おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson543 おかんの昼ごはん ― 5.課題 “子にとって、 親の「老い」や「死」は、 親から受ける、最後の「教育」なんだ” と、読者の「あおい27」さんからのメールにあり、 私も、ほんとうにそう思う。 最後にして最大のレッスン。 そして子は、このレッスンから それぞれ自分に相応しい「課題」を与えられる。 読者の方々は、 親の老いや死から、それぞれ、 どんな「課題」を受け取ったのか? さっそく読者のおたよりを 見ていこう。 <これを読むときだけは> 野球でいうところの、タイムリーヒットです。 「おかんの昼ごはん」 はじめは、自分でも訳がわからないほど 涙が止まりませんでした。 翌朝は案の定、目が腫れて困りました。でも これを読むときだけは思いっきり泣くことにしました。 泣くだけ泣いたら、 気持ちがリセットできます。 土日の休み、月いちペースで、 実家へ帰り家事を手伝うようになってから、 4年ほど経ちました。 当たり前ですが、両親の老いはすすみ、 本格的な介護が必要になってきました。 離れて暮らしていますが、 結婚はしていませんので風当たり強く‥‥ 仕事を辞めて実家に戻るべきか、 いやいや、 仕事を辞めれば生活の基盤を失うことになり、 両親を無事におくったあとの自分はどうなるのか。 仕事を続けたいのはわがままなのか。 頭の中、混乱しています。 そんなこんなですが、 今日も思いっきり泣けたので、これでよしとします。 (けせら) <今日、仕事がうまくいかなくて> 私は普段「ほぼにち」を拝見しながら ほぼ日にやってくる方は 若い方や小さいお子さんを連れているような年齢の方が 多いのだと思っていました。 私は認知症の母と暮らし始めて5年近くになります。 同じ年代の方がこんなに多くいらっしゃるとは 思っていませんでした。 「おかんの昼ごはん」を読んで 母の様子がおかしいと気がついて頻繁に帰省し 認知症だと確信した時の事を鮮明に思い出しました。 小雨の降る中を呆然と歩いたこと‥‥。 低くなり始めた気温や雨の肌触り。 最初の一年は泣いて暮らしましたが 今は混乱も治まり、 昔の母が帰ったように思う事もあります。 今日、私は 自分の仕事がうまく行かなかった事がわかり かなり落ち込んで布団をかぶって 一時を過ごしてしまいました。 母に 「だめだったのよ」 というと 「私の世話をしているからよね。ごめんね。」 と言い、しばらくして 「いつもいつもありがとう」と表書きをし お金を入れた封筒を渡してくれたのです。 その時は自分の事でいっぱいで ただ ありがとう と流したきりでした。 私も何か書きたい と こうしてパソコンに向かううちに 母の気持ちに気付いて、涙が止まらなくなりました。 お母さん、ありがとう。ごめんね。 お母さんのせいじゃないのよ、ただ私の力不足なんだよ。 毎日の生活に追われていて 気持ちに余裕がなくなっていたみたい。 気がついてよかったです。 おかんの昼ごはん 読めて良かったです。 ありがとうございました。 (あっき) <私のこれからの課題> ここ数週間の皆さんのメールや、 ズーニーさんの体験されたことを読んで、 自分が蓋をして来たことに気付かされたようで、 少し読むのを辛く思いました。 私の母は癌で、私が27歳の時に亡くなりました。 「この子は私が病気になってから、 ちっとも寄り付かない‥‥」 と言われるくらい、 母の傍に居る時間が少なくなってしまいました。 病気から来る何か母を覆っているような気配が、 何だか怖かったせいかもしれません。 母は病に臥せって約半年で他界してしまい、 母が亡くなるまで、 肉親が目の前から居なくなる、 ということが実感出来ず、 その半年後に母の妹である叔母が やはり癌で亡くなる時の方が、 自分の周りから人が亡くなって居なくなるということが 怖くて、ワンワン泣いたのを憶えています。 そして父も3年前にほぼ老衰で亡くなり、 実の両親はこの世から居なくなりました。 父の時には、私は既に結婚しており、 主人の両親が居てくれたので、 実の両親ではないけれど、 「私にはお父さん、お母さんと言える人が居るんだ」 と思いました。 今、私と主人は海外で仕事を見つけ生活をしているので、 1年に1回位の割合でしか、 主人の両親のところへ帰ることが出来ません。 