YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson511
  「こども」という印籠
    ーー3.読者の視点



「こども」という印籠を持ち出すとき、
自分に、どんな心理が働いているのか?

私自身、「お年寄りという印籠」を持ち出した
張本人として、
今週もひきつづき、
読者メールから、考えていきたい。

まず、つづけて3通
読者のメールをお読みください。


<それがないと話の収拾がつけられない>

「だいたい駅のホームで
 飲み物を飲むなんて、どういうつもりだ。
 こどもがいたらどうする!
 ビンが割れてケガでもしたらどうする!」

というのは、子ども‥‥他者のせいにしないと
話の収拾をつけられない人です

自分の生活の中でも常に子どもなり
他者を使って、自分にその後の
不満が来ないようしている人です

心の表現力が足りないひと
自分のキモチを表現していない
そんな気がします

Rさんに反対して、
元のさやに戻る方がいいと思っている人からすれば、
子ども‥‥という言葉を出せば、
話の収拾がつくのでしょう
説得力にかけますが…ね

実際の子どものキモチはどこに?
とも思います
(CHIE.M)


<自分に言い聞かせている>

「これは正義である」
と自分で自分に言い聞かせるために
その印籠が使われている様に思います。

わざわざ自分にそう言い聞かせるのは、
認めたくない自分の感情を
自分に隠そうとするからでしょうね。

「正義である」と思い込むことで、
意地悪ではない、わがままではないと
自分を弁護し自分の負担を軽くしているのだろうと
思います。
(Sarah)


<争点をずらして賛否を問うなよ>

「子供を大切にする事に賛成しますか? 反対しますか?」
こう問われると大抵の人は賛成の立場をとります。

「子供」の部分は
「老人」「親」「仕事」「国益」「友情」「愛情」等に
置き換えることもできると思います。

こういったある種の回答を誘導する問いが
思考停止のポイントなのでしょうか。

少し並べてみただけですが、
私達の道徳に由来する問いが多い様です。

ズーニーさんの例だと
(1)事務処理手続方法についての是非 →
(2)老人の体調が崩れる可能性についての是非
といった感じでしょうか。

当たり前の道徳観を問うということは、
その人の人格を問う事とほとんど同じだと思います。

更にちょっと強引に言い換えると
善悪の線引きをする事と言えるような気がします。

この手の「子供を大切にする事に賛成しますか?」
といった意味を含む問いがムカつくのは、
人格を疑い、悪の側に押し込めようという意図が
感じられるからだと思います。

「最初の争点や焦点をズラしてから賛否を問うなよ」
(SATOSHI)



「争点をすりかえて賛否を問う」
とは、鋭い指摘で、本当にそのとおりだ。

別に銀行は、
「お年寄りを大事にしない」と言っているわけではない、
ただ「番号札を引きなおせ」と言っただけだ。

私は、
「番号札を引きなおさせ、
 列の最後尾に並ばせて、
 お年寄りが具合でも悪くなったらどうする」と、
銀行を裁く前に、

まず、自分の想いを表現する道もあったはずだ。

「あーあ、ずっと順番を待って、
 やっと自分の番がきたのに、
 また並びなおさなきゃならないなんて、
 たいぎだなあ、つらいなあ、
 いやだなあ」と。

その段階をすっとばして、
「銀行が悪」になってしまっている。

「心の表現力が足りない」

自分が自分に対して心を表現し、
自分としっかり通じ合うということをしておらず、
さらに無意識に争点のすりかえまでやってしまう。

これでは、自分で自分のことを疑いたくなるし、
不安になる。印籠を出してでも、
自分は正しいと、自分に言い聞かせなくては
ならないはめになる。

さらに、こんな見方をする読者もいる。


<なぜその感情が起きたのか見つめる>

「駅のホームで飲み物を飲むなんて、どういうつもりだ。」
とメールしてきた人は、なぜわざわざ時間を割いてまで、
そのようなメールをしてきたのでしょうか?

例えば、ズーニーさんの銀行での経験談は、
自分の要求を通したいという気持ちあってのことだ
と理解できます。

しかし、その読者は実際にズーニーさんと共に
その場にいたわけでもなく、
掲示板やSNSのように自分の意見を
広く読んでもらう場でもありません。

しばらく考えてふと思ったのは、
どうもこの国では、怒りを表現するのは悪だと
思われているということです。
なぜかは知りませんが、
その読者はズーニーさんがホームで経験した悔しい思い、
過去の怒りを読んで気に障ったのでしょう。

昨年の話ですが、私の好きなバンドのボーカルが
ラジオに出演した際に、DJの発言に対して怒り、
それがものすごくバッシングされました。
そのバンドの歴史や背景など何も知らない人たちが、
ほんの一部分だけ見てバッシングする様子に、
怒ることは悪だと思われているんだと痛感しました。

