おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson546 本当の「ワタシ」 よく人は、 「本当の自分を、だれもわかってくれない」 「本当の自分をとりもどしたい」 などと言う。 でも、「本当の自分」ってなんだろう? たとえば、酔って記憶のない自分、 あれは「だれ」なんだろう? 数年前の朝、 目覚めると 昨夜の記憶がまったくない。 ハッ! とまわりをみる。 財布も、ケータイも、バッグごと見あたらない。 友人夫妻と、ライブ終わりで かなりたのしくお酒を飲んだ‥‥、までは覚えている。 でもそのあと、バン! と記憶が飛んで、 朝、目覚めると、 いつもとはまったく違うところにふとんを敷いていた。 玄関にいくと、 いつもそんなところに絶対置かないのに、 脱いだブーツの横に、 バッグも、財布も、携帯も、持ち物はひととおりあった。 どうやって家に帰ったのか? 電車か? タクシーか? 友人夫妻に送られたのか? 友人の証言によると、 わたしは、はた目にはけっこうしっかりして、 ひとりでタクシーに乗って帰ったらしい。 その証言どおり、 財布のなかを見ると、自分では覚えのない、 タクシーのレシートが1枚、くしゃっ、と入っていた。 自分ではまったく記憶がないのに、 自分はちゃんと家に帰っている。 じゃあ、だれがタクシーをひろい? だれが、複雑な道案内をし? だれが、お金を払い? だれが、いつもとはぜんぜんちがうところに 布団をしいた??? 酔って記憶が無いとき、 生き、動いて、しゃべっている「ワタシ」、 いったい、あれは、だれ? それがずーっと疑問だった。 でも先日、「ワタシ」の正体を知る出来事があった。 先日、酩酊して、 「死にたい」とぽろぽろ泣くワタシがいた。 誓って言うが、 私は、「死にたい」などと思ったことはない。 眠れないほどツラく、 ごはんがのどを通らないくらい苦しいことはある。 でも、決して、死にたいなどと考えず、 一人じっと痛みに耐え、 きわめて前向きに生きてきたのだ。 それが、酩酊して、死にたいと泣き、 さらに、一緒にいた友人にも、 過去をもちだして、うらみごとを言っていたそうだ。 わたしは、「潔く手放す」のを身上としてきた。 うらみや執着は、あったとしても、 それを捨てるのが、人よりきっぱり!はやい。 むかし友人に、「本当に善人だ」といわれたことがある。 友人同士もめたとき、だれの悪口も、ひと言も、 私が言わなかったからだ。 善人、良心、それとおりこして 「巫女か」とさえ言われる私が、 過去を持ち出して、うらみごとを言うとは。 翌日、正気にもどって、 恥ずかしさと、 罪悪感に押しつぶされそうになりながら、 私は考えた。 前向きに生きる自分と、死にたいという自分、 潔く執着を手放す自分と、昔のうらみごとをもちだす自分、 どっちが本当の自分だろう? どっちかが本当だとしたら、 じゃあ、もう片方はなに? 考えて、わかったことがある。 自分のなかには、 死にたいという自分もいれば、 そんなこと絶対考えちゃいけないという自分もいる、 執着する自分もいれば、 潔い自分もいる。 自分とは、色々な側面の集合体だ。 そのままでは、自己矛盾を起こして、 バラバラになるので、 バラバラな自分を、統合し、支配し、 リードする自分がいる。 いわば、「ボスキャラ」だ。 私の、ボスキャラは、 理性というか、ものすごく意志の強いリーダーだ。 執着する自分がいれば、 それをいさめ、出てこぬように抑えつけ続ける。 死にたいという自分がいれば、叱り、却下し、 そもそもそういう気持ちがあってはならないと、 封じ込めて、無かったことにする。 日ごろ、ボスキャラは、 けっこう異分子が多くて、力も強いので、 それらを支配統合するために、 ものすごくがんばっている。 がんばって、がんばって、ひごろくたくたなので、 ボスキャラは、酩酊すると、真っ先に、眠ってしまい、 居なくなる。 