日本で結婚している方でも、遠方に暮らし、 中々親の下へ帰ることが出来ない場合もあるのだし‥‥、 と思っておりましたが、 主人の両親は地方に住んでいることもあり、 子供が傍に住んでないというのは、 中々感情的に受け入れられないようで、 飛行機でしか帰れない場所に住む私たちは、 「親を捨てた子供たち」と思うようで、 一時帰国している時には、毎回泣いたり、 八つ当たりされたりします。 きっと寂しい気持ちがそう言わせているのだろう、 と思いますし、 自分の親が生きていたら、 やっぱりこういう会話になったのかなぁ‥‥とも考えたり。 自分にとっては、 例え主人の両親であったとしても親であり、 「ただいま」と言って帰れる場所は、 今は主人の両親の下であると思う時、 自分の親と同様に これからの老いや死を受け止めていける自分に ならなければいけないんだろうなぁ。 それが、自分の親の老いを受け止める前に亡くしてしまった 私の、これからの課題だなぁ‥‥と思います。 皆さんのように 「受け止めるべき時が来て、否応無く受け入れる」 という状況では無いのかもしれませんが、 人として一つの階段を昇るチャンスを、 主人の両親から貰っている、と思ったりもします。 まだ頭の中での理解でしか有りませんが‥‥。 (kaorihk@香港) <わたしの支え> 「スキヤキ」の作り方、 わたしは父から教えてもらいました。 小学校1年生の冬です。 母方の祖父が、 転んで腰を痛めた事をきっかけに 寝たきりとなってしまい、 仕事が休みの日曜日になると 母は祖父の見舞いと介護に 片道1時間半をかけ実家へ通っていました。 今のわたしと同じように、 母も娘という立場で 自分の親の老いと そう遠くない別れに 向き合っている時期だったのだと 今、分かります。 父は、ニンジンや白菜の切り方を教えてくれ、 私と妹はタマゴを上手に割れるかどうかドキドキしながら 一緒にスキヤキを作り、母の帰りを待ちました。 そんな風にして父は しんしんと降る雪の中 悲しく寂しい気持ちにじっと耐えながら 疲れて帰ってくる母を いたわって慰めていたんだという事も 今になって分かるようになりました。 父は早くに自分の父親を亡くしており、 母の悲しさや寂しさをよく解っていたのだと思います。 母は疲れていたはずなのに、 せつなかったはずなのに、 そんな様子は少しも見せず、 嬉しそうに 「美味しいね。ありがとうね。」 と言いながら スキヤキを食べていました。 いつだったか わたし達はシラタキを切るのをうっかり忘れてしまい、 そんな失敗も笑いながら食べたこともありました。 「家がだんだん近くなると どこからともなくスキヤキの匂いがしてきて “あぁスキヤキを作って待っててくれてるんだなぁ” って思ったよ」と母が後に話してくれました。 どうして涙が出るんだろう。 なんで涙が出てしまうんだろう。 悲しいし、寂しい。 でも、それだけじゃなくて。 そうじゃなくて。 リボン結びが上手に出来なくて 何度も何度も一緒に練習してくれた母。 たくさん絵本を読んでくれた母。 おにぎりを握って よく公園へ遊びに連れて行ってくれた母。 お風呂で歌うように 一緒に1から100まで数えてくれた母。 美味しい五目赤飯や筍ご飯を作ってくれた母。 夜、母とトイレに行くと 「疲れてるってがんに、起こして勘弁ね」と 決まって母は謝ります。 「お母さん、 お母さんは何にも悪い事してないよ。 わたしが小さかった時、 お母さんだって夜中に一緒に トイレに起きてくれたでしょ。 謝る事なんて何にもないよ。 ごめんって言われるより、 サ〜ンのキューって言われた方が嬉しいよ。」 「そんなの、当たり前だがんに。」 「でも、サ〜ンのキューがいい。」 「サ〜ンのキュー。」 >「愛」、ことばにするとうすっぺらいけど、 >でも、ある。 だから、涙が出るんですよね。 悲しくても涙は出るけれど、 『北風と太陽』じゃないけれど、 「愛」にも、 「愛」だから、 涙が出てしまう。 愛され慈しんでもらった記憶や思い出、気持ち。 そういった温かなものが 今のわたしを支えてくれているんだな、 両親は今も与えてくれているんだなと思います。 親からみたら 頼りないだろうし 心配でしょうがないかもしれないけれど、 それは親子だから、幾つになっても。 今のわたしがいちばん恐れるのは 自分の弱さもそうだけれど、 母を悲しませたり 不安にさせてしまうこと。 そして、 一人っきりで人生の終わりを迎えさせてしまうこと。 わたしが握ったおにぎりを 母は「美味しいね」とニコニコ喜んで食べてくれます。 