YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson537 生きる場所を選ぶ問い


「選択」を迫られる、

しかも、短期間に、
重要な決断をしなければならない、

ということが、
被害の少なかったこの東京でさえ、
震災以降、たくさんの人に起きている。

とりわけ、「どこに住むか?」という問題。

東京に残るのか?
離れるのか?
一時的に疎開して、また戻ってくるのか?

ほかのことは全くヘタレであった私が、
なぜか、この問題だけ、
意志決定が速く、ブレなかった。

なぜかと言えば、16年前、さんざん悩んだからだ。

「自分は、この先、どこの土地に住み、
 なにを求めて、
 どう生きるか?」

という問題について、
私は16年前、
岡山から東京に出てくるかどうかで、
迷いに迷い、悩みに悩み、
さんざん考えた。

あのときは孤独で、
往生際も悪く、泣いたりもしたが、
一度トコトン考えて、頭を整理したことが、
おもいがけず、非常時に
自分の選択を支えてくれていた。

「考える」というのは、
あまりにも地道で、コツコツした行為だ。
劇的でもないし、
パワフルでもない。
それでも、

ひとたび考えて決めたことは、
あともどりしない、積みあがっていく。

なのできょうは、
「どこに住むか?」を選ぶにあたり、
かつて私が悩み考えた経験をもとに、
有効な問いをさぐってみたい。

避難区域から離れたところにいる私たちには、
住む場所を選ぶ自由がある。
逆に言えば、自分で選択しなければならない。

この東京で、
友人の選択で、
印象に残ったものが二つある。

ひとつめは、
小さな子どもの母である友人の、

「いざとなったら、
 こどもだけ抱いて、
 それ以外のすべてを捨てる覚悟をした。」

という選択だ。
彼女は、この東京で、
会社では前例もないなかで、
育児と仕事をほんとうにがんばっている。
これからも東京でがんばるのだが、
それだけ仕事を大切にして生きている彼女が、それでも、

いざとなれば、こどもを最優先に、
他の一切を捨てる覚悟をした。

夜中にふと、心の中にその覚悟が定まったとき、
ただそれだけなのに、
たくさん涙が出たと彼女は言う。

「自分にとっていちばん大切なものは何か?」

「いちばん」大切なものというのは、
文字通り「たった1つ」だけなのだ。

他の全てを捨てても、「この1つ」、
と言い切れる大切なものがあること、
それが自分自身わかっていることが、
強い、素晴らしいと私は思う。

もうひとりの友人は、
3月11日の激しい揺れのなかで、
こう思ったそうだ。

「ここで死ぬのもなあ‥‥。」

命を脅かす激しい揺れのなかで、
彼女は、「ここ」、つまり、
「東京では自分は死ねない」と思ったそうだ。

すぐ故郷に帰るわけではないが、
彼女は、地震を期に、将来的に、
仕事の拠点・生活の拠点を故郷におく
という意志を持ち始めた。

本能的直感というのだろうか。

「いのち」の危機を感じることは、
私の人生のなかでも、めったにないことだ。
そのなかで、ピーン!ときた直感、
気づきは大事にしたほうがいいと私は思う。
人間はだれもが死を迎えなければならない、
そこで、縁起でもないが、

「自分はどこで死ねば本望か?」
「逆に、どこで死んだら不本意か?」

と、住む場所を命に照らして問う
こともできる。

私自身はと言えば、16年前、
「東京に出ずして自分は死ねない」と思った人間だ。

高校生を対象に編集者をしていた私には、
教育への「志」があった。
こころざしなかばで、やりたいことがあるのに、
「やらずに死ねるか」と。

ほんとうに多くの犠牲を払い、家族と話し合いを重ね、
考えに考え、覚悟して東京に出てきていたため、
今回の非常時、意志は揺らがなかった。

私には、いったん地方に疎開した人が、
そこでの生活に生きづらさを感じ、
また戻ってくる気持ちがわかる。

疎開に似た経験が私にもあるのだ。

30代の終盤、私は1ヶ月以上
ふるさとの岡山に帰っていたことがある。

会社を辞め、
フリーランスとして立ち上がるまでの数年間は、
社会から完全に干されて孤独だった。

みかねた家族がしばらく帰ってきてはどうかと、
私も不安にいまにもおしつぶされそうで、
これはもたない、と一時岡山に帰った。

夕飯などの買い物のために、
家族が引き出しに、お金を入れておいてくれる。

朝、家を掃除し、
ワイドショーを見て、昼寝をし、
引き出しのお金をもって、
スーパーマーケットに買い物に行き、
夕飯をつくる。
引き出しのお金がなくなると、家族がまた補充してくれる。

