Lesson498
守ってあげたい 7
「きみを守る」
と言われたときに、
その意味をたずねるなんて無粋だ、
という人が、多数派ではないが多くいた。
たとえばこんな意見だ。
「一生守る」といわれて
「具体的にどうやって?」なんて聴いたら興ざめです。
「守ってあげたい」=あなたが大好きです、
くらいに受け取って
笑顔で「よろしく」って言えばすてき。
(sunao)
あなたはどうだろう?
これも正解なんかどこにもないのだが、
自分の大切な人が、
飲み込めない言葉を使っていたら、
意味をたずねるか?
聴きたいけど勇気がでないか?
それとも無粋だとあえてたずねないか?
私は、あんまり田舎なので「八つ墓村」のロケがくるくらい
田舎に生まれ育った。
そこでは、なにも言わなくても察知しあえる
というのが美徳だ。
小さな田舎町で、遊ぶところも、生活スタイルも、
使う独特の方言も、みんな似ている。
人も優しく、のどかで、言葉にしないものを
汲み取りあう余裕があった。
そういう状況では、sunaoさんの言うことも
とてもよくわかるのだ。
言葉にせずわかりあっているものは、
言葉にするととたんに
狭く薄っぺらになってしまう気がする。
それが興ざめだ。
だが、東京に出て、私はこの概念をくつがえす
2人の女性に出会った。
一人は、最初の本の編集者の女性。
もう一人は戯曲を書いている友人の女性だ。
二人とも仕事柄、言葉をとっても大事にしている。
私はこの二人がとても好きで、
なんで好きなのかと考えたことがある。
すぐ答えは出た。
「理解」を注いでくれるからだ。
言葉による、深く、いきとどいた、正確な
私への「理解」を、惜しみなく注いでくれる。
理解の深さが抜群で、
メールなどもらうと、泣ける。しみいる。
この二人に共通するのは、
会話中に、言葉の意味をズバッと
たずねてくることだ。
最初はびっくりした。
「山田さん、いま、“ゆとり”って、
どういう意味で言ってます?」
田舎では、そんなことをすると
話の腰を折るとされ、失礼と考えられてきた。
私も会話の流れをいったん中断され、
最初はとまどった。
それどころか、この二人は、
私の話に違和感があると、
はっきり、表情や言葉に出す。
「それって、どういうこと?」
と聞いてくる。
しかし、聞くだけなのだ。
あえてそこで、彼女自身の意見を挟んではこない。
そこで私は、必死に言葉を砕いて説明する。
しかし、話が終盤にさしかかると、
「私の言うことを、こんなに深いレベルで
こんなに正確に理解されたことなんてない!」
と感動するレベルに達している。
逆に、話の流れをさえぎらない人、
なにを言っても、言葉足らずでも、
「そうね、そうね、わかる、わかる」と言ってくれ、
よどみなく会話が続く相手でも、
実際、終わってみると、実りがないというか、
通じ合えた手ごたえがまったくないこともある。
「わかる」ではなく、「わかったふり」なのだ。
「そうね、そうね」の会話が、その実通じ合えておらず、
逆に、何度もさえぎられたり、意味を聴かれたり、
違和感をもってツッコまれた会話のほうが、
その実、通じ合っている。
彼女たちがやっているのは、
相手理解には欠かせない「キーワード」の定義だ。
相手が何度も使う・あるいはここぞというところで使う言葉
=キーワードを、
自分のよけいな願望や期待をまぜず、
あくまで相手の定義で、相手の文脈に沿って
把握しようと努めている。
キーワードの定義をまちがうと、
中盤まで「わかったふり」でもりあがっても、
理解のゴールに、決して出られないことを、
彼女たちは身をもって知っているように思う。
よく、さんざんケンカした果てに仲良くなった友だちは、
すっごく通じ合えているといわれる。
それは、ケンカという状況では、
ふだんなかなか自分の想いをオモテに出さない人でも、
自分の想いをぶつけざるを得ないからだ。
ケンカという非常時の力学を借りて、
お互いが、相手に対して、自分を表現する。
結果、自分とはまったくちがう相手という人間を
お互い理解しあう。それでスゴク仲良くなるのだ。
彼女たちは、賢いというか、
ケンカになる前段階で、うまーく、
自分とは違う相手の考えを、
引き出し、言葉にして表現させ、
把握し、理解するツボを心得ている。
「守る」といわれたとき、
聞くのは野暮だと引っ込めるか?
それとも、相手理解のチャンス到来と掘り下げるか?
伝えないのにわかってもらえるはずがない。
聞かないのにわかれるはずもない。
少なくとも私は、そんなふうに思っている。
「あなたと私の考えは一緒」というゴールに
出られなくていい。
「あなたの考えは、私と、どこがどういうふうにちがうの?
それは、あなたのどんな背景からくるの?」
それがわかれば、まず、とてもいいと思うのだ。
この違いを見つめていたい。
その距離をいとおしみたい。
読者の「いずみ」さん、「のり」さんは、言う。
<キーワードの定義を>
「君を守りたい」と言うとき、
その守るという言葉に明確な定義をつけているのだろうか?
定義は人それぞれ違うはずですし、
正しいとか間違いとかもないと思います。
その定義を自分でつけることができれば、
きっといいのだと思います。
ただ、聞こえのいい「守る」という言葉を
使っているだけだとしたら、
それはやっぱり考えることを放棄しているのだと思います。
相手のことをちゃんと見ているのだろうか?