正直言えば 「もう1回でいいから、 母が握ってくれたおにぎりを食べたい」と思う。 けれど、 きっとそれは、もう叶わない。 でも、わたしは母に美味しいおにぎりを握ってあげたい。 背中をさすってあげたり、 今日一日の出来事を話したり、 車いすを押して一緒に散歩したり、 「おはようさん」「おやすみさん」って 言ったり言われたりしたい。 そういったひとつひとつが また わたしの支え、 そして思い出になっていく、のかな、とも思います。 (ムツコ) <出逢いたかった問い> 北海道出身の、 ある女子学生さんが、 「金沢に残ろうかな」 と言った。「金沢っていいところじゃないですか」と。 その学生さんには、現在、彼氏はおらず、 まだ就職希望業種も未定なようです。 一人っ子さんです。 私自身、群馬出身で、 金沢に残って10年になるのですが、 自分の反省も含めて、 心配になる。 彼女の言葉に、問いを投げかけたくなる。 「よく考えて出した結論なの?」 と。同席していた方は、学生さんに 「北海道の親元に帰るように」と はっきり口にしていました。 その方は、結婚で石川に住んでいますが、 実家に帰るにはたぶん10時間とかかかる距離です。 金沢で10年、 結局、私の身近な県外出身者のなかで、 パートナーのいない人で 残っている人は一人だけ。 やりたいことがある、といって残っている後輩が一人だけ。 入社時にいた、県外出身の先輩たちは こちらで結婚した一人をのぞき、 みんないなくなってしまった。 県外出身の大学の同級生も一人いるけれど、 今回の震災をきっかけに帰ることを決めたと。 現在結婚していないのは、私を含めて4人だけ。 でも、私以外の3人は、 金沢・もしくは金沢近郊の出身の方たち。 もちろん、北陸出身の人で、 金沢で働いている人も職場にはいるけれど、 関東出身の私とは、条件が違っていると感じる。 群馬出身の人が、 関東や、東京・埼玉で働き暮らすことと、 北陸の人が金沢で暮らす感覚は近いと思う。 あるいは、群馬出身の人が、 大都市の東京・大阪・名古屋にでて働き、暮らすことと 北陸の人が金沢で暮らす感覚は、まだ近いと思う。 でも、群馬出身の私が金沢で暮すのは、 それらとは、条件が違うと思う。 交通の便など含めて。 就職というのは、場合によっては、 その後の人生で自分の住む土地が 全く変わってしまう大きな「転機」だ。 にもかかわらず、 すごいY字路にいたことに、私が気づいたのは 情けないけれど、ほんとに最近のこと。 群馬に帰らなかった選択を 私は無駄とは思ってないし、 思いたくないし、 残ってよかったと思う。 けれど、違う選択肢をちゃんとちゃんと考えて 結論を出すべきだったと今は思う。 ちゃんと納得して選ぶべきだったと思う。 決断力の無かった私は、 結局恩師が決めてくれた形になった。 ちゃんと選んでなかったから、 根無し草感覚がずっとあったのだと思う。 住めば都、なのだとは思う。 実際、私も10年住むことができたのだから、 その女子学生はしっかりしているし、問題無いだろう。 私がひっかかるのはそこではない。 彼女の人生の地図の中で、 金沢に残ることは、 ほんとにしたいことと連動しているのか? 彼女の望む生き方と金沢は成立するのだろうか? 働き出せば、自由な時間は少ない。 お友達を作るのも、厳しい環境の人もいる。 実家にだって帰りにくくなるかも知れない。 お給料だって、今より不景気が進めば 一人で暮らせても、自由になるお金は 学生時代より少ないかもしれない。 感覚で言えば、男性より女性は、 地元を離れて暮らすことがしにくい気がする。 大事なパートナーがいるなら口出しはしない。 結婚によって、こちらに住む選択をした友人もいるから。 でもその友人には、石川を選ぶ覚悟があった。 学生さんに覚悟を持って選んでほしいのだ。 納得して選んで、金沢ライフを満喫してほしいのだ。 私自身、すごくやりたい仕事でとっても充実していたら こんなことを口にしていないのかも。 でも、現実は厳しくて、いい会社ではあるけれど、 代わりはあると感じている。 自分で一人暮らしを選んだのだから、 自分の身は自分で護るよう気をつけている。 経済的に自立を意識して、わずかながら貯金もしたり。 でも、石川にいて引っかかるのは、 これから先、 両親・家族に何かあったときに、 お金が無いから帰れない、ということにならないか? それだけは避けたいと思っている。 10年後も一人で金沢にはいたいと思えないのだ。 素敵なパートナーができて結婚してしまうとなれば 別なのですが。 