おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson541 おかんの昼ごはん ― 3.青春の終わり ひきつづき、「おかんのお昼ごはん」への 胸を打つ、たくさんのメールをありがとう。 きょうは、たくさんのメールのなかから、 「青春の終わり」に絞って、 紹介したい。 「消春」 というと、たそがれた、 枯れたイメージにとる人もいるんだろうか? でも、私の青春は終わったけれど、 青春の私をうらやましいとも、戻りたいとも、 まったくおもわない。 むしろ、目をそらしたり、すりかえたりせずに、 なぜもっとはやく‥‥と。 私には、いま目にしている季節のほうが愛おしい。 「青春が終わった先には何がある?」 消春をむかえた読者、 あるいは、もう「次の季節」を歩いている読者の おたよりを、まず、一気にお読みください。 <受け入れて生きる> 以前、 子供に手がかからなくなって、 もう人生の義務は終わったわねと、 うちに遊びに来ていたお友達に言われた母が 「何言ってるの。親を見送らないといけないでしょ。」 と返しました。 親を見送ることを自分の人生の務めとして生きている母と そんなことを夢にも思わず生きてきた自分を 比べて愕然としました。 それから、少しずつですが、 自分自身もいつまで健康でいられるかわからない という思いとともに やはり子としてしっかり親を見送って、 それから心おきなく死にたいと思うようになりました。 今は、老いていく両親に20数年後の自分を重ねながら、 そのときに自分がしてほしいことをしようと思っています。 母や父がそうしたように ちゃんと自分の両親を見送ってから、 自分の人生を全うしたいと思っています。 (マンゴスティン) <自分の子供時代と決別した日> 私の人生の大きな転換点は 両親の老いと確実な死の匂いを 頭で理解するとともに 心で受け止めざるを得なかった日です。 この日を境に私は 自分の子供時代とはっきり決別しました。 それは恥ずかしながら30代後半のことです。 その日から数年間で両親は他界しました。 両親を失ってみて初めて 両親がどれ程心の拠り所だったかが分かりました。 私が今まさに考えているのは 私の一番大切なものは何なのか? 自分の老いも自覚し命は有限だと知る今こそ 大切なものを抱きしめて生きて行きたいと 切実に思うのです。 (k-min) <経験値があがってきたからこそ> 母は最近、 物覚えがだいぶ悪くなったなぁ、ということと 今まで出来ていたことが 少しずつ出来なくなっているような‥‥。 父の入院やその後の治療など、 家族が話を一緒に聞かなければいけない場に、 今までの母だったら一人で対応して 子供たちには知らせずに こなしてしまうひとだったのですが 最近は、 医師の言うことを理解できるか覚えていられるか 自信がないらしく 娘(わたし)に一緒に聞いてくれ、と。 もちろんわたしに出来ることはやりますが ああ、あのしっかり者のたくましい母が こうして少しずつ弱っていくのか‥‥ と、現実を見ることが、少々つらいなと、思いました。 わたしがつらいとか言ってる場合じゃないですけど。 「子供としての自由時間は終わったんだな」 と、思いました。 いい年をして、もう結婚だってしてるのに、 やはりそんなことを考えていました。 「終春」、とてもよくわかります。 ほんとに、春は終わった、て瞬間が来るとは。 若い頃には知らなかったことが押し寄せてくるのが 人生中盤なんでしょうか。 でも、若い頃だったら、 ショックや不安や責任に押しつぶされそうだし 逃げ出してたかもしれません。 誰かに背負ってもらうことを探したかもしれません。 今なら背負える。 少なくとも、そのくらいは経験値上がってるはず。 そう思える頃だから、やってきたんでしょうかね? 「終春」。 (みほぞう) <青春の終わり> 私が「青春の終わり」を感じたのは、 息子を出産し終えた時です。 ああ、なんて重たい責任をおってしまったのだろう、 と奈落のそこに突き落とされた気がしました。 そんなことは誰にもいえませんけどね。 (小3の母) <青い季節のその次は> 春夏秋冬と青朱白玄のように、 人も移り変わって行くものなんでしょう。 ズーニーさんが「青春が終わった」とお考えなら、 次は「朱夏」。 暑い夏になりそうです。 (尾西36) <わかっていた、悟るのが恐かった> 「私にはもう"お父さん"はいないんだ」 そう悟った瞬間の痛みはいまでも鮮明です。 私の父は今年で72歳。年男です。 私は父にとっては遅くできた子供だったので (ちなみに私は今33歳です)、 私が大学生の頃にはもう、 若い頃から勤めていた銀行は定年退職となり、 銀行から紹介された次の職場で、 のんびりと働いていました。 その職場も契約期間満了で退職。 舞踊教室を開いている母の送り迎えでもする、 と暢気に言っていました。 その日から父が"老い"るまで、 さほど年数はかかりませんでした。 父は日がな一日、実家の茶の間のテレビの前に座り、 ぼんやりテレビを眺めているか、居眠りをしているか。 退職を機に始めた写真も、熱中していたのは最初の数年で、 もともと患っていた糖尿病が悪化するにつれて 外出もしなくなり、 人に会うことがなくなり、 忙しい母が家を空けている間は誰と会話することもなく。 父の言動に不安を感じた母が連れて行った病院で、 『軽い認知症』と診断されました。 父の変化は、年に数回の帰省で会うだけの私には、 特に顕著にわかりました。 会うたび、記憶力や判断力が薄れていく。 会うたび、気力体力が衰え、 散歩に誘うことさえ難しくなる。 私が子供の頃は、忙しくてほとんど家にいない父でした。 娘の私にはとことん甘く、 息子には厳しいというよりあたりがきつく、 父親としては欠点も多かったかもしれません。 それでも、投げ出すことなく 長年仕事に励んできたひとです。 社会に出て、外の世界のこととなったら、 父に教えを乞えると思っていました。 だけど私の目の前で、父はみるみる老いていった。 自分の面倒さえ満足にみられない“老人”になっていった。 ある日、実家から東京に戻る途中、 ふいに、 「ああ、私にはもう、 頼りにできる“お父さん”はいないんだ」 と悟りました。 うすうす感じていたことでした。 きっともっと前からわかっていたんです。 認めることが辛かったのです。 そのとき少し泣いて、 それから私の中でスイッチが切り替わりました。 私はもう、“お父さんの子供”ではないのだと。 守られ、支えられることを期待し、 甘えていられる時期は終わったのだと。 私には“お父さん”はいません。 そして、子供に戻り、日常生活のほとんどの面で ひとの手助けを必要とする、 老いた父がいます。 少しずつ少しずつ、 そうして、 “生きること”を受け入れていくのが、 人生、なのかなあ、と、 このところよく思うのです。 (もち子) <「ごっこ」は終わり> 「わたしの青春が終わった」という気持ち 痛いくらい解ります。 6年前母が大腸がんの手術をしてから、 月に一度は実家に帰っていました。 有休が取れれば、木曜日の最終便に乗って、 日曜日の最終便で戻る、という日々。 そのうち、風邪をこじらせてあっという間に父が亡くなり、 大家族には慣れていても、1人で暮らすことの不自由な母を 放っておけなくて東京の仕事をたたんで秋田に帰りました。 そして、母が手伝うからというので、 昨年小さい菓子店兼喫茶店を始めて、 それまでそんなことがなかったのに、 母は二度入院しました。 手元がおぼつかなくなって、 大事にしていた作家モノの湯のみや、 ご飯茶碗が壊れていきました。 みんなそういうシーンに出会っていたんですね。 そろそろお店をたたんで、また、 母とゆっくりすごすことにしようと思います。 わたしのカフェオーナーごっこは一年で終了です。 それはそれでいいと思っています。 母が知らないところで1人で死んでいたりするのが、 とても怖いのです。 が、看取るのも、ほんとは怖いです。 (ペルノー) <私が80歳になった時> おかんの昼ごはん そして、それに対するいろんな方たちの思い、 私ひとりじゃないんだなぁと ちょっぴり安心し、 胸の奥があったかくなりました。 現在、 80歳になる認知症の母と 81歳になるガンを抱えている父と一緒に 暮らしています。 20歳になる息子は、家を出て、遠くの大学へ通っており、 私自身は兄妹もおらず、離婚しているので 連れ合いもいない。 たったひとりで、介護と 会社のちょっと重めの仕事を両立しています。 震災のあと、 大地震が来て津波があったということの認識ができず、 ニュースを見るたびに 「どこかで大水があったの? 毎年どこかであるねぇ」 と言われて。 