おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson517 自己表現の次のステップ ここ一連のシリーズのまとめとして、 女優さんの「表現」について、 私が思うことをお伝えしたい。 私自身が、「表現」ということを 文章を通してやりだしたのは、 2000年、38歳からだ。 とてもおそいデビューだ。 いまでもよく覚えているが、 この「ほぼ日」を書きはじめたとき、 私は、「表現」してはいなかった。 そもそも自分が文章を書くことが、 「表現」することだという自覚がなかった。 最初は、16年間、編集者として貯蓄してきた、 知識と経験をシェアする、 というスタンスで書いた。 貯蔵庫にあるストックを書いていけば いつか、つきる。 書き始めて、ほんのわずかで、 「3ヵ月後には、もう書くことがなくなるのではないか?」 と恐くなった。 「枯れる」という言葉に怯えた。 そのころ、初めて、 ためてきたストックを披露するのではなく、 「いま、ここ」にある自分の想い、 それを「考える」ことで自分と交信し、 つかんで、外へ出すということをした。 いま思えば「表現」ということを 文章を通して生まれてはじめてした。 その直後の、あの、身を焼かれるような感じを 今も思い出す。 恥ずかしくていてもたってもいられない。 とにかく、電話の線も、パソコンの線も、 なにもかも抜いて、私は逃げた。 「表現の照り返し」という、独特の恥ずかしさに逃げた。 どこへ行っても 「あー、あんなこと書いちゃったよー!」 ためいきまじりの、叫びとも、 ひとりごととも言えない声が、思わずもれる。 覚悟をして家に帰ったら、 編集者さんからも、読者からも、 それまでとは、全然!違う、 かつて見たこともないような、 熱い、深い、反響のメールがたくさん来ていた。 私がすべきことは、一日も早く、 「生の声をあげる」 ことだった。ストックもへり、 自分を取り巻く環境も日々厳しくなっていったから、 追い詰められて、 取り澄まして情報提供などしていられる状態では なくなった。 「いまは仕事が無くてつらいけど、 自分がグラグラして何者かもわからないけど、 いつか、もういちど、教育の仕事をするんだ」 という切実な想いを表現した。 知識の披露で終わった回は、自分は平静だ。 でも、表現した回は、のたうち回っていた。 でも表現ということをしはじめて、 私には、たくさんの読者がついていた。 当時、小説を書いていた先輩のところに ころがりこんで、 「もっとも書いて恥ずかしく、かっこわるく、 のたうちまわった文章が、 もっとも編集者さんにも、読者にも 評価された」 と話したら。 「自分の内から何かが出たんだね。 自分の内から何も出さずとも、 文章を書いている人はいるけれど、 ちゃんと出した文章は、読む人にはわかるんだね」 と言った。 先輩は、ただし、その書き方をすると、 消耗するよ、と言った。 他の執筆者の文章を引き合いに出して、 「この人は頭がいいから、 ちゃんと消耗しないで書き続けていく術を 心得ている」と。 当時、私の文章を「身を削る」と多くの人が 言ったが、書いた後、身も心もスカスカになって、 背中と目がじんじん痛んだ。 表現はつくづく命がけだなあ、と。 そのころ演劇が妙に気になった。 「女優」というのは、 なんで「女の優」と書くのだろう? もちろん、女の俳優だから、略してというのだろうが、 「女の最も優れたカタチ」が、 演劇をやっている役者さんだというには、 自分が深読みするだけの価値があると。 女優さんがやっているのは、「表現」ではないか? そう思いはじめたら、あれこれ腑に落ちた。 自分がすこしでも表現ということをかじって、 その目で女優さんのやっていることを見たら、 ちょっと気が遠くなるような、 尊敬と憧れの気持ちが湧き出た。 「自己表現」をするだけでも、それだけでも、 こんなに骨身を削るのに、 なんと、「他者表現」までも! しかも言葉だけではない、「からだ」までつかって! まず自己表現。 