おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson523 おかんのお年玉 いい年をして、 どのツラ下げてもらったらいいのかわからないが、 母からお年玉をもらった。 それも、けっこうな額もらった。 父母は決して裕福ではなく、 年金だけで、きわめて質素に、つつましく暮らしている。 それを、 自分で稼いでいる、いいおとなが、 「お年玉」をもらうなんて、 もうしわけないような、 はずかしいような、 でもお金だから、どこかうっすら嬉しいような、 でもそういう気持ちが非道なような、 かえさなきゃいけないような、 もらうのが親孝行のような、 どう納得させて 母の大事なお金を引き受けたらいいのか、 決着がつかない。 こんな複雑な想いをしているのは、 私だけだろう、と思っていたら、 なんと、年明けのテレビで、いた! しかも、続々といた。 30代、40代の経済的に自立した、いいおとなが、 親から、続々とお年玉をもらって、 テレビで披露していた。 それも、けっこうな額だ。 うちだけじゃないんだ。 そうおもったら、罪悪感がちょっと緩み、 棚上げしてきた、この問題に、 向き合う余裕が生まれた。 「母はなぜ、お金をくれるのか?」 数年前から、 母は、家族旅行などイベントのさい、 お金をくれるようになった。 正月に家族で温泉にいったさい、 母は、姉夫婦、甥っ子、姪っ子もふくめ、 全員に、かなりたくさんの「お年玉」を配った。 全員あわせると、 つつましい母の家計には、そうとうこたえる額になる。 もちろん、父母には、私からもお年玉をあげ、 父母の温泉代は出したが、 それを差し引いて、あまりあるお金を 母は私たちにくれた。 母は気兼ねをしているのだろうか? 子や孫に、お金や時間を使わせて申し訳ない、と。 こんな年寄りを旅行につれてきてもらって申し訳ない、と。 もしそうだとしたら、悲しくてやりきれない。 うちらは、心から、母が好きで、 ここぞとばかり親孝行がしたくてしょうがないのだから。 それが母には伝わらないのか? 子や孫にまで、ひそかに気をつかっているのだろうか? 年が寄ったら、若いモンに気をつかって 生きなきゃいけないのか? そう考えると疑心暗鬼がとまらず、 自分も老いたとき、 若い人たちと、旅行にいったりするときに、 ご祝儀をはずまねばならないのか? とか、 それって、別の意味で援助交際? とか、 父母は、70代・80代 私と姉が 50前後 甥と姪は 20代 みごとな3世代。 私たちは、甥と姪、20代の若いもんが場にいるだけで、 活気づいて嬉しいとおもうのに、 若もんのほうはちがうんだろうか? 甥も姪も、老人と中年相手だと、やっぱり いまいち盛り上がりにかけるようにも見える。 老人になったら、中年と若者に、 中年になったら、若者に、 お金を払わないと、気兼ねして 一緒に楽しめないしくみになっているんだろうか? そんな妄想の暴走も、 一夜あけると、きれいさっぱり吹き飛んだ。 正月の集まりはたった1晩で、終わった。 次の朝には、 もう、仕事や友人との用事や、新年会やらで、 家族は散り散りになった。 つまり、母が金でつなぎとめたり、 金でどうこうしようという気は、 さらっ、さら、ない、ということがよくわかった。 むかしは、お正月は家族で2泊・3泊としたのに、 いまは、みんな忙しい。 母は寂しいだろうに、そぶりもみせない。 今年は、たったひとり、私だけが残り、 珍しく、父母の実家に連泊した。 これにはわけがある。 年末、課題で学生に書かせた文章に、 「家族との時間」を書いたものがあまりに多かった。 父、または、母との死に別れや、 おばあさんとの死に別れや、 「家族との時間を永遠とおもわないように」 「何よりともに過ごすことがだいじだ」と、 学生たちの文章に胸を打たれ、 「この学生たちの言うことを信じてみよう」と思い立った。 私は、いつもより多く、母といることを選んだ。 昨年、父が脳梗塞で、介護生活になり、 あれほど、三度のごはんのしたくを欠かさなかった母が、 ショックで、しばらく食事がのどをとおらなくなり、 食事のしたくができなくなっていたと聞いていた。 母は、みたところかなり回復していたが、 家事が脳によいこと、リハビリのためにも、 私は、寝正月を決め込み、 極力、母に食事のことをしてもらうようにした。 結果、寝ては食べて、だけの、ふてぶてしい娘。 しかもお年玉までもらい、 親孝行のひとつもせず、 せめて母の愚痴ぐらい親身になって聞いてあげようと 思うものの、 母の弾丸トークに、粘りがついていき、 しだいに私は生返事になり、 しまいには、返事もせず、 それでも母は、黙っている私にしゃべりつづけた。 母に上げ膳・据え膳してもらっているうちに、 あっという間に上京の日は来た。 母は途中まで見送ってくれて、 別れ際に、 私のキャリーバッグにお金をいれておいたから、 と言った。 もう、こうなると、わけがわからない。 お年玉をもらったのに、 さらに、なぜ? しかも、完全に私がたつときだから、 それでどうこうしようとか、気兼ねとか、 いっさいの余念はない。 心のきれいなお金だ。 「母はなぜ、お金をくれるのか?」 外食も、贅沢のひとつも、することのない、 あまりにつつましい暮らしの母が、なぜ? 悶々とよくない想像までいろいろしていたときに、 例の、テレビで、「親にお年玉をもらう、いいおとな」が 次々出ていた。 それを観ながら、反射的に、 年末年始何度も聞いた「トイレの神様」 学生たちの、家族との死に別れについての文章の数々、 とくに、「一緒にいるよりまさることはない」という言葉、 母の表情が、ぐるぐるめぐり、 直感的にすとん!と腑に落ちた。 「あぁ! 母は嬉しかったのだ」 子や孫と会えたことが、 私と会えたことが、珍しく私が連泊したことが、 私と一緒にいられたことが、 ただ、それだけで、母には、たまらなく嬉しかったのだ。 戦中戦後を生きて、お金のない苦労をさんざん知って、 贅沢ひとつしない母にとって、 お金は、尊くて穢れのない、自己表現の手段だ。 「それにしても、おかん、 ふてぶてしく寝正月を決め込んで、 手伝いもせず、 愚痴もまともに聞いてあげられなかった、 こんな性悪娘と、 こんな私と、一緒に居られたことが、 そんなに、うれしかったんか?」 恋しているとき、 好きで好きでたまらない人と一緒にいる時間が、 なにをするでなくても、 たとえ冷たくされても、 値千金のように、 母は、なにも望まず、 ただ、こどもと一緒にいられたことが、 ただそれだけで、きらきらと値千金なのだ。 嬉しくてもう、天に向かってか、何かに お礼をしないと気がすまないほどに。 嬉しさの表現。 自己表現に不器用な世代の、 ぎこちない、きよらかな、自己表現。 失恋に「日薬」というのがある。 ほかの何よりも、時がいちばんのくすりという意味だ。 実際に何か飲むわけではない、 一日たつと、ただそれだけで一錠分のんだことになる。 一日一錠、日を追うごとに、確実に効き目は現れてくる。 それになぞらえると、 母さん、父さん、じいちゃん、ばあちゃん、 大切な人に、なにより効くのは、 「居薬」、一緒に居ることだ。 どんな薬より、 何を買ってあげるより、 大切な人を元気にするくすりを 自分は持っている。 今年は、一緒にいる時間をとろう。 心からそう思う。 |
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2011-01-12-WED
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