YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson499
  守ってあげたい 8 ――自立への道



「きみを守る」は、

「きみを好きだ」くらいの意味だよ、とか、
「ずっと一緒にいたい」くらいだとか、
「食うのに困らせない」意味だとか、
たくさんご意見をいただき、

であれば、

「きみが好きだ。」
「一緒に生きよう。」
「生活費は僕が稼ぐ。」

というように、
できるだけ、実感に近い言葉を、
選んで伝えるほうがいい、と私は思う。

曖昧で見てくれのいい言葉で済ませるんじゃなくて、
「たとえばこんな表現にしたら?」と
読者の2人の男性は、
次のようなヒントをくれる。


<可能性の放棄>

「守ってあげたい。」
ですが、もともと、
家族をもったこともない男の学生に違和感を
持たれたところから始まったんだと思いますが、

「独りで立つ」ことの意味を知らない
=自分の立つ場所がなくなる危機に遭遇したことがない等
と、つい言えちゃうんじゃないでしょうか?

逆に、
「独りで立つ」ことの意味を知ってしまうと
簡単には口に出来ない言葉だと思います。

女性で言う人が(多分)いないのも、
この男性社会で、自分の立ち位置を確保することを
常に女性は意識させれているからでしょうし、
軽々しく言う男性に嫌悪感を覚えるのではないでしょうか。

私の子供も今は大きくなったので、
「いざと言う時に、盾にならなきゃ」
ぐらいは思いますが、
守れる(守りきれる)なんて、
子供が走り出した頃から、諦めました。

「守りきれない以上、
 自分で自分を守れる術を一つでも教えたい」
に変わりました。
(所謂、魚を獲ってやるのではなく、
 魚の獲り方を教えるです。)

これだって、「教えたい」であって、
「教えなければならない」ではないです。
私の一方的な願望(想い)ですから。

今の会社は製薬企業でして、
薬をDRに営業する職種を業界では
MR(Medical Reprisentative)=医薬情報提供者
といいます。
採用面接の時に、
「なぜ、MRを志望したのか?」
と聞くと、
「医療に携わることで、
 社会貢献したいと思ったからです。」
と判で押したような答えが返って来ます。

その度に
私は喉まで出掛かった言葉を飲み込みます。
「じゃあ、何か!
 他の仕事は、社会に貢献していないのか!
 だいたい、MRは薬の営業をやってるだけで、
 薬を開発したわけでも、
 治療行為をしているわけでもない!
 他人のフンドシで、相撲取った気になるな!」

思考停止状態だと思います。

他の仕事は、
「俺、これやってていいのかな?」
「俺に向いてるのかな?」
「何で、この仕事してんだろう?」
という自問自答の果てに
自分なりの遣り甲斐を見つける機会があります。

しかし、
MRはなまじっか、医療現場に近いため
思考が停止されるのです。

以前の「楽しく生きる」も、
「守ってあげたい」も
思考停止なんだと思います。

可能性の放棄なんだと。

可能性とは、リターンとリスクの背中合わせ。
ましてや、こんな時代、
どう見ても
「リスク」ばかっかりが目に入る。

可能性にワクワクを感じない。

だから、落ち着かないですよね。
「つまんないじゃん、そんなの!」
では通じないから、
何とかしたいんですよね。

私は、
いざという時に少しでも力になりたいと
思っているヒトにお願いしています。
「何かの時は、まず私に言ってほしい。
 他の誰かから聞くこと、
 それが私には一番辛いから」
と。
(森 智貴)



<共有するというスタンス>

先週のコラムの、

>「一生守る」といわれて
>「具体的にどうやって?」なんて聴いたら興ざめです。
>「守ってあげたい」=あなたが大好きです、
>くらいに受け取って
>笑顔で「よろしく」って言えばすてき。
>(sunao)
>あなたはどうだろう?

人と人とは容易に通じあえない、
全く違った存在だという前提に立つと
ズーニーさんが東京で出会った2人の女性のように、
言葉の定義を正しながら、深堀していき、
最後はかなりの所まで通じあえるような
コミュニケーションを楽しむ事ができると思います。

「守る」はとても曖昧な言葉ですが、
似たような言葉で、「応援する」って言葉も曖昧ですね。

例えば、サッカー日本代表選手が、
「応援ありがとうございました。」と言ったりしますけれど
テレビの前で「ニッポンニッポン」言ってた人が、
本当に何かしたのかなと疑い出せばかなり怪しい。

こちらの思いが、電磁波のように南アフリカまで
飛んで行って、
彼らの背中を後押しするようなことは、無いですよね。

きっと日本代表の選手は、
自分たちが勝ったり負けたりするときの「感情」を
一緒に共有してくれる人がこれだけいるのだと信じて、
頑張ろうと思えるのかなぁと思います。

