YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson516
 大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか 5
 ーー17歳からのメール


最近、ちょっとツライことがあり、
じっとしていてもツライ、
泣きそうになる。
しばらくツライだろうな、と思う。

けどそれをそのまま、
仕事や日常で「表現」するわけにはいかない。
元気なふりをする。

こんなふうにして、我々一般人も、

人前ではつとめて明るくふるまう=「演技」
涙を流し悲しみをあらわにする=「表現」

を使い分けて生きている。
しかし、自分ではどんなに元気な演技をしている
つもりでも、まわりにはサトラレっぱなし、
落ち込んでいることが顔に書いてあるような人もいれば、

逆に、本当は死ぬほどツライのに、
肉親や親友さえ、まったく気づかなかったという、
アカデミー賞モンの演技をする素人もいる。

一方、ことさら表現しているわけでもないが、
ツライときにはツラがって、
嬉しいときには嬉しがってという
「自然体」の人もいる。

自分はどれを選択すればいいのだろう?
なんのために?

「表現」と「演技」今週も、まず
読者のおたよりから紹介していこう。


<表現が器を拡げる>

先週のSarahさんのこの言葉に勇気付けられました。

「表現に取り組んだ人の背後には、
 表現した分だけの幅をもった道ができるように思います。

 その道幅の分だけ自分を知り、

 幅が広くなるほどに、不安は道の端へ
 追いやられていくのは確かです。」

以前のズーニーさんの

「逃げることも拒絶することも
 泣き言をいうことも出来ない状況に陥ってしまったら、
 どうするか?
 器を拡げるしかないだろう?」

という話とつながりましたね。
読んでいる自分の気持ちも晴れる気持ちです。
(シバ)


<表現は、相手にとっての相手とつながる、
 演技は距離をおくこと>
 
自己理解と他者理解は表裏、
という卒業論文に取り組むakanetです。

先週のtamoさんのお便りでは,

「『表現』は相手の内から見た視点
 『演技』は相手(外側)から自分を見つめた視点」

とまとめられていました。すごい。

自分とつながる、のは他者とつながることでもある。
自分との距離をおくと、立ち位置がマッピングされる。

表現 は 自分 という 他者の他者 とつながる、
ということであるとすれば,
演技 は 自分 という 他者の他者 と距離をおく、
ことなのかもしれません。

それぞれ単品というよりも,
2つの配合を場面や状況で変えられるひとが、
一緒にいて心地よいです。
(akanet)


<自分を解放する>

演技と表現について、
私も演劇をやっているのでよく考えます。

演劇はそもそも「うそ」だから、
その「うそ」のルールをまず「演技」で周知徹底する。

ピアニストなら楽譜を読んだり
ピアノを弾いたりできるということ
見ている人に信じさせなければいけない。それが大前提。
台本に書かれているいろんな「うそ」を
技術でまず固めていく。

その上で、このピアニストの内面を広げたり深めたり
過去にさかのぼったりして想像して、
自分の中にその人を作り上げていく。

そして舞台なり撮影所なりの現場で、その人として生きる。

「そのひと」の部屋、「そのひと」の職場、
家族・友人(を演じている人たち)は
自分を「そのひと」として扱い、
自分はどんどん「そのひと」になっていく。

現場で「そのひと」への理解が深まっていく。

演じているのは自分だけど「そのひと」として生きている。
自分が自分にしかできない「そのひと」を生み出している。
そのことに喜びを感じる。
それが表現する喜びじゃないかなあ‥‥。

堺雅人さんが、台本をもらってから、
稽古や撮影が始まるまでそれなりに準備はするけれど、
たいていは役に立たず、
現場に自分を放り込んで自分がどうなっていくのかは
その時にならなければ分からない。
そしてそんな自分を見るのが楽しい、
というようなことを書いておられました。

「演技」にとどまれば、どれだけ上手にうそがつけるか、
というところで終わってしまうけれど、
「表現」まで行けば「自分を解放する」喜びまでいける
のではないかと思います。

大竹しのぶさんが例のドキュメンタリーで、
「解放されてない人なんか、
 見たくないじゃないですか‥‥?」
と言われていたのが、ぐっさりと心に突き刺さっています。
(勝之)



悲しいときに演技で元気なふりをするか?
悲しみを表現するか?
と冒頭で私は言ったが、

3人のお便りを読んで、
悲しいときに、きっと、いちばんツライのは、
演技も表現もできないこと。つまり、

演技・表現不全になること。

ではないかな、と思った。
すなわち、

自分と通じることもできない。
自分と距離をおくこともできない。

きょう、たまたま開いた本に
こんな言葉があった。
私は、宗教はまったくもってないのだが、
カトリックの友人がすすめてくれた本だ。

「いちばん敏感に心に刺さった部分、
 しゃくにさわったところをよく見てください。
 自分を知り、悟るために。」
(バレンタイン・デ・スーザ
 『やさしさの愛につつまれて』)

