おとなの小論文教室。 感じる・考える・伝わる! |
Lesson547 本当の「ワタシ」ー2.自分の知らない自分 自分の知らない自分が、 ひょい、と顔を出し、 自分でもびっくりするようなことがある。 たとえば、こんなとき。 <おまえはだれなんだ?> お酒に強くないので、 あの有名な「記憶をなくす」ということに なったことがないのです。 残念です、ほんとうに。 でも、たいへん緊張して舞い上がっているときに 口から出る「思ってもいないこと」は、 自分でも、何言ってんの!? と思いますね‥‥‥。 おまえはだれなんだ、と。 (さらに、そういうことに限って、ツッコミどころ満載で、 あとから他の人にそこだけ覚えられてたりして‥‥。) (編集者Sさんからのメール) 「知らない自分」に出くわすと、 自分でもびっくりするし、自己像がグラグラする。 でも、これは、私だけじゃないんだ、 多くの人に、よくあることなんだと、 いただいたメールに安堵した。 問題は、 意外な自分が顔を出すこと、 ではない。 「意外な自分が顔を出したとき、 そことどうつきあうか?」 ではないだろうか。 読者の上田さんは言う。 <自分の知らない自分> 私は 「自分の知らない自分」をずっと恐れてきました。 たぶん私は自分をコントロールしたいという気持ちが 強いのだと思うのです。 私は私という王国の王様であり、 王様である私の知らないことが 自分の国の中に存在する(するかもしれない) という状況に耐えられないのです。 その「自分の知らない自分」に いつかクーデターを起こされるんじゃないかと、 不安で仕方がなかったのです。 その不安が私を心理学へと導き、 今の精神科リハビリテーションの仕事へと つながっていったのだと思います。 この仕事に就いて、いま改めて感じるのは ひとは自分が思っているよりも 「自分の知らない自分」をたくさん抱えて生きているのだ ということです。 それでも、どうにかこうにか生きていけるということ。 複数の自分があるからこそ、 そこに可能性が生まれるのだということ。 それが私が患者さんたちから教わったことです。 そう教わって以降、 「自分の知らない自分」を恐れなくなったし、 私自身、楽になりました。 (40才、病院職員 上田さんからのメール) 若いころの私は、 意外な自分に出くわすと、 足元からすくわれ、動揺し、 どっちが本当の自分? あっちか、こっちか、 と悩んだりもした。 上田さんは、 「自分の知らない自分を恐れていた」と言い、 私もとても共感する。そのうえで、 私は、もういっぽうで、 「自分の知らない自分」に あこがれや夢想さえも抱いていた。 少年少女期に、よく、 「ここは自分の居場所じゃない、 ここではないどこかに本当の居場所がある」 と思うように、 「こんなの本当の自分じゃない、 どっかにもっとましな本当の自分が隠れている」と。 意外な自分こそ本当の自分、と 危険をかえりみず、 そっちに身投げするように、なんども 意外な自分を生きようとした。 ふだん頭でっかちになっている私だからこそ、 心のままに動く、醜さもさらけ出す、に あこがれやってみた。 でも、理性か? 感情か? 頭か? 心か? 強い自分か? 弱い自分か? 美しい自分か? 醜い自分か? そういう2択ではないというか、 そもそも、 迷っているほうの自分にも、 感情も、理性も、頭も、心も、 弱さも、強さも、醜さも、美しさも、あるわけだし、 それ全部ふくめて自分なのだし、 読者のTさんは言う。 <それらを見下ろす自分> 以前、とても複雑な状況に置かれた時、 私の中には少なくとも5人いると。 Aさんは、学生としての自分でした。 卒業と同時に資格試験を控えていたので、 毎日コツコツと勉強しようとする人でした。 Bさんは、仕事で実現したいこと、 社会にもたらしたいことなどを追求する人でした。 読書をして現在の社会の問題を突き止め、 社会に対してすべきこと、できることを考え、 長期的に私をそちらに向かわせるよう仕向ける人でした。 Cさんは、食べたいものを食べ、 眠いときに寝たいだけ寝て、好きな異性が居れば 追いかけてしまいたくなる、 今すぐ満たしたいものを満たそうとする人でした。 