YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson545
    おかんの昼ごはん ― 7.読者の選択



編集者時代の後輩が、
ひさびさに連絡をとりあったら、
子どもを授かっていた。

ものすごくデキル編集者だった彼女が、
あっさり会社を辞めてしまったのは、

だんなさんのおかあさまの介護が大きかった。

「あんなに仕事ができる人が、
 なぜ、どうして、」と、
私はその才能が、
最前線から家庭へと退いていくのが
惜しくてたまらなかった。

何年かぶりに近況をきくと、
いまでは、そのお義母さまも亡くなられ、
ちょうど亡くなられた一月後に子どもを宿したと。

「ひきかえ」

決して早くはない妊娠・出産だったので、
運命的なものを感じた。
彼女が編集の最前線を捨てて
選んだものはこれだったのだと、つまり、

家族の愛。

考えたら、自分など、
自分の親の老いでめいっぱいなのに、
彼女や、あとで紹介する読者のカズママさんは、
「だんなさんのご家族の老い」を引き受けている。

彼女は、あのずば抜けたセンスでおもしろいと感じ、
自ら介護に入ったのだと思う。
不謹慎な意味でのおもしろさではなく、
人間の本質的なおもしろさ。

そして、あふれるクリエイティビティを
介護に炸裂させたのだと思う。

そして、宝物のような愛の結晶を授かった。

命を大切に介護し、そして、新しい命に恵まれた。

きょうは、先週の「選択」を受けて、
さらに、読者が「選んだもの」を見ていこう。


<失ったことは諦めても、生きることは諦めないで>

私の両親も70代と80代。
まだまだ元気とはいえ、体力面での衰えは否めません。
車の運転も危うくなってきたし、お酒の量も減ってきたし。

でも、もっと急激な変化に戸惑っている弟がいます。

彼は2年前の夏に癌に罹患していることが判明しました。
すでに大腸、肝臓、肺に転移しており、
余命1年程度と言われたのですが、
大腸と肝臓の手術をし、
人口肛門になりながらも2年目の夏を越しました。

けれど、肺の手術に備えた抗癌剤の投与の効果が見られず、
昨年末に、余命半年程度と宣告されました。

それでも、まだ、通常の生活は可能でした。
そして、先月末には、彼の運転する車で、
両親と私の4人で一泊旅行にも行ってきました。

ですが、その1週間後。
突然、彼の下半身は動かなくなってしまいました。
癌が脊髄に転移しており、
下半身が麻痺してしまったそうです。

今は寝返りもできず、
ホスピスのベッドに寝たきり状態です。

この2年間、幾度となく、くじけそうになっても、
生きる希望を捨てずに頑張ってきた彼も、

「さすがに今回は、いきなりだったからなぁ。
 ショックでかいよ」

と言っています。
そして、なんとか一人で車椅子へ
移乗できるようにならないか。
そのための努力をしたい。と言っています。

が、99%、その望みは叶わないと思います。

彼はもう、この先、
自分の思うがままに移動することはできない。
誰かに車椅子に乗せてもらい、
誰かに車椅子を押してもらうことでしか、
移動することはできない。

だとしたら。
残り数ヶ月の人生の中で、
できないことに拘って、辛い時間を過ごすのではなく、
できることに目を向けて、
少しでも楽しい時間を過ごして欲しい。

失ってしまったことには固執せず、潔く諦めても、
生きることは、諦めないでいて欲しい。

私もいつか、そんなに遠くない未来に、
老衰か病気か、要因は分からないけれど、

「今できることができなくなく日」がやってくる。

その時に、どんな気持ちになるのかは、
その時になってみないと分かりませんが、
願わくば、心穏やかな日々を過ごしたいと思います。
(M)


<青春のうちにやるべきことは?>

私はこの春から一人暮らしを始めた大学生です。
おかんの昼ごはんを読んで
叫ぶほどに泣きました。

私は、まだ子供で「青春」の中にいます。

そして、自分の命より大事だと思っている、
親兄弟と離れて暮らすという
選択をしました。

祖父が認知症になり、変わってしまったとき
初めて老いを感じました。
でも、次第に頼もしかった祖父を忘れてしまい
祖父の存在をうっとおしく思うようになりました。
祖父がいなければ、母も楽になるのに‥‥
とまで思ってしまう。
それは、結局自分が甘えたかっただけで
子供だという証拠でした。

今は寝たきりの祖父を
母が中心となって介護しています。
一緒に介護する祖母の愚痴を聞きながら、
年の離れた兄弟の世話もしながら
大変だろうと思います。

それでも私は、母に甘えて
「毎日一人でつらい」とメールしています。
母は「大丈夫」と笑顔の絵文字をつけて
毎回返事を送ってくれます。

私は父や兄弟の前では強がってしまい
母の前でしか弱音を吐けません。

月に1、2度来てくれる母の姿を見る度、
ほんの少しずつ感じる老いに不安になりながらも
気づかないふりをして、自分の苦しさを優先して
また、メールをしてしまいます。

