YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson504
  ひらいた身体 5 ――読者はこう考えた



途中から読む人のために、
この「おとなの小論文教室。」は、

「自分に合った答え」

を見つける道場のようなところです。
学問のように、
「まっとうな答え」を探す場でも、
宗教のように
「絶対的な答え」を説く場でもありません。

「自分だったら、どうしたいか?」

今回のテーマ、
「何を求めて、どう住むか?」
これには正解はありません。

ひとりひとり違っています。

たとえ学者が研究して、
「集団生活をさせた人間の99%の協調性が伸びた」
と発表したとしても、
自分がもし、1%の例外だったら、
自分には意味がないことです。

正解のない問題に、
「経験」を通して、「自分の場合はこうだった」
「自分はここまで考えた」
という意見をもちより、

多様な人の、多様な意見に、
共感・反発・触発されて、
「より自分に合った答え」を見つけていく
ことに意味があります。

あとで紹介する読者のおたよりのように、
このコーナーに寄せられるおたよりのほとんどは、
「実体験からつかみとった、実感ある視点」を、
読者が、おしみなく提供してくれています。

「与え文」です。

ですから、
異論・反論がある場合も、
「一般的な正解がある」という前提で、
批判のみに留まってしまうと、
このコーナーではツライかもしれません。

「自分に合った答え」

つまり、異論・反論がある場合も、
「正解は無い」という前提に立って、
「このような経験から、
自分だったら、こうしたい!」

というように、

自分の「経験」と、それに基づく「自分の答え」を
打ち出すと、発見もあり、
楽しめるんじゃないかと思います。
どこかの偉い先生の意見より、

「経験に基づく、あなたの意見」が大切。

今回のテーマも、
「10人の他人との共同生活で、
 自分は、ひらくかどうか?」と、
「そもそも自分は、ひらきたいかどうか?」と
「ひらくとは、どういうことか?」と、
「自分は、何を求めて、どう住みたいか?」は、
ひとりひとり違います。

私自身は、
「閉じている」ことが悪いとか、
「ひらいている」ことが良いとかは思っていません。

私自身は、
必要に応じて「閉じたり、ひらいたりできる」
ようになりたい。
なぜなら、そのほうが「自由」と、
あくまで私は考えるからです。

あなたはどうですか?

「自分にあった答え」を見つけるために、
きょうもたくさん、多様な読者のおたよりを
紹介していきます。


<対人能力強化のため、あえて共用アパートに住み>

「ひらいた身体」の連載、
毎回興味深く拝見しています。

というのも、私自身が現在、
ラテンアメリカの某国に留学し、
50人以上の院生・教職員と一緒に
食堂・台所・洗濯場・居間共用のアパートに住んでおり、
その暮らしの中で日々気づかされていることと
かなり重なるからです。

30代前半の私。
恥ずかしながら、人生初めての一人暮らしです。

大学に入るまで、人見知りが極端にひどく
口が聞けないほどおとなしかった私は、
今回、自分の対人能力強化訓練の最終ステップとして、

「共同生活で自己主張ができる」

ことを学ぶ目的で敢えてこのアパートを選びました。
期待というよりは、自分を修行に追い込むような悲壮感と
ともに暮らし始めたというのが正確です。

洗濯機はたった2台、限られた調理器具と調理スペース。
自分のペース、自分のやり方で
思うように物事が進められないことばかりです。

でも、他の方も書いておられたように、
得たものの大きさ、今の暮らしの心地よさ、清々しさ、
そして「思っていたよりやれている自分」に驚いています。

先日、耳の病気になったときのことです。
毎日3回、両耳に5滴ずつ点耳薬を入れる必要が
生じました。
自分ではうまく入れることができないため、
誰かに頼まなくてはなりません。
必要なときにその都度、
たまたまアパートにいた女友達、男友達に
声をかけ頼んだのですが、
みな、お安い御用というばかりに
ずかずかと当たり前の顔で私の部屋に入ってきて
ベッドに横たわる私の耳に薬を点してくれました。

