YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson548
    本当の「ワタシ」ー3.私が私であるために



今回、このシリーズへの投稿を読んで、
いちばん衝撃だったのは、

「時折顔をのぞかせる意外な自分、
 そっちこそが本当の自分だ。」

と言う人が、かなりの数いたことだ。
すなわち、

「酩酊して死にたいと泣いているズーニーさんこそ、
 本当のズーニーさんだ。」

という考えだ。
そういう人に共通しているのは、

「ふだんの自分は、本当の自分ではない。」

「ふだんの自分は、まわりの顔色をうかがって
 イイ子を演じている。」

「イイ子というのは、人間味がない。」

「イイ子の陰で、日ごろ抑圧されている
 弱く・ヨクナイ子の自分、
 それこそが本当の自分だ。」

「抑圧されている弱く・ヨクナイ子の自分が
 顔を出す瞬間こそ、本当の自分になれるときだ。」

こう言いたくなる気持ちわかる、
でも、あやういなあと思う。

「いまここにいる自分は、かりそめの自分だ。」

と思うこと、それは、
いいことなんだろうか?

反射的に思い出すことがある。

私は、中学のころ、
ひどいことを言って、
クラスの女の子を泣かせたことがある。

ひごろ、女の子たち、みんな、相手の顔色をうかがって、
相手にいいことしか言わない。
自分もそうだった。

でも、どんなに好きなクラスメイトでも、
かならず、イヤな部分はある。

相手にイヤなことは言わずにおいて、
いいことだけを言っている自分は、
善良を演じている偽善者なんだろうか?

そういう自分がいやでいやでたまらなくなり、

あるとき、
本人の前で、イヤなことをズバッと言ったのだ。

その女の子は、字が下手なので、
字が下手だと言った。

女の子は一瞬、凍りつき、
信じられないという顔で私を見た。
私は念押しした。

たちまち女の子は泣き出した。

私は、抑圧された自分を解放して
気持ちよかったか? 本当の自分になれたか?

ぜんぜんそうじゃなかった。

ちっとも気持ちよくないし、
そこで繰り広げられる結果は、ちっとも嬉しくない。
そんなの、ぜんぜん、まったく、
「本当の自分」でもなんでもなかった。

いまだからこそわかる。

「自分は好き好んでイイ子をやっていたのだ。」

人の悲しむ顔をみるのはイヤだし、
歓ぶ顔を見たいのは本性だし、
お勉強は、できないよりできたほうが、
なにより自分がやってて気持ちいいし、
陰口を言わないのはそのほうがおもしろそーだからだ。

イイ子は人間味がないと多くの人が言う。
でも、だからといって
抑圧されたワルを解放すれば人間味か? というと、
実際は、言うそばからすさんで、非人間的な臭いさえした。

「本当の自分」といったら、

なんと言っても、40歳を目前に、
生まれてはじめての本の最後の最後の言葉、
これが書けたときだ。

「あなたには書く力がある。」

7ヶ月にわたり、考えては書き、考えては書き、
その間、自分と向き合い、自分に問い、
孤独と、才能の無さにへこみ、
気が遠くなるほど、考え続けた果てに、

自分と言葉がぴたっ!と一致した瞬間。

何十分も涙がとまらず、
無限の勇気がわいてきた、
あの瞬間にまさるものはない。

「本当の自分を解放するには、考える力が要る。」

酔って死にたいと泣いたのも確かに自分だし、
友人にわざと悪態をついた、それも自分だ。
逃げも隠れもせず認めるし、引き受けるけれど、
そっちこそ「本当の自分」だとは、
どうにも、しっくり腑に落ちないのだ。

「自分の本当の想い」と、「自分の意外な側面」、

とてもとりちがえやすい。
そして、とりちがえたとき、とてもあやうい。

「意外な自分こそ本当の自分」と想い、
その自分を、たとえばネットに匿名で書き込みをするなどで
解放するとする。

でもそれは、
現実の経験の中でたたかれ鍛えられしていないキャラだ。
もろくて、否定されやすい。

そこで否定されれば、「自分の部分」に過ぎないのに、
「本当の自分」を否定されたと錯覚し、
逃げ場がなくなる。

逆に、意外な自分を解放して、
ネットの中で好評をはくしたとしても、
それはそれで、現実の世界や、まわりにいる人たちを、
「本当の自分がわからない者たち」として
軽視することにもつながりかねない。

