おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson542 おかんの昼ごはん ― 4.ひとつ 人生が、自分が思っているよりも ずっとずっと短いとしたら、 「何をいちばん大事にしますか?」 ひきつづき、胸を打つ読者メールが 続々と届いているこのシリーズ、 今日は、 親が身をさらすようにして教えてくれた 命の尊さと儚さから、 自分が人生で大事にすべき 「ひとつ」 についてのおたよりに絞って 紹介していきたい。 正解はない。 でも、読者が限られた自分の人生で大事にすべきと思った 「ひとつ」 はなんだろう? <今度こそしっかりと受けとめたい> 「おかんの昼ごはん1〜3」を読み、 泣いて泣いてようやく心の整理がつきかけています。 母は3年前ガンで亡くなりました。 子に世話をかけず、あっという間に。 それが悲しかった。 でも母のガンさえ受け止められず 辛くさえ当たったりした私が世話をしていたら、 どれだけ母を傷付けただろうと思うと、 すべて母は承知で、 早めだけどもう逝くわって旅立った気がします。 親がだんだん老いてゆく悲しみ、 それはあっという間に母を亡くした悲しみよりも 深いかもしれない。 父は母無き後、 家事をこなし、散歩し、 子に迷惑かけまいと、必死で頑張っています。 いつか父が老いてゆくさまをまざまざと見せられたとき、 歯を食いしばって頑張った父を 私は今度こそしっかり受け止めたい、 私に受け止めきれるだろうか? 大人になりたい。 こんなにそれを思ったことなどない。 今、私は本当に、大人になりたいです、 父が元気なうちに。 母が死んだ日、 母は朝からめずらしく食欲があると言い、 おうどんを作っていました。 普段はふさいでしゃべらない母が やけに話しかけてきて、 それが鬱陶しくて返事もせず、 鞄を引っさげ、逃げるように玄関へ向うその一瞬、 母を見た。 背中を丸め、大好物のうどんを静かにすすっていた。 その背中があまりにあまりに悲しくて、打ちのめされ、 吐き捨てるように「行ってきます」と玄関を飛び出した。 駅までの坂道を、悲しみに胸をえぐられながら走り、 社に着き、席に座ってまもなく 携帯が鳴った瞬間、わかった、 「母に何か起った」と。そして...その通りでした。 いつ、親との別れが来るのか? 皆、それを思いながらきっと暮しているんですよね。 いきなり母のような別れが来たり、 あるいは、長い介護の末に。 いつ別れが来るか分からないから、 悔いの無いよう、できる範囲で、 親を受け止めてやりたいと思う。 その為には日々を精一杯生きるしかない、と。 そう、私には、今しか、ない。 (まゆママ) <あたしを生きていきたい> 「おかんの昼ごはん3」を読んで、心が震えました。 頭の先から足の先まで、 何かが解放されていくような気持ちでした。 初めての体験でした。 読み進めていくうちに、 最後の新しい自分のところで、 驚くような変化があったのです。 毎日、平坦な日々だと思っていたのです。 あまり自分の人生を大切だなんて思ったことないんです。 未来もなんとなくあっただけです。 でも、今日読んで、 あたしは今まで一生懸命生きてきて、 明日もまた生きようとしてるんだ、と感じたのです。 ずっとつながって今があったんだ、と。 同時に、日々こなしている自分を もっと愛おしんであげよう、 認めてあげようと思ったのです。 そしたら、なんだか力強く進んでいける気がしてきました。 障害を持つ家族がいます。 両親の老いとともに、漠然と不安がありました。 だからかもしれません。 あまり先のことは考えたくなかったのです。 怖かったのです。 まずは自分が一生懸命生きて、 力を蓄えて行こうと思います。 あたしはあたしを生きていきたい。 いつか、あたしは、老いや介護や家族を受け止めたいから。 覚悟が定まったのです。 このような気持ちになれた機会をありがとうございます。 (聡子) <私がいちばん愛した人> 私は今年22歳になります。大学4年です。 大学2年の時、 私が20歳になって数週間後、 母が急死しました。 クモ膜下出血で、 朝起きた時には息を引き取っていました。 なんだか、母が亡くなり、 びっくりするほど色んなことを考える人間になりました。 まさに、最後に書いてあった 「新しいズーニーさんが始まっている」ところと 少し似ているのかもしれません。 母の死が、生まれて初めての身内の死でした。 