そうじゃなくて、こんな大きな地震と津波は 100年に一度あるかないかなんだよ とそのたびに最初から説明するのがつらかったです。 家事が何もできなくなった母を、 心がうつろになった母を、 娘に世話になっていることをうしろめたく思っている母を 本当にやるせなく思うことが多いのですが、 ときどき童女のような表情になって 若い頃のことを語る(10代の記憶がいちばん鮮やかです) 母を かわいく感じたりもします。 なにより怖いのは、 母を見ていると、 自分もいずれ母と同じように老い、死に向かうのだろう ということがリアルに感じられること。 でも、母は自ら老いのレッスンを 私にしてくれているのかも。 衰えて行く親を身近で見ながら、 人は自分の老いにそなえていくものなのかもしれません。 私が80歳になった時、 世界はどう見えるんだろう。 できることなら私は、 自分の老いを受け入れ ゆっくり世界とおりあっていけるように 心安らかにいられれば、と願っています。 (小春) <母をもうそのステージには戻せない> 私は病院に勤めていて、相手にしているのは、 ほとんどが重度の認知症の患者さんとそのご家族です。 「老い」には、身体と精神の衰えがあり、 時にはその人の人格さえも変容させていくことを、 そしてそれが、 家族というものの歴史を揺さぶるくらいの 威力をもっていることを、 毎日思い知らされています。 認知症というのは病気だから、 必ず認知症になるわけではないけど、 「老い」は必ずやってくる。 とても上手に対応してあるなぁと思うご家族もいれば、 こういうところ分かってあげてほしいなぁと思う ご家族もいらっしゃいます。 私たちは専門家として、その人の「老い」が どういうふうに現れているのかを説明することもあります。 でも、常々思うのは、「他人の限界」も「身内の限界」も、 どちらもあるということです。 自分がその立場になっても冷静でいられるかと言われれば、 決してそうではないと思います。 実際、相手が患者さんなら気づいたり、 理解したりしてあげられることが、 自分の身内に対しては全くできていなかったことに、 愕然とした経験もあります。 それでも、親の老いを目の前にして、 狼狽したり、受け入れがたいと嘆いたり、責めたり、 そういう感情の動きは、家族の特権であり、課題であり、 だからそれでいいのだと、私は思っていました。 半年前、父が亡くなりました。 まだまだ、若い父でした。 老いる間もなく、逝ってしまいました。 私は、すごく悲しかった。怖かった。 でも、闘病生活の間、亡くなるその瞬間まで、 私は素直に、悲しんで泣くことができませんでした。 母が、隣で、悲しくて怖くてたまらないという表現を ずっとしていたからです。 自分が医療関係者ということもあり、 父と治療についての話をし、医師と相談して病院を探し、 入院の段取りをし、悪化していく病状の説明を受け、 そういう一切のことを、 私は必ず母と一緒にやるようになりました。 母は気丈に振舞っていたし、 きっとすごく頑張っていたのだと分かるのですが、 闘病中から現在に至るまで、 細々とした弱音や愚痴を聞かされるたびに、 私はどうしても苛立ってしまうのです。 優しくできない。すぐ近くなのに、実家への足が遠のく。 「好きにすればいい」と相談をはねつける‥‥。 自分がそんな態度になるのは、 いつまでも悲しみの中に浸っている母が悪いのだと 思ったこともありました。 私は前に進もうとしているのに、 母がそれを邪魔していると。 でも。最近やっと、違う側面で 考えることができるようになりました。 母が、「母」を降りて、 ただ「妻」として悲しんでいるからではないかと。 そして、私が本当はまだ「母」を求めているからだと。 父の死という重大な事件を前にして、 私は子どもでいたかったのに、 子どものように不安で、 わんわん泣いて悲しみたかったのに、 そこに「母」がいなかった。 30という私の年齢は、 母にとっても周りの人たちにとっても十分に大人。 私を、「父を亡くした子ども」として扱ってくれる人は 誰もいませんでした。 良い悪いではなく、 それが現実なのだと理解するまでに、 とても時間がかかりました。 また、自分がその状況を受け入れたくないと 耳をふさいでいること、 それを受け入れるのにも時間がかかりました。 母は、もしかしたらもうずっと前に、 私の前では「母」を降りていたのかもしれません。 