おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson529 「ひらく」とはどうすることか? ーーー 4.読者からのメール 今週は、「ひらく」シリーズに寄せられた 読者の考えを紹介していきたい。 先々週紹介した 高校生のドレミくんの、 他人を通じて、 自分の知らない世界を知ることで、 自分を深めようとする、 のではなく、 相手の根本思想を追求する。 他者という人間を知る。 それこそが、自分をひらく、 ということなのだ。 (ドレミ) という意見への 反響も多かった。 まず一気に紹介したい。 <絆> ドレミさんのメールで「やられた〜」 って感じです。(笑) まずは、自分に張り付いた余計なもの(常識など)を 剥ぎ取る「自己理解」 そして、他人に対する偏見を取り除き、 寛容さや好奇心で臨む、根本的な「他者理解」 個人同士、互いにそこまで到達でき、 それを確認しあえたら、 それがほんとうの「絆」と呼べるものかもしれません。 「ひらく」のゴールは、ほんとうの意味での「絆」‥‥。 (熊本の青い人27) <身をもって相手の宇宙を体験> ドレミさんの文章にとても感銘をうけ、 初めてメール致します。 私は小さな頃から母親に事ある毎に 『相手の身になって考えなさい』と言われて育ちました。 それは、ドレミさんのおっしゃる『自分をひらく』と 同じだなぁと感じたのです。 相手の言葉を情報としてとらえるのではなく、 なぜそう思い感じるのかを 相手の育った生い立ちや今の環境などに 出来るだけ思いを馳せて、 身をもって相手の根本思想を体感しよう、 とすることだと思うのです。 人は究極的には自分の体験からしか ものは見えないと思います。 だからこそ、毎日いろいろな体験をして、 他者の状況を身をもって感じられる材料を 増やしているのだと思います。 意見が違ったり、いつもイライラさせられる相手にも 自分の宇宙から言葉を投げるのではなく、一度ひらいて、 相手の宇宙で泳いでみてから、 どういうアプローチがその相手にはいいのかを 考えられることも多くなったと思っています。 (Qタロー) <他人の思想を自分の深みまで入れる> 相手を深く理解することは ひらくことのゴールではないと感じます。 私は、ひらくとは 受け取った相手の思想という 新しい風を、すっと自分の深いところまで入れる 風通しのよい自分であることだと思います。 他人の思想を知った時、 興味がなかったり、何だか自分のプライドや 信じている何かが危ない気がして 聞いている耳の奥をシャットダウンしてしまうか、 それとも相手の思想を 自分の深いところまで迎え入れて 自身の世界観を新しいものに更新するか。 新しい風が自身の奥底まで吹き届き、 「自分は知らないことばっかりだった!」 と気付いたとき、 自分が感じていた現在・過去・未来の まったく新しい姿と意味が見えてきます。 (亀の子) <積極的な行為ではなく> わたしは「ひらく」ということばに、 ずっと違和感をもっていました。 押しの強い人が苦手、 たくさんの人が集まる場所も苦手だと感じてきました。 一人で違和感を抱えて 「つらいな〜」 と思っていたこともたくさんありました。 自分を、殻に閉じこもった嫌な人間だなあ、 どうしたら、そんな自分を変えられるか、 と思っていました。 そんなことを考えていたとき、 「ひらく」=「積極的」 という考えがわたしを縛っていることに気付きました。 「ひらく」ということが、 「前へ出る」とか、「好奇心を持って動く」という、 とても積極的な動作のようで どうしても無理をすることのように思えていたのです。 そこで、「ひらく」ということばを 動作ではなく「ひらいている状態」と 思い直すことにしました。 今の自分そのままを受け入れて、 自分と人を区別している壁をとりさって 「ひらいている」状態でいること。 小さくて無知な自分を隠さないでいること。 ただそれだけでいい、と思うようになりました。 「ひらいている」 =すべては地続きで、つながっているイメージ、 そんなイメージをようになってから、 分からないことを知ったかぶりしたり、 変に自分を卑下してみたり、 疑心暗鬼になって落ち込んだり そういう気持ちがなくなってきました。 (ロズ) <謙虚> ひらく。 