この出来事で、自分の部屋を
特別に親しい人以外に見せることへの抵抗が完全に薄れ、
いつ誰がきても大きくドアを開けられるようになった
ように思います。
そういえば、掃除や収納が苦手だったはずの私が、
いつの間にか気分転換で
整理整頓ができるようになりました。
部屋の掃除は行き届き、とても使いやすく
整えられています。

日本では、
「他人(世間)に迷惑をかけないこと」は
当たり前のことで、私自身、
親からそのように育てられてきました。
その伝統と対立するわけでなないと思いますが、
今、私は、どうしても必要なときは誰かに助けを求め、
きちんと感謝の言葉を伝え、
そして善意の好循環の中に
自ら身を置く意思とともに暮らす、
ことの方がずっと大切だ、と感じています。

「他人を受容する」という言葉には
まだどこか悲壮感が漂っているように思いますが、
「他人と当たり前のようにつながって生きていける」
暮らしはとても心地よいです。
ラテン特有の「濃い」スキンシップもあって、
自分の身体が自分だけのものではないようにさえ
思えてきます。

日本では、コミュニケーションという言葉の使われ方には
どこか表面的で上滑りする感じがあり、
違和感を覚えていましたが、
誰しも一人では生きられない、
という原点に戻るとしっくりきます。

言葉も文化も異なる環境。多様な個性が混ざり合う暮らし。
たくさんの何かを譲り渡し、どうしても譲れない何かを
守ることの繰り返しです。

挨拶はしっかり、
誤解が生じたかもしれないと思ったときは
思い切って正直に声をかけています。
自分のからだを開いていくこの経験を、
日本に帰国したときに生かせればと思っているところです。 
(かあちゃん)



「思っていたよりやれている自分」
っていうのが、いいな。

「自分にとって良い環境とはどんな環境だろう?」

答えはないのだけど、
この読者のように、
「昨日より、今日の自分がちょっといいぞ!
 明日の自分はもっとよくなるぞ!」
と期待が持てる環境が、苦労はあっても、
私にとっての良い環境だ。

反対に、どんなに人から見たら好条件でも、
「日々、自分が腐っていく」、
と思ったら、良い環境とはいえない。

次はそうとう、「ひらいて」いる2人のおたより。


<道を聞かれやすい私>

カナダのトロントは開いている人が多いみたいです。

地図を開いていれば、どこいくのー? と声をかけられ、
道を教えてくれる人が多いです。

くしゃみをすれば、遠くからでも
"bless you!"を言われます。
(ご存知かと思いますが、くしゃみをしたら
 周りの人が言うのが習慣なのです。)

そういう状況で育ったからか、
道を聞かれやすい身体になったのでしょうか。
日本に帰国して間もない頃でも、
しょっちゅう道を聞かれました。
不慣れで、自分でも迷子になっていて、
ケータイで道を調べている時も。

先日は東京駅で道を教えていたら、
私の横にずらーっと列ができました。
道を聞きたい外国からの旅行者ばかり。
案内所が近くにあるのになー、と思いつつ、
みんな困ってるし‥‥と、待ち合わせに遅れつつ
放っておけない自分に半ば呆れながら、
ご案内していました。

外国で旅行中でも、しょっちゅう道を訪ねられます。
こっちが聞きたいのよー! と思いながらも、
「地図見る?」なんて差し出していました。

イタリアでホステルに泊まった時にも
同じお部屋に泊まった子たちと、
一緒にルッコラサラダをつくったり
サンドイッチを沢山つくって、即席パーティーをしたり。
きっと、開いていない人だったら、
拒絶反応を起こしちゃいますよね。