まだ子供でいます。
離れて暮らす選択をしたのに、
まだ一歩踏み出せずにいます。

それでも、老いはやってくる

その不安にただただ押しつぶされそうになって
涙が出ました。

いつか私も「大人」になって
老いを受け止めなければならない。
そう考えたとき、今のまだ子供な私に必要なことは
何だろうかと考えています。
(surano)


<将来をよくするための選択>

一連のおかんの昼ごはんを読んで、
『老い』という究極の問題に直面しようと思い、
おたよりします。

私は毎回、読者のみなさんに感心しきりでいます。
私は、あまりその事について考えないように、
薄い蓋をかぶせているのがわかるからです。
でも、みなさんの覚悟に刺激され、
そう遠くはない未来の事をきちんと考えようと思いました。

私は結婚して、夫の家族と同居しています。
以前おたよりさせていただいたんですが、
障害をもった義兄のため、という理由もあり、
同居を選びました。

しかしこの1年、子育てをしていたこともあり、
特に何も考えずに暮らしてきました。

でも、最近、義父が70歳の誕生日を迎えたことを機に、
今まで義父がやってきた義兄のお世話を
夫や義姉、私にも少しずつ引き継ぐようになりました。

義父曰く、10年後、生きていられるかわからないから、
だそうです。

私は、それを考えて、少し怖くなりました。
義父がいなくなるかもしれない悲しさへの不安もですが、
義父が抱えてきたものを受け取る不安。
私に抱えきれるだろうか、と。

でもそれは、
将来自分たちが困らないでよくするための不安なので、
きちんと考えていきたいです。
義父もそれと同じ気持ちなのだとわかります。

この家の嫁として、覚悟と自信をもつには
まだまだ時間がかかりそうですが、
目を背けずにまずはどう関わり、暮らしていくか、
近い将来を視野に入れながら
イメージしていきたいと思います。
(カズママ)


<罪悪感や常識から出た答え>

私なりに、「実家近くに帰ろう」と
考えてだしていた答えのつもりだったけれど、
それは罪悪感や、勝手な常識感からのものだったと。

先週の「帰ってはいけない」という読者さんからの言葉に
ドキッとしました。

同じ答えをこの先出す可能性は高いけれど、
「親の為に帰る」のではなく
「自分が戻りたくて、戻った!」と
まっすぐ言えるようになりたいと思います。
(hotaru)


<ずっとそばにいるという選択>

祖母を看ています。
変化を目の前にしています。

ほんとうに、一年、いや、半年前と違う祖母。

部屋に入り、「ばあちゃん、ばあちゃん」と泣いたり、
「わたしの命をばあちゃんにあげたい、
 一緒に天国に行こう、
 ずっと一緒にいよう、いたいよ」と悲しくなったり。

仕事にはフルで出ていますので、
帰ってくれば家事が待っています。

いらいらすることも、どうして? と思うこともあります。

でも、不自由になってきた祖母を一人にしてはいけない。
輪から外してはいけない。
さみしい思いをさせたくない。
一人じゃないと感じられるくらいそばにいたい。

いつかまで。
いつかはやってくるのでしょう。

その日はやってくるだろうと、こう書くのも
何かの力が働いてしまうようで怖いですが、
その日の前に、してやりたいことが、返したいことが
たくさんあって。後悔も減らしたいですし。

祖母に全部を注ぐとなれば、
置いてけぼりになる自分がいる。

世間はそれをばかにしたかのように、
「いい年にもなって、結婚もしないで、
 実家を出もしないで」という。

同世代は自分の代を築きはじめている。

キャリアを積んだり、
介助が必要な家族がいようと離れている人もいる。
わたしは、でも、離れられない。

ああ、書いていて、
自分はやっぱりそばにいたいんだと分かりました。
「また明日ね、おやすみ」をずっと繰り返したい。

さみしい人にさらにさみしい思いをさせたくないんです。
わたしが、さみしいから。

そばにいるよ、手足になるよ、目にもなるよ、耳にもなる。
そばにわたしがいるよ。

そういうふうに祖母には思って欲しい。
ときどき感情が乱れるけれど、
こういうかたちの家族でいられて、わたし、しあわせです。
(あや)


<仕事を辞めないという選択>

介護はとにかく人手が必要です。
特に女手です。
娘、息子の嫁、はいやおうなく
時間のやりくりに迫られます。

可能な限り自宅で過ごしたい、
老いた姿を他人にさらしたくない、
第三者のヘルパーさんに頼むことへの拒否感は
根強いものがあります。
これがまだまだ実情ではないでしょうか。