死んだら何もないんだ、 人間呆気なく死んでしまうんだ、 でも、人1人が死んでも、 周りの現実は驚くほどいつも通りに進んでいく。 母の死を境に、より、人懐っこくなった気がします。 なぜなら、たぶん2つあって、 1つは純粋にまだ人に甘えたいからです。 まだまだ私は母に甘えたかったし、 甘えるつもりでした。 そんな気持ちが、なんだか人にかまってほしい、 甘えたいって気持ちに繋がるのかなって思います。 2つ目は、私としての人生は1回きりなんだなと、 本気で知ったからです。 「人生一回だからー」、あれは本当だったんだな、と。 私としての人生一回なんだと思うと、 私として色んな人に会いたい、話したい、 いろんなところに行きたい、いろんな経験をしたい と思うようになりました。 母の事を考えない日はありません。 1人で涙することもよくあります。 でも、意外にお笑い番組で笑ったりすると、 元気になれちゃうんです。 でも、感情の振り幅が確実に激しくなってます。 号泣もしょっちゅうしますし、 爆笑だってしょっちゅうします。 号泣があるからこそ、爆笑があって、 爆笑があったからこそ号泣がある気もします。 母は亡くなってしまいましたが、 ほとんど老いを見ずにいなくなってしまったので、 ほぼ完全な母をある日いきなり亡くしました。 時間がたつにつれて、 なんだか薄れていくようでとても悲しいです。 いつか母の声を忘れてしまうんじゃないか、 顔を忘れてしまうんじゃないか、 笑い声を忘れてしまうんじゃないか いろいろ考えますが、写真を見ればすぐに思い出します。 なんだか、本当にまとまりがないですね。 ごめんなさい。 ただ、大人の小論文教室を読んでいたら 母への様々な気持ちを綴りたくなってしまいました。 うーん、とにかく私にとって母は 世界一の母であったということです。 あ、今思い出した。 ある日、1年くらいたったくらいでしょうか。 ふと、私がこの世の中で一番愛していたのは、 一番好きだったのは母だったな と思ったことがありました。 その時はとても悲しかったです。 でも、たぶん生きていたときは そんなこと絶対思わなかっただろうし、 そんなことも考えもしなかったんだろうなって思います。 (石黒) <子の役目> 先週の投稿のうさぎモエコさんの文章を読んで、 私と全く同じだ!と思いました。 私も2年前樋口さんの「手紙」を聞いて以来、 私の両親に対する気持ちがものすごく変わりました。 そこで、私が父母の老いを引き受ける覚悟ができました。 それを私に決意させたものは、最後の方にある一文です。 「あなたの人生の始まりに 私がしっかりと付き添ったように、 私の人生の終わりに少しだけつきそってほしい」 そうだ、母のたった一つの願いは、そこなんだろうな、 私が生まれた時に付き添ってくれた母の最後に、 私が付き添うことは至極当然の事だと腑に落ちました。 母の最後には必ずそばにいよう、そう心に決めました。 それから2年後、母はそれを知ってか知らずか、 私を産んでくれたその日に旅立って行きました。 人はこうやって死んで行くのだという事を見せてくれた母、 人をこの世に送り出すことが母親の役目であれば、 この世から送り出すことは子どもの役目である事を 母は教えてくれたんだと思っています。 そして自分の面倒をみる事が難しくなった父。 母がいなくなった今、 母の代わりに父を引き受けるのは私だと、 母の代わりにはならないけれど、 父の最後にも付き添っていこうと思います。 (潔子) <大切な人との関係性に生きる私> 私も連休に実家に帰りました。 私は現在大学生で、 祖父母はかなりの高齢ながら元気にしています。 祖母は体は元気ですがここ数年のうちに痴呆が進み、 また高齢のため日常の様々なことを 次第にやらなくなってきています。 例えば、お風呂に入ること、料理をすること、 得意だった裁縫。 母は、実の母親の老いを なかなか受け入れることが出来ないのだと思います、 祖母の世話をしながらいつも複雑な気持ちを 苛立ちとして表現しています。 私はこれまで、そうした家族の事柄に、 関わっているふりをしながら 関わってきませんでした。 両親の言葉に甘え、自分の希望のままに実家から離れ、 母の愚痴を聞きながらも、 どこかでは自分に関係の薄いことだと感じていました。 今回の帰省で、祖母の髪の毛を洗いました。 姉と一緒に祖母をなだめてお風呂場に連れて行き、 シャワーを使って髪を洗い、乾かしました。 