私には、そのひと月あまりのほうがいたたまれず、
不安と孤独に押しつぶされそうな東京で生きることを、
自ら選んで、再び上京した。

東京にでて久しい私には、
友人・知人など故郷のネットワークは
もうほとんど残っておらず、
なにより、私が人生を傾けてきた「仕事」が、
社会とつながり、志を追うためのフィールドがなかった。

それは「アイデンティティの死」を意味した。

人には、「生命の死」のほかに、
「社会的な死」「アイデンティティの死」がある。

「どこに住むか?」を選択するとき、
「命を生かす」のはもちろんで、
それがなきゃ、もともこもないのだが、もうひとつ、
「アイデンティティを生かす」ことを
両輪で考えなければならない。

「命を生かす」にあたって、私が立てた問いは、

「専門家は、何ミリシーベルト毎時になると
 その土地から避難することを
 考え始めるべきだと言っているか?」

「そこから逆算して、私自身は、
 何ミリシーベルト毎時になったら、
 オロオロ、ソワソワ、移動することを考え始めるか?」

慎重で恐がりな私は、
かなり余裕をもたせた数値を設定している。

その数値になるか、
その数値になっていなくても急上昇のベクトルになったら、
いま住んでいる土地から移動することを検討しはじめる。

そして、もう一方の、
アイデンティティを生かす住む場所を考えるときに、
次の3つの視野から考えてみるといいのではないか。
すなわち、

「自己表現」と「自立」と「幸せ」になることだ。

わかりやすい例で言うと、
そこに住んでいれば、
「自分が自分でいられる」し、
「仕事」ができて、
「家族ともども幸せ」にやっていけるということだ。
たとえば、こんな問いがたつ。

「その土地で、自分が自分として、
 自分らしくいられるか?」
(自己表現)

「少し長い目で見たとき、そこに住んで、
 社会貢献し報酬を得るお金の循環をつくって、
 食っていけるか?」
(自立)

「そこで、たとえば友人や結婚などの、
 愛し愛される人間関係を築いていけるか?」
(幸せ)

たとえば単身赴任をしているお父さんなら、
そこで「仕事」はあるけれど、
「家族」は遠くはなれている。
「自立」はできても、「幸せ」はもうひとつ、
という場合もあり、
3つすべてを兼ね備えるということは、
現実には難しい場合もある。

しかし、まず、3つの方向それぞれから検討していいし、
まず、3つを目指してみるべきだと私は思う。

たとえば、
結婚するために仕事をやめるなど、
結果的に、「自立」を犠牲にして
「幸せ」をとったとしても、
それがわかっていて、考えた末、選んだことなら、
「納得感」があるのだ。
さらに、

「自分の好きな場所はどこか?
 たとえば、そこにいるだけで元気になる、
 自分にあっている、そうおもえる場所はどこか?」
(自己表現)

「たとえば絵を描くことが好き、
 音楽をやりつづけたいなど、
 そこで自分の好きなことをやりつづけられるか?」
(自己表現)

「そこに、お客さんはいるか、クライアントはいるか、
 社会的なネットワークを築いていけるか?」
(自立)

「そこに住むことは、こどもなど、
 自分の愛するものにとって幸せか?」
(幸せ)

「家族など愛するものと離れて住む場合、
 距離や合う頻度など
 どれくらいであれば、絆を持ち続けられるか?」
(幸せ)


というように、3つの軸があれば、
自分の状況に合わせて考えていける。
さらに、

「自分が自分であること、仕事、家族、
 住む土地を選ぶとき、
 自分が最優先したいものはなにか?」

という問いも検討してみてほしい。

非常時にあっても、
あなたがあなたであり、
社会に役立って食っていけて、
かつ、愛し愛される人との関係を結んでいけますように。

ベストとはいかなくても、
私自身、納得ある選択にむけて
考えていきたい。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-04-20-WED
YAMADA
戻る