4年前、退院した母は歩くのがやっとでした。
70歳を過ぎての入院生活は
これほどまでに体力を奪ってしまうのかと
驚愕したものです。
姉と父からは、

「仕事を辞めて戻ってきてくれないか」

と言われました。
母はそれを言わずにいてくれました。
私は、

「月いち、土日の休みと、
 祝日連休にも帰れるようにするから。」
と仕事を続ける選択をしました。(一度目)

このときはまだ皆に少しばかり気持ちに
余裕があったと思います。
叔母(母の10歳下の妹)が支えてくれたのも
大変ありがたかったです。

ところがこの3月、叔母は突然この世を去りました。
「ちょっと咳がでるのよ」とは聞いていましたが、
突然の大量出血によるショック死という医師の診断でした。
なんとも信じがたい悲しい出来事であり、
とりわけ母にはこたえたようです。

みるみる気力が衰え、
弱音をかまわず言うようになりました。
理性ははたらかなくなりました。

「仕事を辞めて戻ってきてくれないか」
「年金があるし、貯金もあるから‥‥」

とうとう、ついに、母が言いました。

私はガツンとパンチをくらった気分でした。
揺さぶられました。
悩んで泣いて考えて、

これまで通り、仕事を続ける選択をしました。(二度目)

ぱっとしない事務職ですが、
それでも、私の人生も生きなきゃならないのです。
そばにいてあげられない、申し訳ない気持ちと一緒にです。

親の介護はとてつもない葛藤が伴います。
綾戸智恵さんの白髪にびっくりしましたが、
私も目立ってきました。

母も父も望まぬ長生き、老衰、認知症に向き合ってます。
なんとか気持ちを支えていければと思っています。
(けせら)



<できなくなっていく自分を生き抜く勇気>

「年寄りは二度わらしだから。」
という、年寄りの言葉は深いと思います。

老化について、
先週、デクレッシェンドという表現がありました、
発達上は赤ん坊の状態に還っていくように思います。
無から生、そして無に還る。

迷子になって泣いている子どもを見かけたら、
子どもだからしかたないよなあ、と思いますよね。
赤ちゃんに認知能力がないとか、
歩行が出来ないとか、排泄が自立していないとか、
食事が一人で出来ないとか、
言いませんよね。
当たり前なんです。

経験はあるが、子どもに還っていくことが
人生後半なのだと思う。

ただ、子どもは「できる」が増えていくけれど、
年寄りは「できない」が増えていきます。
でも、「当たり前」なんです。きっと。

でも、「できない」状態になった自分を
生き抜く勇気や知恵を、
私達は学ばなければならないと思います。

たとえ、見え透いたうそや悪態であったとしても、
問題行動といわれる、
「周囲が迷惑している状況」があったとしても。

できなくなっていく自分への挑戦。
自分もまた通る道。

それはたぶん文化を剥ぎ取った、
生物としての人間になっていく過程。

そこに自然や生き物の哀しさを感じるし、
逆に生きているうちに楽しいこと、
やりたいことをさせてあげようという気にもなります。

ユーモア、音楽、いいにおい、よい肌触り、優しい声。
これらは赤ちゃんも、認知能力が落ちた方でも、
心地よく感じるのではないでしょうか。

施設で暮らす夫の母、

デクレッシェンドに抗い、
「わらし」に還りつつある

新しい自分に立ち向かっていく勇気を
私達に見せて下さい。

その生き様に頭が下がります。希望があります。
(すべてはオーライ)


<父から学びたかったこと>

父は、私が大学生の時、突然に亡くなりました。

助けられたかもしれないという状況でした。
人生が一変しました。
親を亡くしたというよりも、
心の友を亡くしたという思いが強かったです。

途方もない喪失感と戦いました。

一方で、不思議な解放感がありました。

喪失感と解放感と寂しさと無力感が入り混じった、
初めての感情を味わいました。

仕事中も、仕事が終わっても、経済的にも、
見ている方が頭にくるくらいに、
父は多くを背負っていました。

公私に渡って人の世話ばかりの生活の中で、
不平不満よりも、
目をキラキラさせて人生を楽しんでいる、

そんな父を自由にしてあげることが私の夢でした。

その夢はかないませんでしたが、
いわゆる自由なぞ超越したところで、
父は自由に、自分を生きていたのだと思えます。

父のあのキラキラは何だったのだろうと、
随分考えて生きてきました。

そして今、被災者の方々の目の輝きに気づかされます。
キラキラは、どんな時も、
自分の中にあると気づかされます。

気付けば私も、その先に家族の問題が待っています。
今は解き方が分からない問題もあります。

父のようには到底なれないけれど、
まずは一日をキラキラと生きるところからだと思って、
一日一日に集中しています。

ところで、ズーニーさんは怒りについてどう考えますか?