Dさんは、家族や友人や恋人といった人たちとのつながり、 生まれもったしがらみのようなものを 背負っている人でした。 Eさんは、人を深く理解したがる人でした。 どんな困った相手でも背景まで理解してみたいと 考えている、精神科医のような人でした。 私は「本当の自分」はBさんだと、最初は思っていました。 でも、せっかくだからA〜Eさんのそれぞれの主張が どう対立しているのか考えてみたんです。 Cさんは他の4名に迷惑をかけますが、 怠惰なCさんの存在を無いものとして扱ったら 自分も他者をも含めた人間の人間らしさを、 許容できない人間になってしまうかもしれない。 一見、いい人に見えるBさんやEさんも、 毎日を生きなければならないAさん、Cさん、Dさんに 依存している。 結論としてこの5名の存在を認めつつ、 5名を上から見下ろしている統合者こそが 自分だと思ったとき とても腑に落ちた気がしました。 (読者Tさんからのメール) 私自身も、 「頭か? 心か? どっちが本当の自分か」 という選択よりも、キャラクターにたとえたほうが しっくりする。 自分とは、たった1つの人格ではなく、 多様なキャラクターが集まった 「組織」のようなもの。 たとえて言えば、 「山田ズーニー株式会社」だ。 何かを決めるとき、 会社でいう「会議」をする。 それぞれの主張がくいちがって、もめる。 会社に「リーダー」がいるように、 くいちがう社員たちを見下ろし、言い分を聞き、 統合していく、ボスキャラがいる。 とにかく、このボスキャラに、 ものわかりよくなってもらって、 組織をいい感じにもっていってもらわないことには、 状況はかわらんぞ、と、あるとき思うようになった。 編集者のKさんは言う。 <皮を膨らまして生きていく> ボスキャラの存在、よく分かるなー。 私が「本当の自分」について、 今より切実に悩んでいたころ、 自分というものについて抱いていたイメージは、 タマネギでした。 これは皮だなと思って剥いていくと、 中に種も芯もなくて終わっちゃう。 皮だと思っているものを、 できるだけ膨らまして生きてくしかないんだなと 思ったのは、なんだか明るい達観でした。 (編集者Kさんからのメール) 明るい達観というのに、強く共感だ。 私も、このメールで言う「皮」、 とにかく、自分の時間というか、面積というか、 一番大きい部分を占め、 日ごろ意識している自分、 私でいうところのボスキャラを、 自分であると認め、引き受け、 そこを、より豊かにしたり、鍛えたり、 魅力あるものにしたりして、膨らませていかないと、 結局、現実は変わっていかないなあと。 組織にいい社員が1人2人いても、 最終的にリーダーが変わらないと、変わらない。 ボスキャラが、ものわかりよく話せる者であるか、 独善的で、社員たちの言い分をほとんど聞かないかは、 人によって、違うと思う。 ワタシが、自分のボスキャラを信頼しているのは、 12年前、会社を辞めるとき、 「勇気」を出してくれたからだ。 もともと、ものすごいチキンだったボスキャラには、 とうていそんな勇気がでないだろうと、 社員全員が思っていた。 ボスキャラ自身そうだったと思う。 しかし、「勇気」を出してくれた。 あれが、タマネギの皮がちょっと膨らんだ瞬間だった。 あの時以来、いろいろあっても、 山田ズーニー株式会社の社員たちは、 けっこうボスキャラを認め、いろいろ話せるようになった。 逆に言えば、あのとき、 会社を辞めたくとも、おじけづいて、 ボスキャラが却下していたら、 山田ズーニー株式会社の社内の雰囲気は いま、ものすごくまずいものになっていたと思う。 あれこれ高望みをしても、自分のボスキャラは もともとたいした器ではない。 でも、ひとつだけ、「勇気」だけ、 ちょっとづつでも、日々、膨らましていってほしいと 私は考える。 |
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2011-07-06-WED
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