ただ、その怒りの矛先が政治家や官僚、
著名人という強者(だと思われている人々)だと、
非常に勇気のある発言をする人だと絶賛されるんですね。
だからこそ怒りの表現をするときに
弱者を持ち出すのかもしれません。
自分は怒る人のことを嫌うのに、
その自分が誰かに対して怒りを表現するなんて
認めたくないから、正当化するのかもしれません。

でも、怒りを持つことに対して、
正しいとか間違っているとか、
そういう判断は、怒りが治まった後からでも
いいのではないかと、最近思います。

人から見て正しいのかということよりも、
自分の中でなぜその感情が起きたのか、
裁くことなしに見つめていく方が
道は拓けるような気がします。
(そるば)



たとえば、あったかい家族愛を描いた文章を読んだら、
自分も家族を思って、あったかい気持ちになる。

同様に、不快は不快を、
怒りは怒りを呼び覚ましてしまうんだろうか。

怒りの文章を読んで、
怒りが呼び起こされたとしても、
その怒りに自覚的であればいい。たとえば、

「そうそう、私も同じことがあった。
 町内の体育祭のときに、印籠をつきつけられて
 腹たったー!」などと、怒りを表現できるからだ。

でも、ほんとうは怒りを呼び覚まされているのに、
それを自覚できないとき、
その感情に名前をつけられないとき、

人は攻撃的になって、
いわば、やつあたりのように、
目の前にある対象に、印籠を出してでも、
いちゃもんをつけたくなる。

私も銀行で、
「番号札を引きなおせ」と言われた、
そのこと自体に怒ったというよりも、
そのことが引き金になって、
自分の無意識のなかの
不快・不安・怒りのスイッチが
押されてしまったんだろうな。

チキンハートだから私は。
なにか恐かったのかもしれない。

しかし、それを自覚できなくて、
必要以上に銀行に抗議してしまった。

過去の「あったかい」気持ちなら
覚えているだろうし、思い出せるけど、
読者の「そるば」さんが言うように、

不快や怒りは、
あってはならないと思いがちだ。

忘れ去るというより、
そもそもその感情に向き合い、
自分で名づける前に、もう、
無き物として、記憶の墓に葬ろうとしてしまう。

うまく葬ったと思っても、まだ墓の下で生きていて、
ある刺激を受けると暴れだす。
人を攻撃したくなる。

私たちは、怒りなどのネガティブな感情に、
ネガティブで葬ろうとしがちだからこそ、向き合い、
名前をつけてやらねばならない。

さらに読者は、
こんな角度からも見解をくれる。


<何に踏ん切りをつけられなかったのか>

文中に出てこられたRさんのことを読んで、
気づいたのですが、
私の母親も「子ども」を印籠に長い間、
本当に子どもにとって深く長い間、
父親と離婚せず別居し続けた人です。

結局途中父親は病気で亡くなりましたから、
別居のままなんです。答えが。

何に踏ん切りをつけられなかったのだろうか。

今も逃げ続けている姿を見ると
(実際には逃げ隠れしていないのですが)
彼女は死ぬまでそうするだろうなと思うのですが、
分からないのです。本心が。

夫婦関係、親子関係。
「子ども」の存在は大きいです。

けれど、子どもも大人になるんですね。
一人前のそれなりの考えを持った大人に。

親はもう少しそこを自覚した方がいいと思います。
自分たちが産んだ、育てた子どもかも知れなくても、です。
人対人の関係になっているのです。

私は気をつけているんです。気づいた日から。

自分の思ったことを、自分が責任取れるように話そう。
人と物言う時は。
私の主観だけには、私自信が責任を持とう。少なくとも。

すると少し心が軽くなりました。

「子ども」って沁みるように大人になるのです。
目の前の「子ども」はどんな子どもですか?

割れたビンで怪我をしそうな子どもを見かけたら、
危ないよって手を出す大人になろう。

「お年寄りのために」って言う人がいたら、
まず先にお年寄りの人に話をきこう。

そう思いました。
(M)


<弱さは自然、ただ、認めるかどうか>

わたしの母は父が別れを言いだすたびに
「子供はどうするの?!」
の一言で父親をつなぎとめようとしてました。
専業主婦で、

「子供のために自分の人生を犠牲にしている」

と言って自分を正当化する女性は、
子供を預けて働く女性を理解しようとしない。

子供を預かる職業の人が
クライアントである母親に
「子供を預けて働くなんて信じられない」というのを聴いて
とても不思議な感じがしました。

子供のために離婚しないと言っている女性でも
ほんとは自分の老後のために
旦那と別れないんじゃないの〜と思ってしまいます。
それはとても自然なことです。だってお金がないんだもの。