誰しも色んな怒りと戦っているのだろうと思います。

怒りの内容を愚痴として晴らすことはあっても、
線引きの難しい怒りとどう向き合うか、
そのあたりを父からもっと学びたかったです。

ズーニーさんが、読者の方々が
怒りとどう向き合っているのか、
聞ける機会があればなぁと思い、メールしました。
(Sarah)


<いま、生まれて初めて>

おかんの昼ごはん
毎回心をズキズキいわせながら読んでいます。

わたしはおかんとおとんの『老い』を
受け入れられるのだろうかと思いながら。

その不安は、祖母の老いと死に向き合った時の、
12年たった今でも全く拭いきれない後悔から、
私を強烈に襲っています。

祖母が亡くなったのは大学1年生の時。

共働きだった両親の代わりに、
保育所のお迎えからずっと面倒をみてもらいました。

すぐ近くに住んでいたので、
中学や高校になっても頼りっぱなしでした。

しっかりしすぎていて、几帳面で、洋裁が得意で、
80を過ぎてもバス停まで
走っていくような元気な祖母でした。

そんな祖母に病気が見つかり、余命がわかったとき
私は大泣きしました。

元気な姿しかしらない祖母が
死に向かっていくことを告げられ
信じられない気持ちでいっぱいになりました。

結局は余命を大幅に越して生きてくれた祖母ですが、
最後の半年は、ボケがはじまり、
寝たきりになっていくという、
まさに『老い』がどんどん進んでいく様子が
手にとるようにわかりました。

寝たきりになったときに、
母に祖母の様子をみにいくようにといわれ、
ベッドの側に何度か行ったことがあります。

同居していた伯母に、
ご飯の介助や体を拭いてあげてといわれたのですが、

私はどうしても目の前に寝ている祖母が、
自分の知っている元気な祖母だと直視できず、

嫌々ご飯を口元に持っていき、体を拭いていました。

そして、きちんと話しかけることもできず、
毎回逃げるように家に帰ってきました。

そして祖母は死にました。

遺体を見て、お葬式をして沢山泣き、
この世からいなくなってしまったことは受け入れました。

ただ、それからずうっと、誰にも言えない
後悔の気持ちが心にあります。

私は祖母の『老い』を受け入れなかった。
という後悔の気持ちです。

祖母の老いが進む様子がわかるようになってから、
私はずっと目を背けていたのです。

あんなにお世話になったのに、
あんなに好きだったのに、
逃げたまま、
祖母はいなくなってしまったのです。

この気持ちはあまりにも深く黒いもので、
今まで家族にも誰にも話せませんでした。

ただ悪いことをしてしまったという気持ちを
心にしまっておくだけでした。

でも、今回のこの「おかんの昼ごはん」で
ズーニーさんや多くの人の想いを沢山読んで、
受け入れられないのは、
みんな経験することなんだと感じました。

いままで取り出し、思い返すことさえ避けていた
この気持ちを、初めて受け入れました。

このメールで私ははじめてこの時の思いを、
自分の外に出しました。

書き終えて、鼻の奥はツンとしてますが、
ちょっとだけ心が軽くなっています。

これから迎えるであろう、おかんとおとんの『老い』には、
この経験を教訓としたいところですが、
今のところまだ準備はできていません。

いつかまたくるその日。
黒い想いを残すことだけはしたくないと思っています。
(しま子)



Sarahさんの
「怒りにどう立ち向かうか?」という問い、

suranoさんの
いつか自分も「大人」になって
老いを受け止めなければならない。
そう考えたとき、いまのまだ「青春」のうちに
自分に必要なことはなんだろうか?
という問いの、

答えになっているかどうか、

「怒りにどう立ち向かうか?」
と問われたら、
「私は表現します。」
と答えるだろう。

どうしようもない怒りや、哀しみが押し寄せたとき、
私には、「書く」という自己表現の手段がある。

そして、これが「青春」のうちに得た
一生の相棒である。

怒りも、哀しみも、
私は、文章に書き表し、
自己を解放し、
読む人に伝え、

読む人からも、
それまで出すに出せなかった想いを引き出し、
通じ合う、ということを、
やってきた。

「書く」という自己表現の手段を持たなかったら、
いまごろ自分の、
出せない想いはどうなっていたか、
そう考えると、恐ろしいものがある。

自己表現の手段は、文章には限らない。

自分の想いを表現し、解放する手段に
出逢っておくこと、
それをコツコツコツコツ、ずーっと磨き続けていること。

これが、きっと「選択の分母」となり、
辛く苦しい選択のときも、自分を支えてきたと思う。

ばあさんになっても、私は、書き続けたい。

「書く」ことが、
できなくなっていく日々なっても、
自分を生き抜く勇気をくれると信じたい。

これが私が選んだものだ。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-06-22-WED
YAMADA
戻る