人が好き。大好き。
意地悪されると悲しくなっちゃう。
だから意地悪できない。
それで苦しくなることも多々あります。

生活スタイルが合わない友達が1ヶ月泊まりに来た時も、
イヤなことはイヤって伝えましたが、
それでも追い出したりはできませんでした。
理由は‥‥自分でもよくわかりません。

こんな自分が時々疎ましいです。
(Ria)


<仕事で鍛えられた、ひらくチカラ>

私はとても「他人に声をかけられやすい」人間です。
歩いていると、しょっちゅう人から道を尋ねられます。
何人かで歩いていても、ピンポイントで
私が声をかけられます。

観光で訪れたバルセロナで、
マドリッドから来たという観光客の
スペイン人の方に道を聞かれて驚いたこともあります。
どこからどうみても私はアジア人観光客なのに、
なぜ大勢の中から声をかけようと思われたのか、
とても不思議でした。

外食していてもお店の人に話しかけられる率が高く、
初めて行った居酒屋などでは、
気がつけばおまけの料理を出してもらったりしています。

出張で新幹線に乗ると、
隣席のおばあさまに「これから孫に会いに行くの」
といったふうに話しかけられ、
京都から東京までお話ししたうえに、
お菓子をいただいたりもします。
今の時代にはかなり珍しいことらしく、
一緒に出張に行った同僚は「昭和か?」と驚いていました。
(新幹線では結構な確率で隣の人に
 話しかけられてきたため、私は逆の意味で驚きました)

道で知らない子どもが話しかけてきて、
なぜか「今好きな子」について
熱っぽく語ってもらったこともあります。
また別の子どもたちから
「アリを追いかけてここまで来たけど
 別にアリが好きなわけじゃない」話を
聞かせてもらったり。

自分でもなぜいつもこうなるのか、ずっと不思議でした。

私の家族はみなそうではなく、
「知らない人と話し込むのはおかしい」
「毅然としていないからでは」と言われてきました。
友人たちは
「あなたといると、
 老若男女を問わず知らない人が寄ってくる」と笑います。

ズーニーさんの文章を読んで、
はたと思い当たることがありました。

私は20年間、大学の職員として仕事をしています。
いろんな部署に異動しているものの、
バックヤードの部署にいったことがなく、
一貫してずっと直接学生に接するところばかりで
20年が過ぎました。

多様な背景、多様な考え方の学生、
ときには地球の裏側から来た留学生、
またときには保護者のみなさんと、
仕事として数多く接し、
ときにはかなり立ち入った話を聞いて
対応したりしているうちに
人から話しかけられやすいなにかが
身についたのかもしれません。

このところ私が仕事のことや自分の生き方に
漠然とした不安を抱いていました。

仕事がどことなくマンネリのような気がしてしまったり、
学生時代からずっと一人暮らしを続けてきて
両親も亡くなり、家族と呼べる人がいない自分の生き方に
疑問を感じたり、

とりとめなく
「自分のこれまでの生き方は失敗なのでは」
と考えていました。

でも「ひらいた身体」という考えで自分を見てみると、
これまで続けてきた仕事によって
知らないうちに身体をひらく訓練ができてきたのであれば、
悪くない20年間だったのかもしれないと
思うことができました。

また、一人暮らしの問題については、
「ひらいた身体3」の、
私よりずっとお若いであろう「カズママ」さんのおたより
をとてもおもしろく読ませていただきました。
このことについては、
今までのように「漠然と不安を感じる」のではなく、
「他者との関わり」の視点から
順序だてて考えてみたいと思います。
(タコス)



おととい、私は友人と2人で美術館に行った。
友人は兵庫から新幹線で出てきて、
私は、東京にもう15年も住んでいる。

にもかかわらず、
知らないおじさんから道を聞かれたのは
友人のほうだった。

その友人が、
まさに「大学の職員」をしているのだ。

仕事によって日々鍛えられるものは大きい。

「職業」と「自分の住まい」と「土地柄」と

ということを思った。
たとえば、「仕事」で多数の他人と接している人が、
私生活では、一人暮らしで、
あえて、じっくり自分に向き合う時間をつくったり。

逆に、仕事では一日中だれとも口を聞かない
という人が、家に帰ると共同生活で、
大勢の他人と接する、というようにバランスをとる。

またトロントのように、
他人に対してフレンドリーな土地柄にいれば、
たとえ一人暮らしをしていても
他人への接し方に自然と慣れていく。

「職業」と「住まい」と「土地柄」、
それぞれの人間関係はどうか?
バランスをどうとるか?