相手のことをどのくらい知っているのだろうか?
相手にいま自分がしてあげられることは何か、
常に変わってゆく相手の需要を
きちんと汲み取れているだろうか?
そいういう風に考えてゆけたら、
きっと「守る」という言葉は使わないだろうと思います。
私なら「あなたと生きたい」と言います。
それは子どもに対しても同じだと思います。
私は子どもを守るのではなく、子どもと共に生きたい。
私の理想を押し付けて「守る」のではなく、
子どもに今何が必要かを必死に考えて
一緒に生きていきたい。それは今を生きる、
ということだとおもいます。
そして「守られたい」と言うとき、
生きることに付随する不便だけでなく
喜びまで放棄することになりませんか?
(いずみ 専業主婦 30代)
<溝ができたとき話し合うのではなく>
「守ってあげたい」
私も言われて違和感を感じたことがあります。
でも心の中には守ってもらいたいし、
守ってあげたいと思う気持ちがあります。
なんで通じない「守ってあげたい」があるのか、と考えて、
お互いに価値観が同じなので
使っている言葉も同じであると
思いこんでいること
があるのではないかと考えました。
日本語は、漠然とした問いを投げかけて、
判断の多くの部分を
相手にゆだねることが多いと思います。
「旅行に行って来たんだってね? どうだった?」
「楽しかったよー」
という会話。
どうだった? という問いは主語が曖昧です。
だから、答える人は、
旅行の全体の感想を答えてもいいですけど、
たとえば、暑かった、寒かった、美味しかった、臭かった、
何でも答えられる、そんな問いになっています。
問う側が主語をいわないことで、
答える側にどの範囲で考えるかという判断まで
ゆだねている、
それが日本語の会話に多いのではないかと思います。
守ってあげたい、は、
問われた相手に想像の余地がありすぎて、
守ってあげないといけないと思われるような存在なのか、
と自分の価値観を考えることもあり、
守るって何をだろう、と守るという具体的な行動について
考えることもあり、いくらでも考える余地がある、
そこが通じていない原因にあるのではないか、
と考えました。
本来、人それぞれ価値観が全然違うということであれば、
守ってあげたい「理由」とか「方法」とか「事例」とかが
この言葉の続きに必ず付随するはずなんです。
そんな無粋なこといわなくても分かるよ、というのは、
共通の価値観があるという考え方から出てくることで、
それまでに何ヶ月か何年かかけて、
お互いに共通の思い出をつくり、
それによって共通の言語が増えてきていることを、
同じ価値観を持っている、
もっといえば、同じ価値観を持つ歴史を歩んできた、
と深いところまで共有しているように感じてしまい、
考える余地の広い言葉を投げかけても
自分と同じ程度のことを考えると思うこと、
それが考える余地の大きい問いの怖さのように思います。
そして、問題が起こったときに、
やっとお互いがどう違ったのか
言葉を発し始めて、どう違うのかに言葉を尽くす。
これでは言葉の使い方が後ろ向きです。
お互いがわかり合えているというときに、
どうわかりあえているのかを
言葉を尽くして語り合った方が、
よっぽど実りある世界が広がるように思いました。
例えば、
「おもしろかったよ」と答えるときに、
「***だからおもしろかった」と
具体的な理由を一言つけてみる。
「おいしいね」というときに理由を一言つけてみる。
その一言に反応が返ってきて、そこにまた反応して、、、と
することで、お互いの言葉の裏にある価値観や歴史や
そんなものが見えてきて、
その積み重ねの後に「守ってあげたい」に
「守ってあげたい」と
素直に答えられる関係ができてくるのかもしれないですね。
こんなことを考えて、
メールに書きながら急に思ったのですが。
言葉を曖昧に使うことで、
その言葉がいろんなものを表現しているような気になって
それ以上表現しなくなってしまう。
輪郭のはっきりした言葉を使うことで、
その言葉で表現できていないことがあることを
意識することができるから、
さらに表現していくことができる。
もしかすると、日本語を曖昧に使うことで、
表現できることを小さく誤認してしまっている
のかもしれないんですね。
曖昧な日本語は、日本語の特徴で、
想像力を刺激される素敵なところだと思います。
でもそれだけではわかり合えた気分にはなれるけれど、
わかり合えることはできない、
ということなんだと思います。
言葉の力を前向きに使うために、
そして自分の輪郭をくっきりとさせていくために、
言葉の輪郭を意識して、
その外にある世界とつながっていきたい。
問い詰めていくことで相手をはっきりさせることよりも、
まず自分のことをはっきり(でもちょっとずつ)と
表現することで
相手を理解していく方法もあるように思えてきました。
私は世の中とつながることが上手くできているとは思えず、
友達っていない、と思っているような人間ですが、
今回の「守ってあげたい」、からいろいろと考えることで、
世の中とつながっていくことが
できるような気がしてきました。
(のり)
「守る」という言葉にふいうちをくらって、
お互いの溝がはっきりしてしまう前に。
ふだんから、自分が相手をどう思っているか?
自分と相手の関係の、
どういうところがいいと思っているか?
相手の自分に対する言動のどういうところがいいか?
小さく、しかし、言葉できっちりコツコツと、
伝えているか?
ギャップでなく、通じ合えている部分に、
コツコツと言葉の橋を架けていくことだ、
とのりさんは言っている。
表現しないとわかってもらえない。
表現されないとわかってあげられない。
大切な人との関係を守りたいなら、
表現して、表現させて、通じ合ってほしいと私は思う。
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