自分が自分であるために、

私は3つのことを思う。それは、

「ふだんから自己表現をしていこう!」
「意外な自分が出てきても過剰反応せず許容。」
「意外な自分はたまに散歩させるくらいが丁度いい。」

まずは、ふだんから、
小さく・かわいく・きっちりと
「自己表現」していくのが基本。

自分らしい想いを、外にあらわせないと、
しかも、それがたまっていくと、
自分が自分である意識が希薄になってあたりまえだ。

かといって、自己表現をならってこなかった私たち、
いきなり溜め込んできた大きな想いを人前で表現しろって
言われても、それはムリだ。

だからこそ、日々、小さく・かわいく・きっちりと
自己表現。

ささいなことからでいい。
自分の想いを言葉にして、まわりのだれかに伝えていこう。
大きな勇気はでなくてもいい。
小さい勇気を出して、より実感に近い生の声を、
生身の人に伝えつづけていこう。

そうして自分と自分が通じる習慣がある、
という前提で、

そのうえで、自分の「意外な側面」が出てきても、
過剰反応は禁物だ。

「もともと人間は、そんなにきれいにひとつの人格で
 わりきれるものではない」
と思っていれば足元からすくわれることもない。

たとえて言えば、自分とは、
矛盾したさまざまな考えの社員が集まる
「ワタシ株式会社」だ。

社員同士の食い違う言い分をよく聞いて、話し合って、
より納得感に近い結論を選択していけばいいと思う。

人間はもともと矛盾を孕んだ生き物、
そう考えると、どんなに考えて、
自分で納得して、結論を出したとしても、
必ず、自分の中に異分子はいるということだ。

たとえ「ワタシ株式会社」の社員、100名のうち、
99名が納得して、自分で好き好んで
「優等生」を生きている人だとしても、
必ず、それをよく思わない1名、
「優等生なんかいやだ、窮屈だ、苦しい」と
おもっている異分子がいる。

99名が納得していても、
いや、99名の圧倒的多数の結論だからこそよけい、
この1名は、なかなか出番がない。
日の目を見ず、地下に閉じ込められ、ストレスがたまる。

酒を飲んで酩酊したときに、この1名がヒョイ!
と顔を出すのは、いわば自然のこと。
そうでもしないと、この社員1名は
「ヤッテランナイ」のだ。

こういう抑圧はもともとみんなにあると思う。

ひごろ99%のワルは、
「たまにはいいことをしたい」という
自分のなかの善良な社員1名を抑圧し続けている。

ひごろまわりからバランスがとれていると
思われている人は、
それはそれで、自分の中では少数派の
「こんなどっちつかずの自分はいやだー。
 どっちかにふりきれてみたいー。」という社員を
抑圧し続ける。

抑圧は、嬉しくはないけど、悪いものではない。
何を選んで、どう生きたとしても、
大なり小なり、かならず、
なにがしかの抑圧はつきまとうと、
覚悟しておいたほうが自然かもしれない。

そうして、ときどき、
日ごろ地下に潜って日の目を見ない社員を、
お散歩に連れて行って、空気を吸わせてあげるといい。

いまの時代、はやらないけど、
酔って、酩酊して、身内にくだをまいて、解放するとか。
そうして助けてもらった人が、
こんどは別の人のお散歩にとことんつきあってあげるとか。
映画や小説のワルキャラに感情移入して解放するとか。
音楽の力を借りて、抑圧を解放するとか。

「いまここにいる、言いたいことも言えない自分、
 これこそが本当の自分だ」と認めることから、
自分らしい表現への一歩、解放への一歩が始まる!

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2011-07-13-WED
YAMADA
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