私自身が金沢に残った理由は、大きく4つ。 ・親の近くには住めないと感じていた。 ・見届けたい、始まったばかりの ボランティア団体があった。 ・パートナーがいた。 ・断れない就職先が決まってしまった。 パートナーはいたけれど、 覚悟なんて無かった。 結婚を考えなかったわけではないけれど、 続く感覚があったかというと、少なかったと思う。 断れない就職先が無くて、 ちゃんとちゃんと考えたとき 金沢を私は選んだのだろうか? 悲しい気がするけれど、選ばなかったかも知れない。 結果論だから、なんとも言えないけれど。 恩師に決めてもらってほんとに目先の楽をしたのだと思う。 どっちに転んでいたとしても、 ほんとに大事な選択をしなかったと苦い後悔がある。 10年経ったいま、群馬のことはほとんどわからなくて、 石川の言葉が身についている私。 学生さんがちゃんと未来を想像して、 その上で選択をしてほしいのだとよくわかった ちゃんとした答えは、 私自身出し切ったわけではないけれど、 現在、関東の方との縁を求めて私は婚活中です。 (金沢にいた10年があるから、今があるのですが。) 以下の問いに、学生時代に出会えなかったのは残念です。 自由に選べないと、どこか感じていた自分もいましたが。 >短い人生、なにを大事にするべきか? >答えのない「ひとつ」を、 >あなたが自由に選んでいいのだ。 ズーニーさん、大事な問いをありがとうございました。 (hotaru) 「選ぶ勇気」が湧いてきた。 母の老いを目の当たりにした日から、 私の内面に起こった変化を一言でいうと上記になる。 自分に許されている時間が思ったよりずっと少ないと 知ったとき、私は「踏み込んで選ぶ」ようになった。 たとえば、会いたい人に会いにいくか、やめるか? 以前は、自分がどう思われるか? きらわれないか? それによって傷つかないか? とネガティブなシュミレーションをし、 ひっこんでしまうことも多かった。 でもあの日以来、たとえば、 「変に思われる可能性もある。 きらわれるかもしれないし、傷つくかもしれない。 でも、そのリスクを引き受けて、やろう!」 と、強くなった自分がいる。 生き急いでいるのともちがうし、 たんに積極的になったというのともちがう。 勇気を出した結果、「しない」選択もあるからだ。 選択によって、得るものと失うものが、 以前より、濃く、はっきり見えるようになった。 そのため、選ぶのに、以前より、 ぐっと勇気が要るようになった。 そして、勇気が出るようになった。 私たちは、猶予があると思うと、 知らず知らず、選ぶことを回避する。 でも、間違った選択をするよりも、 「選ばない」ことのほうが、むしろ、 自分に課せられたものにそむく行為ではないか? hotaruさんは、そんななげかけをしている。 大切な人が授けてくれる、 最後のレッスン、 そこから、あなたに課せられたものはなんだろう? 「自分に課せられたもの」を 充分に読み解き、受けて立ち、一歩踏み出した、 読者の、このおたよりを紹介して、きょうは終わりたい。 <課せられたもの> 26歳の女性で、らいむすとーんと申します。 「おかんの昼ごはん」、 もう、ものすごく、ぶんぶん揺さぶられています。 自分の親の老いと死を、 どう受け入れたらいいのか。 そして、 自分の死を、自分自身で、 どう受け入れるべきなのか。 これが、一人一人の人間に必ず課せられたもの。 これを知ったとき、なぜだか私は、 すうっと、自分の深いところまで 息を吸えたような感覚になりました。 これまでずっと、ごく普通に、健康に 生きてくることができましたが、 そのぶんいつも、不安に怯えている自分がいた気がします。 いつも、何かがこわかった。 その正体が、やっとわかった気がしました。 いずれ誰にも、死を迎えるときが必ず来る。 祖父母にも、両親にも、私にも来る。 私はそれを受け入れていけるのだろうか、 私はずっと、それが恐かったんですね。 まるでアメーバのように、掴めない不安が、 自分の意識の底にありましたが、 それが初めて形を持って、自己紹介してきてくれた。 変な表現かもしれませんが、そんなふうに感じました。 不安自体がなくならなくても、 その正体が少しわかるだけで、 かなり、落ち着いた気持ちになれました。 そして、読者の方の色々なメールを読みながら、 自分は自分の答えを、 これからずっと探しながら歩いていくんだ、 と思いました。 現在、私の両親が、父方、母方それぞれのことで、 悩みながら、格闘しています。 