何処かにある、 もしかしたら、自分でも気づいていない「傲慢さ」に なにかのきっかけである瞬間気づいた時、 「ひらく」感覚を体感するのではないか。 人に対して、ものに対して謙虚になる。 (藍) <半径の大きさではないかも> コミュニケーションが下手で、 それが学べると知ってから、 大学2年から心理学の簡単なものから、 アサーション(自己表現の方法)、 簡単なカウンセリングを学び、結構なお金もつぎ込んで、 私にしては、東京や名古屋など都会に泊まって 参加したりしてきました。 コミュニケーションを学ぶので、大抵自己紹介があり、 いろんな方と関わってきました。 それで、自分の視野が、世界が広がっていると 自己満足をしていました。 でも、私がほんとに出会った方たちと、 ちゃんと関われていたのかというと、Noです。 ふと、比較として思ったのは、 一つのことをじっくりやっているような方です。 足を踏み入れた地域はほんとに少しでも、 関わる人が、同じ地域の方達ばかりでも、 「ひらかれている」と感じる人がいること。 自分との違いはなんだろう? それは、自分の中で日々出会ういろいろなこと、 人とのやりとりをどれだけ、きちんと受け止め、 表面からだけではなく、 さまざまな面から見ようとしたり、 当然とされていることにも疑問をもったり、 時間をかけて考え、 自分なりの答えを出し続けているのではないかと 思っていました。 そこから学んだことや気付きを 体の一部にしていっているのかなと。 そうやって生き続けたら、 偏見も減るのではないだろうか? いろんなものが新鮮で、柔軟に取り入れれるのかも。 先入観なく、人と関われる、 「ひらく」とはこういう表現でもできるかもと感じました。 最近は、いろんな人と関わらないと、と 強迫観念に近く感じていました。が、 上記に気づいてから、 少し冷静になれた自分を感じています。 (hotaru) <空っぽで情けないほどに> 10年ほど前、人事異動が発令されて、 仕事に忙殺されていた状態から、 突然ヒマな状態に置かれたときのことでした。 引っ越し&一人暮らしを余儀なくされ、 お金もなくなり、周りには友達もなく‥‥。 最初は「世の中から必要とされていないの?」という 不安の日々を過ごしました。 数か月を経てだんだんにペースができ、 仕事を言い訳に荒れ放題だった生活が立て直されてきた頃、 自分のなかに変化が訪れているのを感じました。 本を読むと泣けてきたんです。 読んだ本の内容を誰かに伝えようとしても 泣けてきて言葉がでない。 映画を見ても、誰かと会って話していても、 自分自身が変わってしまうんじゃないかというくらいに 影響を受けてしまう。足元が揺らぐ感じがしました。 なんだか自分が弱くなった気がしましたし、 いちいちこんなに感じていたのでは 生活に支障が出るのではないかと思ったほどでした。 自分は無色透明で、カメレオンのように コロコロと色が変わるような感じがして、 空っぽで情けないような気分にもなりました。 でも、このときはじめて、自分の奥の奥まで、 なにかが届いている気がしました。 そして多分、もう少しこの状態が続けば、 そんな空っぽの私でも 変わらないものというか、 核の部分が見えてきたのではないかと思います。 このときの自分こそ 「ひらいて」いる状態だったのではないかと、今思います。 自分が変わることを許したということなんですかね。 無防備になったというか。 (松田) <不安に飛び込む> 「自分の知っているものに反応する」というのは、 「安心感」が原動力。 「相手が大切にしているものに反応する」というのは、 「好奇心」が原動力。 「ひらく」ことは、相手に、世界に、興味を持つこと。 そしてそれは、安心=ちょっとやそっとじゃへこたれない 「自分自身」を獲得すればこそ、 成り立ち得るものなんじゃないかと感じました。 自分は怖がりです。 知らないことは、怖いこと。 怖いことには、出来るだけ近づきたくないと 思ってしまいます。 ただ、怖いながらも「このままじゃあ、つまらない」 と思っている自分も確かに居て。 「安心感」が確立されていない自分が 「ひらく」ためにはどうしたら良いか。 それは未知=不安に飛び込むということ。 言い換えるなら、相手を、世界を、信じること。 疑わないこと。 難しいですが、そうすることが、 「ひらく」ことに繋がるような気がしています。 (白井哲夫) <持続可能な身投げを> 私は精神科に勤務しているのですが、 先週のコラムのような場面で、 ズーニーさんのようにうまく限界突破できずに、 逆に内側にこもらざるを得なかった人たちを たくさん見てきました。 限界突破を乗り越えないと 「ひらく」に通じることができないのだとすれば これは相当つらい作業だなと思うのです。 「ひらく」ことに一旦挫折した人たちにとって、 再度挑戦しようという気持ちは起きないんじゃないかなぁと 心配にもなります。 「身投げ」という言葉は私にはスッと心に入るのですが、 この「身投げ」は限界の先に 身を投げることだけを指すのではないし 思い通りにならない状況に身を投げることでもないし、 孤独の中に身を投げることでもないですよね? コントロールを手放すというか、 そういう感じの「身投げ」なのかなと思うのです。 そして、それは「生きるか死ぬかの瀬戸際のような身投げ」 ではなくて、もう少し「持続可能な身投げ」 であったほうが良いのじゃないかと思うのです。 その「持続可能な身投げ」の中には 「違和感をそのまま味わう」とか「探すのをやめる」とか 「過去や未来の憂いをとりあえず棚上げする」とか 「他者にどう見られるかをいったん脇に置く」とか もう少し“無為”寄りのものも 含まれていていいような気がして。 例えが適切かどうか分からないのですが、 3D画像ってありますよね。 焦点をぼぉっとずらしていくと、 ある点で立体画像が浮かび上がってくるという。 私はあれを見ることはできないのですが、 それはあまりにも私の焦点(の合わせ方)が 固定化されていて それをずらすコツが分からないから 自分には見えないんじゃないかとひそかに考えています。 「ひらく」というのは、 そのいつも自分が使っている焦点の合わせ方を 一旦手放すというか そういうのに似ている気がするのです。 で、そのコツをつかんだ人は、 他の画像を見る時にもそれほど苦労しないというか。 「持続可能な身投げ」を身に着けるというのは それに似ているんじゃないかなと思って。 そして、そういう「持続可能な身投げ」を 身に着けていることが 実は「芸術一郎」との出会いを可能にするのじゃないか、 と私は思うのです。 ただ「生きるか死ぬかの瀬戸際のような身投げ」に よってのみ 「ひらく」に通じようとして傷ついてきた人たちに 「持続可能な身投げ」の道もあるのだと知ってほしいと 私は考えています。 (上田40歳、病院職員、女性) 上田さんの「持続可能な身投げの道もあるよ」、 というご意見が、身につまされた。 以前このコラムで、 拒食症の人で、生きるためには変わらなければならない。 変わらなければ死んでしまう。 それでも、自分で自分の身を死滅させてでも、 人は変わりたくないのだ、 というようなことを言ったが、 私もほっておくとそういうタイプで、 ほっておくと閉じ、自分のパターンをひたすら繰り返し、 自分自身閉じていることに気づかない、 そして限界を迎え、どうしようもなくなって「ひらく」 というやっかいなところがある。 私自身、日々、小さな身投げをしてひらきつづける ことをコツコツやっていかなければ、 とおもうとき、 イメージに浮かぶのが「介護」をしている人なのだ。 私の授業にくる人のなかに、 学生、社会人にかかわらず、 介護をしている人がおり、 偶然なのか、介護をしている人に、 とてもいい文章を書く人が多いのだ。 その人たちは、積極的な攻めの姿勢ではない、 行動半径も決して自由自在にはひろげられない。 けれども、日々、コツコツと自分の外にひらいていると 私は感じる。 きょう紹介した読者の文章から、 ひらくためには、 自分の信じるものが邪魔する場合がある。 自分の信じるものを手放し、 かつ、未知の世界や相手を、信じて、 そちら側に身を投じなければならない。 私のように、信じるものと、生木を裂くように 引き剥がされ、せっぱつまって、しかたなく、ではなく。 介護をしている人は、 日々コツコツと、自分の握り締めてきたものを 小さく手放し、相手を信じて、 小さな身投げを繰り返しているように想う。 「持続可能な日常の小さな身投げ」をし続ける道、 もし、思い当たることがあったら、 ぜひ、教えてほしい。 最後に今日は、この2通のおたよりを紹介して 終わりたい。 <たがいのど真ん中を> 今回の「ひらく」というお話、 私が日々格闘していることだなと思いながら読みました。 