悲しい、ツライ、悔しい、
そう思っているとき、私たちには、
まだまだ知らない「自分」がある。

相手の言動に腹を立てているようで、
かならずそれに感応した、
自分で知らない、自分の闇がある。

“それを知らない限り「解放」されんな”、と思った。

自分の闇を知り、理解する行為は、
相手の言動の向こうを理解する行為に通じる。
どんなに醜く弱いものであっても、

そこにあるものを理解し外へ出す=「表現」
によってのみ、人は解放されるんじゃないか。

勝之さんのメールをみて、
いよいよ「解放されたい」と思った。

やはり、自己・他者の理解・表現に努めよう。

もう一通、17歳から届いたおたより、
すごくいいおたよりなので、
長文だが、カットせず、ほぼ全文を紹介したいと思う。


<17歳からのメール>

こんばんは、もうすぐ17歳の男子です。
名前は、ドレミということにしましょう。

最近母からこのサイトのことを聞いて、読み始めました。
まだ全部は読めていないですが、
いくつか読んでいくと、山田ズーニーさんの意見や
読者の意見は、とても面白く、とても考えさせられました。
また、自分が考えた事があることが載っていたりすると、
なんか嬉しい様な気分です。

僕たちの世代は、
「考える」ということが少なくなっている様な気がします。

もしかしたら、大学に行けば
「考える」人も増えるのかもしれませんが、
少なくとも今の僕の周りには、
そんな人は少ない様な気がします。

目の前に「やらなければいけないこと」がたくさんあって、
それをこなすので精一杯になってる感じです。
問題意識が無いというか‥‥。
そういう人たちからすれば、
僕の考えなどどうでもいいのでしょう。
それより大事なのは結果、という感じでしょうか。
でも、稀に真剣な受け答えをしてくれる人がいて、
そういう人と話すのは楽しいです。

母などと話していると、昔と今の差を聞かされます。
昔は僕の世代でも「考えてる人」が
今より多かったみたいです。(とは言っても、
僕の知っている人など本当に限りがあるので、
全国規模で見れば分かりませんが)

ですが、それが正しいのだと仮定すると、
ひとつの考えが浮かびました。

それは、世の中には「ほぼ正しいやり方」が
出来上がっているのではないか、ということです。
山田ズーニーさんは
とっくに思っていた事かもしれませんが、
最近僕の考えている事なので、ご勘弁ください。

例えば受験。

「どうすれば受かるのか」を考える前に、
塾が「ほぼ正しいやり方」を提示してくれます。
その通りにやれば確かに受かるかもしれませんが、
それで良いんでしょうか。

自分の正しいと思うやり方でやって、
それで受験に落ちたら
また来年受ければ良いのだと思います。

塾は、最も登り易い登山ルートを
10mおきに旗まで立てて教えてくれる親切さです。
本当なら、五寸先は闇の状態の方が
いいのではないでしょうか。その方が公平だと思います。
お金が無くて塾に行けなくても
可能性は公平ということです。
それぞれが自分なりの登山ルートを見つけることも
大切な能力だと思います。

ですが今の受験ではそんなことは求められていません。
某国立大学で働く母曰く、
「最近の大学生は、自分が何をしたいのかも考えずに
 大学に来るから、大学生活を無駄にしている」
だそうです。

今回のシリーズである「表現」で言えば、

芸術関係の集団で出場するコンクールもそうだと思います
(特に学生のコンクール)。

吹奏楽部や合唱部など。
どうすれば全国大会に行けるのかという
「ほぼ正しいやり方」に、
いかに生徒たちを近づけさせるか。
より近づけば金賞、といった感じです。

全部が全部そうとは言いませんが、
そういう世界で強豪と呼ばれるところにいると、
「◯◯学校の生徒」ではなく
「◯◯学校」として見られます。
生徒のオリジナリティはなく、
あくまで「強豪の◯◯学校」です。
表現などもってのほか、といった感じです。

より高い基礎力を求められるが為に、
「考える」ことのできる余裕さえ無いのです。
それでは、表現までたどり着くことさえできません。
「どういう風に吹きたいとか無いの?」と
偶にいらっしゃる外部の先生に何度も言われましたが、
その時の僕等は意味も分らず、
笑って誤魔化しているしかありませんでした。
今考えれば、成程といった感じです。

受験やコンクールなどの競争社会では、
「ほぼ正しいやり方」が出来上がり、
それをこなすのに精いっぱいになり、
「考える」ことが減っているのだと思います。

長い話になってしまいましたが、
端的にまとめれば、
世の中にはこんなにも「考えて」生きている人たちが
いることが知れて、僕はうれしいです。
そして、そのような環境を作ってくださった
山田ズーニーさんにとても感謝しています。
ありがとうございます。

さて、今のシリーズである
「大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか」。
このシリーズを読んで、
僕の「俳優」に対する意識は全く変わりました。