志の持ち方によっては、
「家族」と住んでも、ひらかれるものはあるのだと、
次の2人の読者は言う。


<介護も他者との同居も、大丈夫出来ます>

自己教育力、なのか自己統制なのかはわかりませんが、
田舎の夫の母と同居、子供ありのわたし。

結婚前は仕事で手一杯。
「嫁が欲しい」とまでいうほどのだらしなさでした。
今もぜんぜん分類・整理・捨てるができません。

でも、思っているのは、
環境に支配されやすい自分ということ。

実母は常識的な人で、
「長男家は縛りがあっていや」と次男と結婚、
それはそれで裸一貫から始まった、
家督に頼らないつつましい人生を選びました。

ただ、核家族の気楽さで、
人の目が入らない我が家ルールで済むわけです。
楽ですけど、どこかけじめがない。

他人と暮らすと言うことは、多大なストレスです。
特に高齢者は、下降しつつも抵抗を試みるからまたつらい。
こちらも鬱になりそうです。
数人の子供は子供で、みんな自分を一番にして欲しい。

でも、そんな中で何かをして喜ばれたり、
たとえ喜ばれなくても、生活を支えているという
自信が出て来たように思います。

朝は起きるとか、お盆は仏と仏に参る人を優先するとか、
そういうあたりまえのことが
私を健全に保っていると思うのです。

思うよりやってみる、
またはやらざるを得ない環境に自分を置く。
夫の母とのこすり傷もお互い多々ありますが、
生き様や抵抗と言う名の、老いへの挑戦には、
敵ながら天晴れと感服する所があります。
なにしろ、未来の自分のサンプルですから、
色々参考になります。

介護も他者との同居も、大丈夫出来ます。
そして楽ではないけど楽しさも、
擂ったゴマの油のように、
すりこ木を持つ手が疲れた頃に、
じわっと出てくるものだと思います。
(庭先の冒険者)


<どう住むにしても動機が大切>

私は人と接するのが昔からすごく苦手で
できる限り人付き合いを避けて生きてきました。

周りも私にわざわざ話しかけようとはしません。

人に対してすごく気を使ってしまうのですが、
何も実らずただ疲れて終わってしまいます。
その状況はとても苦しいものです。

しかし私は内弁慶というやつらしく、
家の中ではひどい暴君ワガママなのです。
私の身勝手で家族を散々傷つけてきました。

この自分の性格を何とかしたいとずっと考えてきました。

そこで私が至った結論は
一人暮らしをすることだったんです。
家族ではありますが
人と暮らす以上自分の思い通りにいかないのは当たり前で、
自分はそれに我慢がならない。

ひとり暮らしをすれば全て自分のやりたいようにやれるから
イラつく事は無い。

自分の絶対支配領域があれば、
余裕ができて他人ともうまく付き合えるようになるだろう。
という風に考えていました。

実際には経済的理由により一人暮らしは実現していません。

だから「ひらいた身体」シリーズは私にとって衝撃でした。
他人と大人数で住む!!
私にはとてつもない苦痛が伴うだろう、
想像するだけで恐ろしい事。
自分からそんな事をするなんて、
まさに考えたこともありませんでした。

ですが同時にすごく納得できるものでもありました。
人とうまく付き合える様になりたいなら、
人との接触を増やし自分を訓練するしかない。
今よりも楽な場所に行って、
成長できるなんて事はあり得ないのですから。

