YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson501
  ひらいた身体 2 ――他人と住む意味



最近、私が注目しているのは、
10人、15人の大人数で、
ハウスシェアして住む、若者たちだ。

知人の女性は、「将来結婚するために、
自分は、このまま一人暮らしが続くのはよくない」
と考えて、女性10人のシェアハウスに挑み、
やがて、ほんとうに幸せをつかんだ。

ポイントは、

1 好きな人や友人・知人でない、「他人」と住む。
2 2人や3人でない、「大人数」である。
3 お金をうかせるためでない、「自分を高める」ために。

というところにありそうだ。

私が学生時代に、
仲のいい友人2、3人で一緒に住んでいる人がいた。
あるいは、妹や、弟と。

また、昔は、若者がひとり暮らしするのは、
経済的に大変だったので、
安くあげる目的で、他人と物件をシェアしている人もいた。

しかし、知人たちのハウスシェアは、
そのどちらでもない。

ひとり暮らしをする経済力があるのに
「あえて」、「他人」と、住んでいる。

知人も仲のいい女の子10人ではないところがミソ。
欠員がでれば、業者が募集して、
また、新たな「他人」が来るシステムになっている。

恋人や友人、家族など、
好きなもの同士で住むよさは、もちろんある。

では、あえて他人と住む意味はなんだろう?

さらに、大勢の他人と住むことが、
なぜ、将来愛する人と2人で住む、ステップに
なるんだろうか?

大学で、先生方に、ハウスシェアの話をしたところ、
女性の先生が、こう言われた。

「私は、以前はとっても人見知りで、
 いまのように、面と向かって、
 人と話せるなんて、思わなかった。」

現在は、大学で中心となって、
学生や教授たちと活発にコミュニケーションを
とっている先生も、
以前は、初対面の人と話もできないほど、
ものすごく引っ込み思案だったそうだ。

なぜ、他人とコミュニケーションが
できるようになったのか?

そのきっかけをたずねると、
「学生時代の下宿」にあった。

「間借り」ということを、
いまの若い人は、わかるだろうか?

昔は、一軒の、ふつうのご家族の、ふつうのお家に、
「ひと間」だけ、お金を払って借りて、
住ませてもらう、「間借り」があった。

そう、親戚でも、知り合いでもない、
あかの他人のお家に、
自分ひとり、はいって住むのである。

木造の和風のお家だから、
薄い壁をへだてて、ご家族の物音も聞こえる。
こちらも大きな物音を立てれば聞こえる。

ごはんは、ついていて、
そのお家のお母さんがつくったものを食べる。

お風呂も、ご家族がはいったあとに、はいる。

携帯電話のない時代、
電話も一家に一台ないくらいの時代だから、
電話をかけたいときは、お家の人に頼んで、
お金を払って、かけさせてもらう。

そのご家族には、子どもがおり、
先生は、ときどき子どもの勉強をみてあげたそうだ。
子どもも、若いお姉さんが教えてくれるので
うれしくて懐く。

しかし、いくら懐いたからといって、
下宿人は、下宿人、
それ以上には親しくはならない。
友人にも、親戚にも、ましてや
絶対に、家族の一員にはならないのだ。

あくまで他人であるのに、
通常親しくならないとしない行為、
同じ屋根の下で寝起きする、
同じ釜の飯を食べる、
同じお風呂、同じ電話、同じ洗濯機を使う。

他人の住居で暮らし、
気をつかい、干渉しない、されないよう、
互いに気持ちよく住めるよう、
絶妙の距離感でやっていくのは、
けっこう大変なことだ。

そんなふうにして先生は、
まだ親に甘えたい年頃の10代の数年間を
他人と住んだ。

その経験を通して、
超ひっこみ思案で他人と話もできなかったのが、
自然に話せるようになっていたそうだ。

特に、なにか大きな出来事があったわけではない。
他人と日々暮らした、そのこと自体が大きかったそうだ。

他人と住むうちに、
まったく他人の一家の、自分の家とはちがう習慣を
受け入れることを学ぶ。

親なら甘えが出るだろうが、がまんすることを覚える。

いくら人見知りだろうが、
電話をかけるにしても、洗濯をさせてもらうにしても、
自分でちゃんと頼み、御礼を言わなければならない。
そうしているうちに、自立してくる。

他人は、空想のなかのモンスターではなく、
実態があきらかになり、恐怖心もとれ、
距離のとりかたも身につく。
自然と他人に接することができるようになる。

よく、「他人のなかでもまれろ」などと言われるが、

先生は、超ひっこみ思案だから、
「他人のご家族と、おつきあいしなさい」
と言われたらムリだったろう。
しかし、先生は「つきあう」のではなく、「住んだ」。
当時だれでもやっている下宿だと。

他人のなかでもまれるには、
仕事とか、趣味とか、行事とか、
同じ目的にむかって
他人と共同作業をすることもあり、とても価値がある。
でもそこで見せるのは、「外用」の顔。

生活には、明確な目標がないため、
むしろ外で見せている以外の顔、
その人の、意外な本性があらわれる。
これがぶつかるときに、
理屈でどっちが正しいと言えないから、
おたがい、骨肉の争いになるのではないか。

これは、たとえだが、

ここに、「タオルのかけ方」が、
ものすごく「独特」な人がいるとしよう。

その人の生まれ育った核家族では、
一家全員が、洗面所などのタオルかけには、
その独特のタオルのかけ方をする。

人がみたら、すごくヘンと笑うだろうが、
一家みんなそうだから、全く変と気づいてない。

その人は成人してひとり暮らしをはじめても、
その独特のタオルのかけかたをし続ける。

やがて、愛する人と出逢い、結婚して
ふたり暮らしをはじめた。

さっそく、旦那さんに、タオルのかけ方を笑われる。
「とんでもない、おかしい、ヘンだ、直してくれ」と
さんざん言われて、しぶしぶ、
「これが一般的だ」と言われるタオルのかけ方をする。