そう考えれば、この場合の「応援=祈り」には
意味があると思います。

自分の頑張っていることを、気にかけてくれる、
その思いを共有してくれる人がいるんだと
信じられるのは、凄いことだと思います。

その祈りが自分を深く理解してくれる恋人や家族であれば、
さらに喜びはより大きくなります。

具体的に何をしてくれるのか。
理解は一つ、具体的な援助も一つ、ただもう一つ
「一緒に喜び、悲しんでくれる人がいる」と
信じられることも、大きな援助だと思う。
(33歳男性)



「守る」という曖昧な表現から、
一歩、実感に近い言葉に進みたい、
でもどうしたらいいかと迷うとき、
読者の森さんの、

>「何かの時は、まず私に言ってほしい。
> 他の誰かから聞くこと、
> それが私には一番辛いから」

という言葉はヒントになる。

いつ=何か困ったことがあったとき、
だれが=自分が、
だれに=相手に、
どのように=まっさきに、
どうする=連絡する。

具体的に、いつだれがどうするが明確で、
言うほうも、言われるほうも、ぶれない。
そして、温かい。すぐ、実行できる。

また、33歳の男性さんの、

「応援する」でなくて、
「感情を共有する」という表現も、
ヒントになる。

「応援してるよ」というのは、
極端にすれば、「応援してあげている」といように、
こちらから、相手にパワーを与えるという
ニュアンスがある。

逆に、
「サッカーの日本代表に、パワーもらった」と言えば、
文字通り、こっちが相手からもらうのだ。

しかし、「応援してます」と言わず、
「日本で、想いを共有しています」と言えば、
どっちかが、どっちかに、一方的にあげるのでも
もらうのでもなく、
なにか「対等」な感じがする。

一方的に与えるのか?
一方的に与えられるのか?
それとも対等か?

「守る」をしっくりする言い方にするときに、
スタンスをイメージして言葉を選ぶといいんじゃないか?

「守る」というような曖昧な言葉を使い続ける
危険について、読者の大学生は言う。


<見栄と思考停止のすえに>

大学4年生の学生です。

その男性たちは、「家族を守るために働く」と言いながら、
家族に働く理由を決めてもらいたがっているのだと
感じました。
自分が働く意味を他者に依存し、
もっともらしく生きているように
他者にみせたいのではないか、と。

生きることは選択していくことだと思います。
そのための目的が必要です。
だから、選択ができない、目的の見つけられない状態は、
非常に苦痛に感じます。

「家族を守るために働く」と言ったこの学生は
この苦痛に耐えられなかったんじゃないでしょうか。
働く目的、やりたいことが見つけられない自分から、
逃げてしまった。私はそう思いました。

私も高校を「親が喜ぶから」
「この辺で一番偏差値が高いから」という理由で
選びました。
進学を決めたのは私です。
でも、私は嫌なことがあったときや
「なぜこの学校にしたのか」と
マイナスな意味で聞かれたときに、
その理由を数字や親、時代、土地柄の
外部要因のせいにしてしまうことができました。

「何も考えていない」とは思われたくない。
自分の選択、人生、考えに責任を持つのは怖い。
もうこれ以上、悩みたくない。
その男性たちの中にも同じ人がいるかもしれないと
思いました。
何も考えずに、自分の働く意味を「家族を守る」という
大義名分で覆い隠して、もっともらしくしている。

選択を自分の責任でしない人は、
いざというとき、人のせいにすると私は思います。
「家族を守る」と言いながらも、
理屈で「家族のせい」にしてしまう。

「悩まない」「考えない」ことと
「人にどう思われるか」だけを気にしすぎる見栄が、
このうすっぺらい「守る」を生みだしたのだと思いました。

その当時の私も、
「自分の人生を幸せにできるのは自分しかいない」
ということが
分かっていなかったんだと思います。
それが分かったら、私は自分のために
悩まずにはいられなくなりました。

それに、そこそこ働く人に守ってもらいたいとは、
私は思いません。背中を任せて一緒に戦える人がいいな。
(よしこ)



男性は、ときに、「好きだ」「愛している」と同義で
「守る」を使うけれど、愛とは
もっと厳しいことではないか?
と次の二人の読者は言う。


<母は泣く私にカツを入れた>

「守ってあげたい1」の
ズーニーさんのお母さまの名言のように、
私も母に背中を強く押された経験があります。

7年前のことですが、留学直後、
日本人を誰も知らず、家も見つからず、車もなく、
頼る人もなく、泣いて、
1分100円の高い国際電話をかけました。
「大丈夫だよ、なんとかなるよ」と慰めてくれるものだ
と期待していました。

母が電話を取ったとたん、うわーっと泣いてしまいました。
母は、「泣くのにそんなお金かけてもったいない!!!」
「日本に帰ってこなくていいからなんとかしなさい」
とカツをいれられました。

”お母さんなら”と思って、甘い言葉を期待していたので、
もう頼る人がだれも居ないんだ、と思って
もっと泣けてきました。

泣けるだけ泣いたあと、ふと
「こんなにつらいと思っていても、結構大丈夫じゃないか」
と思いました。
その後、何事も苦労なく物事が運んでいるわけでは
ありません。でも、苦しい・・・・と思った時に、
「苦しくても、まだ大丈夫だ。」と思うようにしています。