私自身も、 生まれてはじめて表現する生徒さんたちを見ていても、 「自分の想いを表現する」ことは 出産とも言える大変さがある。 自分と通じ、自分の底にあるものを理解し、 勇気をもって、外へ出す。 文章で出すだけでも大変なのに、 女優さんは、体、たたずまい、歩き方、表情、 全身をつかって、自分を表現することができる。 まずここが出発点。 次に、「他者理解」。 文章表現でも、相手に伝わる文章を書くためには、 相手理解は欠かせない。 たとえば、「お母さんにありがとうを伝える」にしても、 相手を理解しないと伝わらない。 多くの人は、自分の都合に合わせて相手を見ている。 相手が自分に都合のいいことをしてくれるから好き、 相手自分に都合の悪いことをするから嫌い、と 相手の一部分しか見ていない。 本当に相手理解をするためには、 自分が見ている一部分の「向こう側」を 見なければならない。 つまり、「自分の知らないその人」を見る。 だから、お母さんであれば、 自分が生まれる前のお母さんの歴史、 いま家庭にみせていない外のお母さんの顔、 お母さんが将来これをやりたいという意志、 というように、過去、現在、未来、 相手が繰り返して言う言葉、 ここぞというところでとる行動、 そして、根本思想へ、と深く、 多角的に相手理解をしていく。 女優さんは、こうした知的な他者理解はもちろんなのだが、 知性、言葉、心、体、すべてをつかって 相手を表現することで一体化した理解をする。 文章の教育で、相手理解は、 相手の根本思想の要約というところで 限界があるとしたら、女優さんは、その先、 言葉にできないものを含めて、相手になる、 相手を表現する、 ということをやっている。 いまだ、自分を表現できない。 そんな人も、まだまだ、多くいる。 自分らしさを、言葉や表情、全身、生き方で表せたら、 そこが人生のゴールという人もいるだろう。 でも、女優さんは、自己表現のレベルはクリアしている。 むしろ、使うためにさらに自己表現を掘り下げる。 自分の中に、悲しみ、憎しみ、怒り、優しさ、喪失感、 どんな絵の具がかくれているのか、知っている。 人の気持ちがわからない。 そんな人も多い中で、 女優さんは、自分でない他人を理解するだけでなく、 他人になって、他人の側からものを見る。 そして、悲しみ、憎しみ、怒り、優しさ、喪失感など、 自己理解にたった自分の成分を用いて、 その配合・出し方を変え、 自分とはまったく違った他人を表現する。 現代人の身体能力が衰えた。 そういわれる時代にあって、 女優さんは、他人の根本思想を理解したら、 それを、目の動き、表情、たち方、歩き方、 雰囲気にまで表す。 身体能力といったら、素晴らしい。 言葉に表せないものまで、身体でわかる・表現できる。 あの、「自己表現」をはじめたばかりのころ、 表現の痛みと恥ずかしさに消耗しきっていた私からみると、 そこから、1段階も、2段階も、3段階も先の、 月面宙返りのような「表現」をやってのけているのが 女優さんだ。 深い自己理解に立った、他者理解。 そこから他者の根本思想まで解放する他者表現。 他者の根本思想が解き放たれるとき、 女優さん自身のなかで、何かが解放される。同時に、 観客の心の片隅にあったなんだかわからないものも 解放される。 「女の優れたのが女優だ」と言われても、 しかたがないだけのことをやっているなあと、私は思う。 いまは「女」で、「優」はつかない私だ。 この先つきそうもないが、 せめて「優」にちかづくとしたら、 次のステップは他者理解。 さらに、徹底した他者理解に基づいた他者表現だ。 つまりは、いつか、他人になって文章を書いてみたい。 母親など、大切な人からはじめたい と私は思う。 「演技」と「表現」シリーズにたくさんのおたより ありがとうございました! |
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2010-11-24-WED
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