でもそれを口に出せる「母親」は少ないですよね。
誰だって自分の弱さを認めるのは嫌だと思う。

だからこそ、「子供が、」という女性たちに
考えてほしいテーマだと思いました。
(T)


<母が嫌いなのではない、偽善が嫌いなのだ>

わたしも「子ども」を印籠にする人に嫌悪感を覚えました。

わたしの場合は思考停止が気になるのではなく
そういう人たちが「偽善的」だからです。

わたしの母はわたしが中学生か高校生だった頃
何度かわたしにこう言いました。

「あなたが小さかったから
 コンサートに行きたかったけど我慢した」

子どものために行きたいことを諦めたそうです。
自分を犠牲にして子育てしたという思いが
伝わってきました。

そんなこと、今になっていわれたくないです。
恩着せがましい親だなぁと思いました。
行きたければ行けばいいじゃん、と思いました。
おばあちゃんちにあずけるという選択だってあったはず。

わたしは「偽善的」な物言いをするのが嫌いです。

母が嫌いというわけではないので、
念のため申し添えておきます。
(N)



私は、文章表現の教育を通して、
若者の心の叫びのような文章と数多く接してきた。

そこで私が近年、いちばん心を痛めているのが、
冷え切っているのに、
「こどものため」「世間体」などを理由に、
離婚をしない両親のもとで
暮らしているこどものことだ。

ここでは、中高大学生を含め、
まだ学校を卒業していない人を
ひろく「こども」と呼ぶことにする。

まず、その数の多さに驚いた。

離婚が珍しくなくなった時代、
夫婦は簡単に別れるものという誤解が、
どこか自分のなかにあった。

だが、この時代にあっても、
冷え切り、憎しみあっていても
こんなに多くの夫婦が別れられないでいる。

こうした家庭のこどもの文章は、
複雑で鬱屈した苦しみに悶々としている。

こどものなかには離婚や死別で、
父親・母親を失った人も少なくない。
その悲しみは、文章を通してこちらに強く伝わってくる。
とても悲しいのだけれど、
その悲しみはどこか澄んでいる。

しかし、カタチのうえでは、
両親そろっている場合、

その苦しみは名づけられない。

人に伝えようとしても、
「両親そろっているだけでいいじゃないか」
「一緒に暮らせるだけで幸せだ」
「何が不満なんだ」
と言われてしまう。

名づけられない、それゆえに心を表現できない、
伝えられない感情に、悶々と苦しんでいる。

「こどもの受験のために」「大学を出るまでは」
「就職試験に不利にならないように」など、
いろんな理由で、別れない夫婦のことを、
とやかく言う権利は私にはまったくない。

しかし、文章を通して、
やりきれないほど迫ってくる
こども側の鬱屈した苦しみと
どうか対話してほしいと願う。

私の読んだ限りでは、
離婚や死別のこどもの文章よりも、
深刻だと思う。

最後に、この読者のメールを紹介して
きょうはおわりたい。


<まずは自分がやりたいことをする>

コラムを読んでいて、
心のざらつきを感じることや攻撃的になることって
みんなにあるんだなと思いました。

ただ私の荒ぶる魂は、自虐的な方向に進みました。

「私がだめなせいで○○となり、すみません」
「私が悪いのです」を連発して、
相手との関係も自分も壊れました。

私だけの理屈は多分こうだったんじゃないかと思います。

私がどうしたいのかは相手次第で決まる。
自分を非難することで相手を非難することはない。
相手に責められることもない。
心のざらつきは解消されるはず。
だってざらざらするのは私が悪いからだし、
私がだめだってことを相手に話せばいい。

でも結局、壊れてしまった。
破綻したんです。

私が今、取り組んでいることは大きく2つ。

1つは自分を認めてやること。
もう1つは相手次第でなく、
まずは自分がやりたいことをする。

自己中心的なんじゃないかと思ったけれど、
人と関係を持つ上では大事なんだろうなと思います。
でも、自分をどう認めたらいいのかわからないし、
やりたいと思うことをするのが怖いし、
何をやっていいのかわからないのです。

けど、自分のやりたいことをはっきりさせないことは
相手に失礼だと言われてからはがんばっています。
その良し悪しはきちんと評価されて、
「経験」になるんだろうなと思います。

ただ、自分を認めることだけはよくわかりません。
自信がないまま、やっぱり周りを気にしちゃう状況です。
自信がないと、やりたいことも見えなくなる。
でも、もう攻撃したくないので
抜け出せるようにしたいです。
(アオ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2010-10-13-WED
YAMADA
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