私は外国からの留学生に日本語を教える仕事をしています。 言葉を教える仕事というのは、 相手に言葉を使ってもらってなんぼだと思っているので、 とにかく話したくなるような環境や状況を作ることを 日々のモットーとしてやっています。 そのときに、痛感するのが、こちらの姿勢なのです。 マップでいうところのど真ん中について聞いてあげれば 相手は何が何でも話したくて、 言葉を駆使して伝えようとしてくれます。 でも、些末なことについては、 1、2往復のやりとりで終わることが多く、 また私という教師に対しても同程度の興味しか 持ってくれません。 でも、教室という環境の中で いきなりど真ん中について話すというのも勇気がいることで それをしたくなる環境づくりとしては、 私のど真ん中も見せる、ということが必要だと 感じています。 さらにいえば、ただ質問をするだけではダメで こちらが本気で受け止めようとしなければなりません。 究極的には相手のど真ん中と こちらのど真ん中の接点を探る作業ではないかと 感じています。 相手が聞いてほしそうだから聞くのではなく こちらが聞きたいからこそ聞くのでなければ、 勘のいい人なら、 適当に答えを加減して返してくるように思います。 相手のことを知りたいという思いを、 相手のど真ん中にぶつける。 一人、一人を知りたいという思いを本気で伝える。 だから自分のことも知った上で話してほしい。 それをしてこそ、お互いに信頼関係が築けるのではないか と思っています。 これを続けることは 相当なエネルギーと根気のいる作業だと実感しています。 お互いが好きだから集まった集団なのではなく、 縁があって出会った人たち。 なかなか成功しませんが、だれかが「ひらいてくれる」と、 とても手応えがあります。 その人の人間性や、その人がその人たる拠り所に 触れられると 人と出会う仕事をしている醍醐味を感じます。 そして、それは自分から選んでいては、 きっと出会ってなかった新しい世界です。 また、それを味わいたくて、 この現場に携わっているのだと思っています。 (マンゴスティン) <父は私に開いて見せてくれた> ズーニーさんにおたよりしようとしている今、 ひらいている自分に気づきます。 ズーニーさんがひらいているから、 読者である私もひらくことができます。 父は、私が気持ちを閉じてしまった時に、 私の扉を開けようとはせず、 自分の扉をひらいてみせてくれました。 その開かれた扉を感じると、自然に涙が出てきました。 その時に私の扉が開いたのでしょう。 父はもういないけれど、その扉はずっと開いてます。 父だけでなく、いくつもの扉を、 出会った人たちにひらいてもらっていると感じています。 そのひらいた扉は、 例えその人達に会えなくなっても、開いたままです。 日々の中で息苦しくなることもあるけれど、 開いた扉から入ってくる風を吸って、生き返ります。 そして自分もまた、人にひらいていきたいと思います。 自分からひらくのは勇気も必要で、 時にはピシャリと閉められたりして、 傷つくことも少なからず。 それでも、そんな傷なんて吹き飛ばせるくらいの 広がっていく世界が確かに見えるから、 ひらいていきたいなって思えます。 どうやってひらけばいいか、 苦い思いもした後に考えることがあります。 意識の上でのことですが、 相手と向き合って座ると、互いに身構え、 見比べてしまいやすいような気がします。 相手が必要以上に大きく見えたり、 自分を必要以上に小さく感じたり。 また共通項を探すことにとらわれて、 互いを見ようとしていなかったり。 時には自分が求める姿を投影して、相手を見てしまったり。 それはまるで1+1=1の世界。広がらない世界。 そんな息苦しさを味わううち、 意識の上で、相手の横に座ろうと 心がけるようになりました。 これがなかなか難しいですが、 うまく横に座れると視界が広がるのが分かります。 互いに違いを楽しんで、 1+1≧2の世界が広がっていくような、 開放感があります。 そうやって扉をひらきながら、 大きく息をして、 どんどん膨らんでいきたいと思っています。 (Sarah) |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。
2011-02-23-WED
戻る |