愛する人に言われたので、
自分もそうしたいので改める。

しかし、タオルのかけ方は、
自分で何十年とやってきて、習慣として染み付いたものだ。
意外に根が深く、しばらくしたら、
がまんできなくなってくる。

すると、旦那さんのタオルのかけ方のほうが、
気に障ってしょうがない。

愛する人と、身に染み付いた習慣の間で、
がまんをしつづけ、ある日とうとうがまんが切れて、
こう言う。

「私には、あなたのタオルのかけ方のほうが、
 よっぽど気持ち悪いわ!
 他の人はともかく、私の愛する人に、
 そんなタオルのかけ方をしてほしくない!
 人が見たらヘンかもしれないけれど、
 私の一家にとって、大事なことなの。

 ねえ、私を愛しているんでしょう?
 だったら、私のタオルのかけ方を受け入れて!!!」

愛する人だから、がまんできるというのもあるが、
愛するからこそ、距離が密接で、
がまんできない、甘えが出る、同じでありたい
というケースも、けっこうあるんじゃないだろうか。

しかし、
この同じ人が、結婚するまでの数年間、
10人の他人と住んでいたとしたらどうだろうか?

この独特のタオルのかけ方をする人は、
最初は、当然と思って、10人のシェアハウスでも、
いつものように独特にタオルをかけている。

ところが、シェアハウスの1人が、
全然ちがうタオルのかけ方をしているのを見る。

「うわ、ヘンだなー」とは思う。
けれども、それは、あくまで他人のすることなので、
それほど腹は立たない。
ましてや、自分のタオルのかけ方を、
他人に押し付ける気もさらさらない。

さらに、シェアハウスのもうひとりが、
また違った、タオルのかけ方をしている。
瞬間、もちろんへんな気はするものの、
「タオルのかけ方って、ひとそれぞれなんだなー。
おもしろい」とむしろ楽しむ余裕さえ出てくる。

そのうちに、10人全員のタオルのかけ方を
見ていくと、どうも、変わっているのは
自分のほうなのだと、ようやく気づく。

気づいて、いわゆる世間一般の、タオルのかけ方に
してみるものの、続かず、
結局、もともとの独特のかけ方に戻す。

ほかの9人は、おもしろがってひやかすけれど、
他人なので、改めさせようという強い矯正はしてこない。

他人は他人、われはわれ。

で、まさに十人十色の、生活実態を見た後、
愛する人と出逢い、2人で結婚生活をはじめる。

すると、旦那さんのタオルの掛け方が違う。
でも、さほど、気にならない。

もちろん、自分と一緒であってほしいが、
でも、そんなの、シェアハウスで10人と暮らしてみて、
絶対ムリとわかっている。
自分のほうが少数派なんだし、押し付ける気も出ない。

旦那さんから、バカにされるものの、
もう、さんざんシェアハウスで他の9人から
笑われて、慣れているし、
そのなかで、自分のやり方で共存していく術が
身についている。うまくやりくりしていける。

以上は、あくまでたとえで、
「タオル」を切実ななにかに置き換えてほしいが、
ともかく、そんなふうに、
「相対化」できるのがひとつのメリットではないだろうか。

仲のいい友達どうしだと、甘えが出るし、
2人、3人の少人数だと、習慣がくいちがうとき、
どっちが多数派かわかりにくい。

しかし、10人いれば、おのずと多数派は見えてくる。
多数決でないことも見えてくる。

また、10の多様な暮らし方のサンプルが、
日々、生活を通して、自然に身体にはいってくるので、
「人はそれぞれだ」ということがリクツでなく飲み込める。

ひとり暮らしか、
好きなもの同士で住むか、他人と住むか、
大勢で暮らすか、少人数か、
人生は長いので、どの時期に、どんなカタチで生活するか?

自分も、ちょっと楽しみに考えたくなってきた。

最後に、読者の、
このおたよりを紹介して終わりたい。


<共同生活は育児にも>

ひらいた身体読みました。
凄く共感出来ました。
共同生活が結婚につながると言うのも納得出来ます。
更に、共同生活をしておけば、
スムーズに子育てを出来るんじゃないかなと感じました。

私は幼稚園に通う息子がいますが、
息子がもっと小さい頃は
ズーニーさんがお母様のお皿に感じたような気持ちを
息子に持っていました。

息子が可愛いと見守られているのはいい訳ですが、
他人に触られたり話しかけられたり怒られたりすると
凄く不快感を感じるのです。

もちろん表にはだしませんし、
ママ友達とかでは平気でしたが。

今は物騒な事件が多いし、
子供を産んだばかりの母というのは、
熊などと同じで気が立っているものですが、
それにしたって自分は息子の子育てに他人に関わるのを
嫌がりすぎてたのではと思うのです。

でも子育てを続けていくうちに、
他人との関わりで息子が育っていくのを見て、
ほんとに社会全体で子育てをしてるんだと感じてからは
上手く他人と関わりながら
楽に子育て出来るようになりました。

共同生活というのは
他人を信じて任せたり頼ったりしないと出来ないです。
それは将来子育てをする時にとても役に立つと思います。
最近のお母さん達は
ほんとうに他人に頼るのが苦手ですから。
(読者 社会で育児さんからのメール)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-07-28-WED
YAMADA
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