祖母は、母に対する時とは違い、 子供のように喜んでいました。 この経験を通じて、私の心に大きな変化があったのです。 上手く表現できませんが、自分が 祖父母ー両親ー姉と私ーそして未来の私たちの子供 という大きな流れの中で生かされていること、 自分が家族の一員として、 それぞれとの関係性の中で生きていること。 そうしたことに気付かされたのです。 私は現在就職活動をしており、悩んだり迷ったりしながら 自分の人生について考える日々を過ごしています。 小さな小さなことにつまずきながら、 漠然とした不安に苛まれています。 でも、祖母との時間の中で気がついたのは、 そうした「会社」とか「肩書き」とか小さなもの以前に、 私は様々な関係性の中で、 一人の私として存在しているのだということ。 「死」に直面した時、色々なものを取り去って残るものは、 個人としての私、 家族や大切な人との関係の中に生きた私であるということ。 そうしたことに、気がついたのだと思います。 本当に大切なものを忘れないで生きていきたい、 そう思いました。 (きぬ) 読者のメールから、 「愛」を感じた。 じーんと胸がいっぱいになって涙が出た。 「愛」、ことばにするとうすっぺらいけど、 でも、ある。 お母さまが亡くなる日の朝、 まゆママさんが、ふりかえって、大好きなうどんをすする お母さまの小さな背中をみたときに。 その朝、お母さまがまゆママさんに めずらしく話しかけていらっしゃったときに。 聡子さんが、「あたし、明日も生きようとしているんだ」と 気づいたときに。 石黒さんが、この地球で、自分の人生で 一番愛した人に気づいたときに。 潔子さんが、お母さまのただ1つのお願いの、 その声なき声を理解し、受け入れたときに。 きぬさんが、 死に直面したとき、私は、 所属でも、立場でもなく、 それらを取り去った個人としての私である。 大切な人々との関係性の中に生きる私である。 と言ったときに。 おばあさまの髪を洗いながら、 おばあさま、おかあさま、きぬさん、その子どもさんへ 限られた1人の人間の人生が、 大きな流れのなかにあると悟ったときに。 短い人生、なにを大事にするべきか? 正解はなくても、 その「ひとつ」は、「こども」であったり、 「仕事」であったり、「自分らしくあること」であったり、 人それぞれでも、 選んだ「ひとつ」には、愛がある。 そう気づかされた。 もはや、自分にとって仕事は愛だ、ということにも。 「文章表現」の仕事、 自らも言葉で表現し、 また、言葉の産婆として、 人の表現力を生かし伸ばすことは、 私にとっての「ひとつ」。 最後に、答えのない「ひとつ」を、 あなたが自由に選んでいいのだと、 だれにも左右されず、 あなた自身が選ぶべきなんだと、 背中を押してくれる、このおたよりを紹介して きょうは、終わりたい。 <あなたの後姿を見せてあげて> 私は、町の診療所に20数年間勤めています。 4世代のご家族の事情を知る機会もありました。 二十歳の娘がおり、 現在46歳になった私自身は父を二十歳に亡くし、 自活は難しいと思っていた母が、なんとかこれまで ひとり住まいしてきており、 それなりに日々暮らしています。 そして、今思うのは、 いつの時代も親が教えてくれることの多さです。 そして、言葉で伝えるだけでなく、 子にとっては辛いですが、 弱くなった親を子に見せているんだとも思います。 どんな風に対応していけるか、 神様に試されている気もします。 何歳になっても親は子に苦労を味合わせたくない。 すべての子をもつ親が思うことです。 ショックを受けた子以上につらいのは、親かもしれません。 親が100歳になって、子が75歳になっても、 親は子の心配をします。 せっかく気付く機会を与えられたのだから 子は時間をかけて受け入れて、 自分の生活に出来るだけ無理しないよう 今現状の最善を尽くして 人として、家族として、前向きに考えて生きてほしい。 その後ろ姿を子だったり、甥や姪だったり、 身近の仕事仲間だったりと まわりの人に影響を与えていきます。 そして親は自分の子がどんな選択をしようと かならず受け入れてくれます。 (Chi-ko.m) |
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2011-06-01-WED
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