母や祖母の名言は、
転んだ時に、かわいそうに、と起こしてくれるよりは、
「事実としては、転んだだけなんだから、泣いてどうする」
と自分で起きるように助けてくれるような気がします。
(なおこ)



<愛するとは>

たしかマザーテレサのお言葉として、
何かに引用されていたものが印象的で覚えています。

「だれかを愛するということは、
 その人が一人でいても大丈夫なように
 してあげることです」

というような内容だったと思います。
「愛する」ということは無償で積極的にその人のために
何かをしたり、相手の負担を自分が肩代わりしてあげたり
するようなことという風に無意識的に考えていたためか、
これを初めて読んだ時、ハッとしました。
でも妙に納得する部分もありました。
(ゆきんこ)



なおこさんのお母さまは、その瞬間、
「娘がどうにかなったらどうしよう」という恐れも、
「娘からよく思われたい」という見栄も、
「母と娘いつまでも一緒でいたい」という執着も、
大胆に手放した。
なかなかできることではない、勇気ある行動だ。

「守る」という言葉が「愛するもの」に
むけられたとき、ときにそれは、
「握り締めて離さない」「執着する」
という方向に向きがちだ。

大胆に手放す。

ときにそれが、最大の愛の表現だったりする。
なおこさんのお母さまや、私の母のように、
守る・見守るとは逆の、
手放す、捨てる、突き放す、背中を蹴飛ばす、
結果、相手に自立をもたらす、
そんな方向の愛の表現もある。
いざというとき、あなたは、愛するものを、

守るか? 手放すか?

最後に、この読者のおたよりを紹介して
終わりたい。


<いまより、もっと>

ズーニーさんの「守ってあげたい」シリーズを
ずっと読んできて、
考えていたことが少しずつ
頭の中でまとまってきたので、
今回おたより差し上げます。

「家族を守る」と進んで話す人、
突然カウンセラーを目指す人、
そして少し前のシリーズでの
「楽しく生きたい」と話す若い人たち。

ズーニーさんのコラムで
そんな人たちのことを知り、
自分の身の周りのことも思い出してみると、

「自分自身に今以上のものを求めない、求められたくない」
という人が多いのかもしれない‥‥
と考えるようになりました。

私は去年、何かと回り道が多い中で
人より少し遅く、でも念願であった大学に入りました。
同級生にはいろんな年齢、いろんな背景の人たちがいます。
まだ慣れない授業を受ける教室でも、
そんな人たちのいろんな面を知ります。

専攻するコースにおいて、ある程度経験・知識があって
余裕があり、優越感に浸っている人、
周りのそんな人たちの実力に圧倒されて
すっかり自分が縮こまってしまい、
身動きがとれず、その場をやり過ごそうとする人、
「私は本気でここにいるのではない」と
自ら意思表明する人‥‥

なんだか自分自身を見ているようで
かゆいような、恥ずかしいような気持ちでした。
そんな人たちの印象を簡単に言うと
「守っている」人なのだと感じます。
そういう私自身も、何も知らないまま座っているのが不安で
つい周りをきょろきょろ見回してしまいます。

そんな自分が、
「私もこの人みたいになりたい」と感じたのは、
今の実力がどうかではなく、
自分の力不足を自覚し、それを挽回するために
先生と話し、「時間が足りない」と言って
黙々と演習に没頭する人の姿でした。

今ここにいる全員に必要なのは、
「自分に何が足りていないか」を
おごりも卑屈もなく見つめる目と、
そこから「目の前のするべきこと」を
探り当てる力だ、と思いました。
みんな、自分を成長させるために
大学に来たはずだからです。

漠然と「今よりもっと」を求められるのはつらいです。
これから苦しい目に沢山あわなければいけない気がするし、
今のままでは駄目だと思い始めると、
息が苦しくなってきます。

でも目の前に具体的なやるべきことが見えていたら
頭は自然とその方法をあれこれと考えているし、
だんだん考えが整理され、煮詰まってくると
いつの間にか姿勢は挑戦する方に移っているのに
気付きます。
そして「ここまで来たなら」と、
想像していたよりも抵抗が少なく行動を起こせています。

行動することで「芽が出せた」と実感できた時は、
自分が少しだけ大きくて、新鮮なものになれた!
という気がします。
「この感じをひとつずつ積み重ねていこう!」と
いつもこぶしを握っています。
自信がなく、周りのただの空気に潰されそうな時期の
自分を思い出すと
今の色のついた視界がとても嬉しくて、ありがたいです。

私はまだ学生なので
こんなに単純に言い切ってしまえるのかもしれないですが、
学生のうちに見つけた、この単純な考えを
忘れないようにこれからを暮らしていこう、
と思っています。
(亀の子)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-07-14-WED
YAMADA
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