父方では、 認知症を患った祖父と、 もともと祖父とあまり仲が良くなく、頑固な祖母。 祖父の世話の手伝いをしながら、 祖母の愚痴に対応する父。 自分の親が、少しずつ、 でも確実に老いていく様子を目の当たりにしている父は、 今どんな気持ちでいるのか。 気づけば父も、以前に比べかなり、白髪が増えました。 私も、ずっと元気だと思っていた祖父母の老いに、 戸惑って、真っ正面から向き合えていなかったと、 気づかされました。 そして、もう一つ、 ずっと受け入れられぬまま保留にしてきたことがあります。 障害を持つ兄のことです。 読者の方の中に、 障害をもつご家族がいる方がいらっしゃいました。 その方のメールを読んで、 じぶんは、どうだ? と、すごく色々考えました。 じつは6年前に、印象深い出来事がありました。 まだ学生で、実家にいた時のこと。 軽い知的障害を持つ兄は、 身の回りのことは自分ででき、 一人で公園に遊びに行ったりもします。 その日も近所の公園に遊びに行っていましたが、 家に警察の方から連絡が来たのです。 一人で遊んでいた兄は、 ちょっとした言動から不審者と思われ、 通報され、警察の方が駆け付けたのでした。 特に何があったわけでもないので、 誰か保護者の方、迎えに来ていただけますか、 と言われましたが、 たまたま両親は不在。 私は妹ですが大丈夫ですか、と聞くと、 歳をたずねられ。 私はその時、くしくも数日前に20歳になっていました。 それを言うと、 「あぁ、20歳になっているなら大丈夫。 保護者になれますから。迎えに来てください」 と言われました。 あの時の、頭がぶん殴られたような感覚、 体中がカーッと熱くなる感覚は、 それまで生きてきて初めてのものでした。 あぁ、私は、もう兄の、保護者になる歳になったのだと。 お酒が飲める、選挙に投票に行ける、 そういうことよりも、何よりも強く、 はたち、になることの意味を感じた瞬間でした。 泣きじゃくりながら兄を迎えにいった私は、 おまわりさんの前で、泣きじゃくりながら 兄に八つ当たりしてしまいました。 兄が不審者に間違われたショックもありましたが、 このはたちのショック、が大きかったと思います。 私はいつか、この人のただ一人の、 血の繋がった保護者になる。 まだ学生で、実家でノホホンと暮らしていた私が、 衝撃的に気づいた日でした。 思えば小学6年生くらいから、その認識はありました。 兄は知的には小学3年生くらい。 私はとっくに、その兄を追い越していた。 でも、その日まで、はっきり、 日の下で感じたことはなかった。 その日のことを、今回大きく思い出しています。 あの日以来、認識がはっきりしたとはいえ、 自分の就職やら、なんやらを楯に、 兄のことはまた保留にしていた自分がいます。 就職して一人暮らしを始め、兄と会う機会が減り、 深く考えることも減っていました。 今回、久しぶりに、この気持ち、 自分が持つ課題と対持する機会に恵まれた、 と感じています。 4歳上の兄は、近く30歳を迎えます。 プレゼント、何にしようかな。今、考えているところです。 これからもよろしくね。こんな気持ちを込めて贈ろう。 そう思っています。 実家の壁板には一カ所、 殴って凹みができたところを直したあとがあります。 母によると、兄に障害があることがわかった日、 父が殴ったものなんだそうです。 今の私と、そう歳が変わらなかったころの両親。 あぁ、不安だったんだな。恐かったんだな。 今、それを一層強く感じています。 そして昨秋。 祖父母宅の壁にも一カ所、新しい凹みができていました。 祖父の介護のストレスで、父が殴ったものでした。 祖母が、お父さんには言うなよ、 といいながら教えてくれました。 父の、闘いの証。 あぁ、今また父は、苦しみながら闘っているんだ。 そう思いました。 その背中を、私も私なりに、追っていく。 そう、感じています。 まずは、自己紹介をしてくれた不安の正体に、 私も、自己紹介をすることから、はじめようと思います。 私は今まで、どんなふうに生きてきて、 これからどう生きていきたいのか。 何を大切に、生きていきたいのか。 自問自答して。 (らいむすとーん) |
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2011-06-08-WED
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