今まで僕は、俳優を表現者と感じたことが
ありませんでした。
それは多分、僕が音楽という表現方法に
幼い頃から触れてきたからだと思います。

音楽というのは、クラシックであれば、
作曲者と演奏者の区別があります。
もちろん、自分で作曲した曲を
自分一人で演奏する人もいます
(作曲者自身が演奏出来なかった例もありますが)。

演奏者は、一人のこともあれば、多数のこともあります。
多数であれば、指揮者が表現の方向性をまとめます。

この場合、演奏者・指揮者は、
一般の人には理解しにくい「楽譜」というものに記された、
音を演奏します。
観客の人も、あくまで音を聴きます。
目で見て伝わることもたくさんありますが、
例えばルックスが与える影響はほとんどないと思います。

それに比べて俳優という人々は、
脚本という一般の人にも一応理解出来るものに記された、
「人間」を演じます。

俳優は、全身を使って表現しているので、
どうしても容姿が気になったりしてしまいます。
異性の俳優の場合は自分の好みであるかどうかなど、
表現者をして見るのは難しいです。

バレエも全身を使って表現する芸術ですが、
ドラマ・映画と比べると、
日常のシチュエーションからはかけ離れています。

ドラマ・映画では、あたかもありそうなシチュエーションで
あたかも居そうな人間を演じます。
そうやって考えると、俳優というのは、
音や踊りや絵などに置き換えて
表現しているわけではありません。
あくまで日常、といった感じです。

だから僕は、何かに置き換えて表現していない
俳優という人達に「表現者」という意識を
持てなかったのかもしれません。

けれど、それだけのことなら、
僕のキャパシティが大きくなれば、
表現者としての俳優の姿が見えてくるものだと思います。
彼らだって、自分は経験してない様な世界の人々を、
自分全体を使って表現しているからです。
表現方法はやや直接的というだけだと思えたと思います。

しかし、もう一つ考えてみると、
「俳優」のバラエティ出演の影響があると思います。

これを考える上で僕は、
ラーメンズという二人組のお笑い芸人のうち、
脚本担当の小林賢太郎という人の影響を受けています。

彼の意向もあって、ラーメンズは、
バラエティでのお笑い芸人の立場にはいません。
あくまで、舞台上の表現者として笑いと向き合っています。

バラエティのお笑いは、表現ではなく、
もっと広い視野で笑いを取ろうとします
(ある程度の脚本があったとしても、
 それ以外は、その場の状況に応じて
 アドリブをしなくてはなりません)。

彼は、テレビ出演時に
「バラエティで小林賢太郎という
 素の状態の自分が見られてしまい、
 舞台上で僕が演じる役が
 観客から見えなくなってしまうのが怖い」
という様な主旨のことを話していました。

それを考慮すると、
俳優は安易にバラエティに出過ぎだと思います。
金銭がらみのことはよくわかりません。
出たくないのに出ている人もいるのかもしれません。
けれど、俳優やそれに関わる人たちは、
俳優は表現者であるという自覚を持ってほしいと思います。
と、家でただ見ているだけの僕は、
なんとでも言えるんですけど。
本当はこういうのはあまり好きではありません。
しかし、それを承知であえて言うなら、
俳優は(バラエティの芸人やポップスの歌手に
置き換えることもできるかもしれません)、
「自分」というものを
もっと大事にした方がいいと思います。
その「自分」は、何かを表現しているのですから。

長い文章になってしまい、すみません。
久しぶりに本気で考えたので、
内容もまとまらずに長くなってしまいました。
僕自身の「表現」については、機会があれば
(来週もシリーズが続けば)文にしたいと思います。

それでは、これからも毎週、
「おとなの小論文教室。」拝見します。
(ドレミ)



人生にはシナリオはない。
だからこそ、切なく素晴らしいはずなのに、
現実にはシナリオを強いられてしまっている。

「もっとも効率よく成功する方法」という
シナリオだ。

すみずみまでシュミレーションされ検証ずみだから、
私たちは、なかなか抵抗できない。

このおたよりには、
「表現力」を鍛える前に、もう、
期待される役割を演じなければならない背景が
適確に書かれている。

このメールを読んで、いい意味で、
すがすがしく叱られたような気持ちがした。

おとなになるとなかなか叱ってもらえない。
それがいい意味で叱ってもらえ、
心洗われるような気持ちになった。

私が反応したのは、この部分だ。


俳優は表現者であるという自覚を持ってほしいと思います。
俳優は「自分」というものを
もっと大事にした方がいいと思います。
その「自分」は、何かを表現しているのですから。


「表現者」として、「自分」を大切にする。

ここを見て、叱られた気持ちになるということは、
自分も言葉で表現するものとして、
自分を大事にできていないということだ。
思いあたることがあるということだ。

俳優でなくとも、画家でなくとも、
私たちは、みな、自分の想いを自分の人生で表す表現者だ。

「表現者としての自覚を持つ」
とはどうすることか?

「表現者として自分を大切にする」
とはどうすることか?

この問いを提起して、きょうは終わりたい。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-11-17-WED
YAMADA
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