一人暮らしをすることで成長できる部分は
勿論たくさんありますので、
いつかはしたいと今でも思います。
ですが人と暮らす煩わしさから逃れる為に、
一人暮らしをしようとするのは止めました。

いきなりハウスシェアをするなんて度胸はありません。
けれどそれを言い訳にして行動を先延ばしにするのは
何か違うと思い、今、この状況でどのようにして
自分を訓練できるかを考えました。

そして自分なりに出た結論は、
今更ですが血のつながりはあるけれど
自分とは違う人間である家族と暮らすこと、でした。

表面的には何一つ生活は変わっていません。
けれど自分の中で心がけは前とは明らかに違います。
何かにイラッとした時、これが家族でなく
他人だったらどういう風に思うかを
想像するようになりました。

自分の思い通りにいかないからって、
自分が気に入らないからって、
他人相手に怒鳴ったり
八つ当たりしたりなんて決してしません。

今までいかに、家族に甘え依存していたかが分かりました。

そうすると努力が必要でも、
確かに自分を落ち着かせることができるのです。

以前は苛立つ度に「早く家を出たい」しか
考えられませんでしたが、
最近は「自分とは違う人間と一緒にいるとはこういう事、
何とか折り合いつけてやっていこう」と
考えられるようになりました。

訓練のつもりで努力しても、家族からは何も言われないし、
外での他人の反応も今のところ変わりません。
(前がひどすぎたのかもしれませんが)
この方法では駄目なのかもしれないなどと思いながらも、
自分のことを諦めるつもりはありません。

今からでも鍛えられるのだと、
性格だから変えられないものなどではないと、
それを信じて努力していこうと思います。
(律子)



「核家族は、人の目が入らない
 我が家ルールで済むわけです。
 楽ですけど、どこかけじめがない」
という読者の言葉で、反射的に思い出したことがある。

学生のことだ。

女子学生のAさんは、
からだの弱いお母さんとおばあさんの3人で
暮らしている。

その暮らしがいいとか、悪いとか
そういうことではない。ただ、

「家庭のなかに社会がない」

と彼女は訴えた。
その言葉が妙に印象に残っている。

そのせいか、他人と常識がずれて、
いじめられていたそうだ。

庭先の冒険者さんは、
マイルールなど、とうていまかり通らない
同居のなかに身を置いた。

おなじ家族には違いないけれど、
いい意味で、庭先の冒険者さんの
「家庭のなかに外がある」
と感じた。

そこで、なにか貢献して喜ばれるということは、

なあなあ、やあやあ、が通じる相手に架ける
狭い橋とちがって、
おおきな橋がかかっているのではないだろうか?

律子さんの
「動機」が大切だと言う考えに大賛成だ。

一人暮らしは、私自身やってみて、
人生にぜひ必要なものだとおもうが、
それは、「自立」を目指してこそ、実になると思う。

正解はないが、私自身の理想は、

愛情ある家庭に生まれ育ち、
人間の「基礎」を育み、

学校を卒業したら「ひとり暮らし」をして、
「自立」を目指す、

一人で充分暮らせるようになったら、
「若いうち」に、2年とか期間を限定して、
他人への耐性をつけるために共同生活を経験し、

愛する人と2人暮らし、

授かればこどもを生むなどして、
自分で選んだ家族を築く。

人生を通じて、自分のライフワークをもち、
それに基づく友人を大切に築き、

老後、もし、ひとりになったら、
友人たちと、互いにスープの冷めない距離に住み、
「生きているか?」と声かけあったり、
困ったときは助け合ったり、
なにより、楽しい時間を共有して過ごす。

仕事は生涯現役。

なかなか、理想どおりにはいかんなあ‥‥。
理想どおりにはいかないからこそ、
鍛えられるのかもしれない。

あなたは、何を求めて、どう暮らしますか?

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-08-25-WED
YAMADA
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