも今は「子育てを通して社会と立派につながっている」
と思うことができます。

「スイミー」という絵本があります。

小さなさかなが集まって大きなさかなを作り
自分たちよりも大きなさかなたちを追い出す、
というお話です。

その中に「けっしてはなればなれにならないこと、
みんなもちばをまもること」という言葉があります。

私たちは小さなさかなが集まって
大きなさかなを作っているのだと思います。
だから、今私がいる場所が私のもちばであって、
そこを私がまもらないといけないのです。

「自己実現よりも大きな何か」に私たちは束縛されていて、
それを知って自分のもちばをまもることで
自己実現もかなうもののように今は思います。

どんなに選択肢があっても、
どれを選んだらいいのかわからずにいる間は
自由にはなれない。
あるいは無限に選択肢があるだけではどこへもいけない。

もし今その間で立ち尽くしているのなら、
それは本当にもったいないことだとおもう。
今自分が立っている場所をもっとよく見渡したら、
きっとそこに自分の探しているものがあるはずです。
見慣れすぎていて見ていなかったものが
絶対にあるはずです。
(いずみ)



「家族を守る」それもとっても大切なのだけど、
もっと大きな枠組みのなかで、私たちは生かされていて、

ときに、家族が一緒にいてくれという気持ちを譲ってでも、
任務をまっとうする。
それが、めぐりめぐって、社会をよくし、
家族を守ることにつながる。

逆に、ときに、出世を見送ってでも、
父である自分の役割を譲らず、いわば父親のプロとして、
こどもを、責任を持ってりっぱな人間に育てる。
そのことが、めぐりめぐって社会全体をよくすることに
つながることもある。

家族のために仕事をわりきるとか、
仕事のために家庭を犠牲にするとか、
人はカンタンに言うけれど、

「人は、そんなに器用に2つの世界を分けられない。
 どっちも自分だ!」

とは、このシリーズの1回目で紹介した男性の言葉だ。

この男性には、病気で入院している奥さんと、
小さい子どもさんがいる。

どんなに家庭優先にしたとしても、
職場のみんなからは責められない状況だ。

しかし、この男性は、仕事も、家族のことも、
自分のための勉強も、
妥協なく、すべて精一杯がんばっている。

「妻を守る」とは決して言わず、
「妻から学ぶ」と言う。

どうして、そんなにがんばれるのか?
とたずねたところ、

「今日一日。これが最期だとしたら、どう生きるか?
 と真剣に考えたら自然にそうなった。」

と男性は言う。
奥さんの病気が本当に深刻で、いつ、
今日が最期と言われてもおかしくない状況が続いたとき、
仕事も、家族のことも、どちらも自分だ
精一杯生きなければ、と思ったと。

「家族のためにわりきる」
と人はカンタンに言うけれど、
仕事は、最低でも7時間は拘束されるものだ。
わりきった場所に、7時間いなければならない。
しかも、家族が大変なときに。

そのほうがつらい、と男性は言う。

そこで自分が働く意味があると思えばこそ、
「職場で自分として生きればこそ」、
やっていけるのだ。

仕事も、家族のことも、そのほかの自分の趣味や勉強も、
ちゃんとやらなければならないと、
そのことを妻から教えられたと、
職場のみんなにも伝えたいと、男性は言う。

「家族を守る。そのために仕事はわりきる。」

「わりきられた自分」はどこに行くのだろう?
どこにも行けず、自分のなかで泣いている。
私が感じた違和感は、

「ほんとは仕事ももっとがんばりたい、
 でもできない状況がある」という、
心の底の叫びではないだろうか?

家族か、仕事か、ひとつしかがんばれない。

無意識にそういう先入観に縛られている人は
私のほかにも多いんじゃないだろうか。
でも、上記の男性のように、
やろうと思ったらできるのだ。

そして、それはできる。
と、なによりこの男性の存在が、身をもって伝えてくれる。

「仕事をわりきる」と言ったそばで、泣いてる自分がいる。
自分の責任感・潜在力・正義感は泣いている。
「家庭を犠牲にする」と言ったそばで、
いやだーともがいている自分がいる。
自分の愛情は、発路をなくしてもがいている。
「仕事と家庭で精一杯、ほかのことなんてできない」
と言ったときに、しょんぼりしている自分がいる。

自分の声を聞いてやれる人間は自分しかいない。

私たちは、充分、あきるまで、
自分の声を聞いてやらねばならない。
その声を実現させる努力をしなければならない。
自分は騙せない。

守るべきものは?

と聞かれたら、私はこう答えるだろう。

「いま、ここを、自分として生きる。」

それだけは、どんな誘惑がきても、
どんな、すりかえようとさせる圧力にあっても、
守りとおさなければならない。
あの男性の声がする。

「仕事も家庭も、そのほかの趣味も、全部自分。
 ちゃんと自分を生きなければならない。

 そして、それは、できるのだ。」と。

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2010-06-30-WED
YAMADA
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