だとしたら、私がどんなにそれを拒否しても、 母をそのステージに戻すことはできないのだと思います。 母は母自身の人生の、次のステージに進む という課題に直面しているのだから。 私の中の子どもは、私自身が面倒をみていくしかない。 そして、母がこれからどんなステージを選び進んでいくか、 私は見守っていかなければならない。 それが、私の消春ではないかと思います。 そんなの嫌だ、切ない、寂しいと、 私の中の子どもは地団駄踏んで暴れます。 でも、受け入れた分だけ、きっと癒しもやってくる。 今はそう信じて、時には家族の特権として 感情を揺さぶりあいながら、 一緒にいることを選ぼうと思います。 (ゆき) <のり越えて行きなさい> 毎日一緒に生活して、親の年齢は知っていても、 親を解っていないものなんだと思います。 老いるといっても、 それは穏やかで緩やかな時間の流れとともにあるものだと 何の根拠もなく、そう思っていました。 2年前の春。 いつもと同じように1日が暮れ、 いつもと同じように夕食を囲み、 いつもと同じように穏やかな時間が 当たり前に流れていました。 母は大好きな時代劇を観ていました。 私はちょうどその時、風呂に入っていましたが 居間の様子が違うのを感じ、慌てて服を着ました。 母が横になったまま、姿勢を動かせずにいました。 脳梗塞でした。 半年の治療とリハビリ入院。 それまで各々が信じて疑わなかった「当たり前の日常」が 全く違うものに変わり、 予期せぬ事ですら 日常というごく真っ当な力で有無を言わさず 押し流されていくようでした。 意識することもないほど当たり前で 無頓着なくらいにかけがえがなくて ささやかで愛おしくて 時に残酷で でも、だからこそ 苦しいことがあっても しなやかに しぶとく 悲しいことも 嬉しいことも 抵抗できないくらい 「日常」として成り得るのかもしれません。 仕事を終え、母の顔を見に病院へ行き、 買い物をすませクタクタになりながら帰宅していた頃。 家事を済ませて遅い夕食を食べていたら テレビから流れてきた歌に心がふととまりました。 樋口了一さんの『手紙』でした。 あの頃は、今に比べたら まだどこかぼんやりとしか 分かっていなかったかもしれない。 考えなければいけない事に違いないのに、 予測、とすら呼べないくらいに。 時間の経過と、母の介護とともに、沁みてきています。 そして今でも、『手紙』に涙が出ます。 あの日から 一瞬に変わったあらゆる全てを 私はきっと ありのまま受け入れきれていない、 認めたくないという気持ちが まだどこかにあるのだと思います。 これからも、受け入れていくべきことは 日々新たにあるのだということを 頭では知ってはいるのに。 母が病気になったこと。 その母が、今までの母とは違うこと。 ただただ悲しくて悲しくて悲しくて、寂しくて、辛くて。 でも、 いちばん苦しくて辛くて悲しいのは、母自身なのに。 弱音も愚痴も泣き言だって言いたいはずなのに。 わたしは、わたしの「子ども」としての気持ちが 時に負けそうになってしまう。 「お母さん、わたし悲しいよ」って、 心許ない、ただの子供になってしまいそうになる。 「笑え。 ニコニコしてる母ちゃんの顔が いちばん好きだ。」と言う父も、 この2年で老いが進んだように感じます。 いつかは、誰もが通る道。 親って、すごいですよね。 「老いていく」ということを 身をもってありのまま 子どもに見せていく。 そして、その先にあることも 「乗り越えていきなさい。」と示す。 自分の弱い気持ちに挫けそうになる時、 『手紙』を思い出します。 泣きたくなることもあるけれど、 それでも、父と母と一緒に笑いたい。 泣きながらでも、笑いたい。 母を笑顔にしてあげたい。 今の母を理解して受け入れ続けていくことが 母の日常を成り立たせていく最善の道。 まだまだ人間が出来ていないので 容易ではありません。 でも、大切な母だからこそ、 受け入れていこう。 受けとめていこう。 わたしのささやかで最大の「ココロの指針・目標」です。 (うさぎモエコ) ズーニーです。 ふるさとの家から駅に向かって歩きながら、 「青春の終わり」が訪れた瞬間を、 いまも鮮明に覚えている。 うまく言えないので、あくまでたとえなのだが、 その瞬間、 それまで周囲を照らしていた電気が はちん! と消えた。 闇が訪れる。 