ボスキャラがいなくなると、「しめしめ」と、 まっさきに出てくるのは、 ひごろいちばん抑圧されているものだ。 ボスキャラが強ければ強いほど、 日ごろ、抑圧されているものは、 その抑圧も、たえがたくなっている。 だから、ボスキャラの不在に、ここぞとばかり、 顔を出し、暴れだし、おもいっきり自己表現して 「こんなワタシもいるんだぞ」とアピールし、 そして解放され、おさまる。 私は、酩酊して恥をかくこともあるけれど、 いつもいつも理由なく恥をかいているわけではない。 かならず理由がある。 抑圧された「ワタシ」が顔を出すまえには、 かならずとてもつらいことがある。 近年、自分は強くなったので、 つらいことがあっても、ほぼ、人に相談しなくなった。 だれにも言わず、一人で泣き、いや、多くは泣きもせず。 一人落ち込んで、そのうち立ち直る。 けっこう大丈夫だと思う。 「自分は強い」、「大丈夫だ」、と過信していると、 しばらくして忘れたころに、酩酊し、 弱い「ワタシ」が顔をだす。 不思議なことに、ものすごくつらいこと1件につき、 弱い「ワタシ」がでてくるのは、1回のみ。 1回出てきて、自己主張すると、それで解放されるのか、 2度と、その件ででてくることはない。 「抑圧」されたものは、 なにかで表面化し、「解放」されないと、 消えてなくならないということを思い知らされる。 酩酊して、弱いワタシを見せた自分は、 ほんとうに恥で醜態で、はた迷惑このうえない。 迷惑をかけた人には、償わねばならない。 その一方で、もしも酩酊することなく、それゆえ、 弱いワタシを見せる相手も、機会もなかったら、 抑圧されたワタシはどうなっていっただろうとも思う。 そういう抑圧が、 人を傷つけたり、事件に向かうケースもあるのだと そう考えると恐ろしい。 「本当の自分とは何か?」 と問われれば、私はやはり、 自分のいちばん広い面積を統合しリードしている ボスキャラだと思う。 平常心のいま、どう考えても、どこからも、 私には「死にたい」などという気持ちは出てこない。 そっちが本当の自分だとはとても考えられない。 「では、酔って死にたいと泣いた自分はなんなのか?」 と問われれば、それもワタシ、と認めるしかない。 ふだん抑圧され、市民権を認められず、 無き者にされているワタシ。 この抑圧されたワタシを時折、どう解放してやるか が重要だと思う。 弱く醜い自分をさらしても、それでも離れていかない、 家族や友人と、互いに受けとめあうという道がある。 あるいは、弱い自分や醜い自分も、 抑圧する一方ではなく、時折、自覚して、 言葉にして、小出しに解放しておく道もある。 でも、抑圧された自分を出し合う人間的な絆が無かったり、 いても、さらけだせなかったり、 小出しにするもなにも、ボスキャラの統治があまりにも きつすぎて、自覚できない場合はどうしたらいいんだろう。 そういうときは、作品のチカラがあると思う。 たとえば、音楽とか、歌とか、映画とか、小説とか、 そういう表現されたものは、 お酒なんか一滴も飲ませなくても、 酩酊状態をつくり、人を解放する。 とくに、歌は、コミュニケーションスピードが速いと思う。 ふだんボスキャラに統治され、 抑圧され、無きものにされている、弱く醜いワタシ、 歌は、自分のそうした暗部にも、くぐりこみ、 引き出し、そういう気持ちが「ある」のだと知らせ、 認めさせ、そして、解放する。 歳を重ねるごとに、経験を積んで鍛えられ 私のボスキャラは強力になっていっているように思う。 本当の自分=ボスキャラが、 強くなればなるほどに、 歌なり、音楽なり、多様な作品と知り合って 抑圧されている自分を解放する術をこころえていきたい。 |
山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。
2011-06-29-WED
戻る |