と同時に、自分のなかで、ぽわっ、と 小さなオレンジの灯がともるのを感じた。 街に向かう列車のなかで、 気づけば、乗り合わせた人たちにそれぞれにも 一人にひとつ、小さな灯があるのが見えた。 だから、いつも見る風景が、 いつもとはまるでちがって見えて、 なんか切なく、なんか愛しく、泣きたい感じになった。 向かい合わせの座席で 目の前に座っていた青年が、 ふいに車内に知り合いを見つけたらしく、 大声で話し始めた。 青年たちの会話は外国語だった。 英語じゃない。 いったいどこの言葉だろう? 私はどこの言葉が知りたい気持ちが沸き起こり、 「どこの国のかたですか?」とたずねたかったが、 車内で、見ず知らずの人に、話しかけるのは、 実際やろうとしてみると、ほんとに、 なかなかできないものだ。 聞いてみようか、やめようか、 勇気を出して、でもまあいいや、と 長い長い間、ためらっていると、 目的地は近づき、臆病な私は、いつものように、 話しかけないまま、そのままで降りようと決め込んだ。 ああ、やっぱり話しかけないんだ‥‥。その瞬間、 「また、は無いよ!」 私の中から声がした。 さらに、内なる声はこう響いた。 「いま、しかない!」 「聞きたいことは、いま、聞かなきゃだめ。 知りたいことは、いま、知らなきゃだめ。 会いたい人には、自分から会いに行かなきゃだめ。 やりたいことは、いま、やらなきゃいつやるの。 また、はもう、私には無い。」 その声に突き動かされるように、 いつもなら決して声をかけることをしない・できない私が、 勇気をふりしぼって、なんか必死になって声をかけた。 「どこの国のかたですか?」 青年はブラジル人で、 震災はあっても日本に残ってがんばると 短い会話の間、日本語でとても真摯に答えてくれた。 「また、はない。わたしにはもう、いま、しかない。」 という声は、列車を降りてからも、 自分の中でじーんと鳴り響いていた。 思うに、「青春」は、 あこがれの人や、あこがれの仕事や、 こうなりたいと思うものや、 外にある光を追い求めていた。 けれども、自分の人生がこの先、 思っていたよりずっとずっと短いことを受け入れたとき、 外の光を追ってる場合じゃない、 外の光に惑わされてる場合じゃないことに気づかされた。 なんでもっとはやく、この命の短さに 気がつかなかったかな、 惜しいな、と。 「朱夏」とはよくいったものだ。 青い春が消えて以来、わたしにとって、瞬間瞬間は、 以前より、ささやかだけど、ずっと愛おしく、 命を燃やしている感がある。 人間関係に受け身だった私が、 自分から、会いたい人には会いに、 行きたいところには行くようになったのは、 「消春」が来てくれてこそだ。 最後に、このおたよりを紹介して今日は終わりたい。 <新しい自分はもう始まっている> 終わりは始まり 受け入れて、 そして次が始まる いつもそう 宇宙は、最後には収縮すると言われてましたが、 むしろ宇宙はますます膨張していることが分かり、 最後は拡散していくものと考えられ始めています。 宇宙の端くれとして、 なんだかその方がしっくりときます。 ズーニーさんも、 今まさに膨張しているのではないかなぁと思います。 青春が終わったと感じたその時、 もう新しいズーニーさんが始まっている。 今日と同じ明日が来る保障はどこにもなく、 それでも与えれた時間の中で、 昨日のことを受け入れ、 今日は一ミリでも大きくなって 明日を迎える それを積み重ねていく。 人間ができることは きっとそれくらいなのだと この2カ月で思うようになりました。 表現することは、受け入れること 娘との別れを惜しむお母さんは、 一日一日をちゃんと生きてきたからこそ、 自分の弱さを受け入れられるようになれたのだと思います。 一年後の自分、10年後の自分 その自分が存在しているかさえ保障はないけど その自分に時間が与えられるかもしれないから 来たるべきものを受け入れるように 少しずつでも大きくなりたい。 そしていつか、 自分の弱さも人の弱さも包み込んで、 もう少し素直になれたなら きっとそれでいい。 (Sarah) |
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2011-05-25-WED
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