YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson558
  読者メール紹介 ー 何で栄養を採っているか?



「知」も、おなかがすくとしたら、
あなたは何で栄養を採っているか?

きょうは、
先々週にさかのぼって、
Lesson556
「私は、生のもので栄養を採ってきた」への
「読者メール」を紹介したい。

面白い、いいお便りだなあ!

正解はないけど、
さまざまな読者のあり方に触れて、
あなた自身の情報ソース・知の出所を、
ふりかえるいい機会となれたら、嬉しい。

今回は、あえて私のコメントを添えず、
それこそ、「なまのまま」で届けたい。
一人ひとりの読者にふれ、あなた自身の中に、
わきあがってくるものを大切にしてほしい。

それでは、読者メール、一気に行きまーす!!!


<満足のいくデザインができるとき>

先々週の「私は、生のもので栄養を採ってきた」
を読み、考えさせられました。

僕はグラフィックデザイナーを生業としているのですが
そんな自分は何から栄養を取っているのだろう。
そう考えると、やはり加工品と言わざるを得ません。

しかも、切実に加工品をむさぼっています。

なぜならクライアントからの短い納期、
少ない予算の要求の中で、
ベストなものを作ろうと考えれば、
加工品から栄養を取り、素早く何かを生み出していく以外、
現実的には難しいからです。

ただそのなかにあっても、生ものから栄養を取り、
誰にも真似のできないデザインができるデザイナーは
希有な存在であり、
才能あるデザイナーという事になります。

僕は才能あふれるデザイナー、
というわけではありません。
中の上あたりに位置する、田舎のしがない広告屋です。

そんな僕もときおりですが、
満足のいくデザインができるときがあります。
そんな時は仕事が楽しくて楽しくて仕方がなくなります。

振り返ってみれば、そういった仕事ができるときというのは
無意識にこれまで蓄積された生ものからの栄養で
何かを生み出せたときなのかもしれません。

逆に加工品ばかりを基に仕事をしていると
これはかなり疲れます。
疲弊し、やる気はどんどん無くなります。
なにしろ誰かの二番煎じなんですから。
精神的な疲労度はかなり違います。

今の時代、食の世界でもそうですが、
すべての食べ物を「天然の生もの」から取る事は
難しそうです。
何しろ時代の要求はあまりにスピーディー。
消化の良い加工品なしでは、
現代では生きていけそうにありません。

現実的には身体に悪いと知りつつ加工品を取りながら、
ここぞというときには生ものからも栄養を取る、
そんなやり方で、タフに生きていくしかないな!と
個人的には思いました。
(竜)


<性急に答えを飲み込もうとすれば毒になる>

先々週の「私は、生のもので栄養を採ってきた」は、
私にとってうんうん!と共感できると同時に、
アイタタ‥‥な内容でした。
ざわざわとうごめくものを感じたので、
初めてメールいたしました。

何から栄養を採っているか?

今まで考えたこともない問いでした。
そして考えてみると、
わりと「生」のもので採っているのではないか、
という答えに至りました。
でも、同時に思いました。

その「生」のものを勝手に「加工品」にしてしまっている
かもしれない、と。

今回は、ライブや経験ではなく、
「生と感じる言葉や文章」を例にとって書きます。

私は糸井重里さんや、内田樹さん、
養老孟司さん、宮崎駿さんやズーニーさんの
文章や本が好きで、よく読みます。
彼らの言葉は、読む側の知性を活性化させるような
良い文章を書いている、と感じます。
こちらにいいボールを投げかけてくれる存在というか。

私はそのボールを受け取り、色々感じたり、
考えたりします。
そうすると、そのボールを受け取る前と後では、
「見える世界」が違う。
いつもの慣れた道を歩いても、見慣れたニュースを見ても、
注目する所が変わったり、
スルーしていたものに急に目がとまったり。
良い書き手だなー、と思うのは、
そういう『自分の世界を見る「目」』の変化を
感じるときです。

でも、ときどき、そういう書き手の「生」の言葉を、
自分自身が「加工品」にしてしまうときがあります。
いや、加工品どころか、
加工もせずに新鮮な「生」を腐らせてしまう、
と言ったほうが近いかもしれません。

私が「腐らせてしまう」とき、それは
いいボール=問いを投げてくれるにも関わらず、
そのボールを「答え」にしてしまうときです。

「この考えならうまくいく」とか、
「この考えなら批判されない」とか、
「この言葉を使えば人からこう見られる」とか、
受け取ったボールを勝手に
「魔法のボール」として見てしまう。

本来ならば、そこから何かを感じ、もう一度考えたり、
言葉を反芻したりして、
少しずつ消化していくことが良いのだと思います。
「感じさせる何か」を、
いいボールはせっかく持っているのですから。
そしてそれが書き手の願いでもある‥‥かもしれません。

でも自分の心がとても弱っているとき‥‥
例えば誰かに自分の頭で考えたことを否定・批判されたり、
物事がうまくいかなかったとき、
私はつい「腐らせて」しまいます。

その言葉(考え)良いなぁ、と共鳴した瞬間に、
「感じさせる何か」に目をつむり、
いいボール(=問い)に添えられた
「私はこう考えたよ」という筆者の考えだけを貪り、
それを「自分の考え」にすりかえ、
自分を守るための「鎧」にする。
心が弱り、頭で考えることに対し臆病になっている自分は、
自分の考えをまた否定されるのが怖くて、
武装の道具にしてしまうのです。

虎の威を借る狐。

「生」でも「加工品」でも、表現されたものには
何らかの「毒」があると思います。
どういう形であれ、受け手側の
「世界を見る目」を良くも悪くも
変える力があると思うからです。
そしてそれは、意識しようがしまいが、
一生自分の中に残っていく。

うろ覚えなのですが、
ある食中毒事件で、ほとんど噛まずに食べた人は
残念ながら食中毒になってしまったのですが、
よく噛んで食べた人は大丈夫だった、
という話を聞いたことがあります。

これは、食べものに限らず、
「言葉」「考え」「表現」でも同じだな、と思いました。

新鮮でぴちぴちなボールを受け取る。
それを自分というフィルターに一度も通さないで
受け入れる、
ということは「丸呑み」に近い行為です。

いったんよく噛んで、消化すれば納得のいく形で
自分の言葉と他者の言葉が共存できる。

よ〜く噛んだ上で、「誰かの考え」が「自分の考え」と、
(完全ではないけれども)同じだったら、
それはそれで良い。
「致命的に悪い」毒にはなりにくい。

でもよく噛まずに丸呑みすると、
自分の中でだんだんそれが腐敗してくる。
そのものが持つ「毒」が致命的なものに変化し、
じわじわと、かつダイレクトに心をやられてしまう‥‥。

それは「違和感」という居心地の悪い状態や、
「思考停止」をもたらしてしまう。

私は時々、本もコラムも何も読みたくないーっ!
となるときがあります。

そういうときは大体、2つの状態、
そのどちらかになっているときです。

1つは色んな人の言葉や考えを食べ過ぎて、
「食中毒」を起こしているとき。

2つめは、自分の頭で考えて
何かをやりたいと思うときです。
私は恥ずかしながらとても影響されやすい人間なので、
なるべく新たな「毒」を避けようと思うからです。

新鮮ぴちぴちのボールも、
自分の状況、受け取り方、扱い方次第で
全く違うものに変化する。

「何から栄養を採っているか?」の問いを考えるうちに、
そう思った私は、
「うっかり腐らせてしまい、
 時々解毒期間を持たざるを得ないなんて、
 まだまだ扱い方が下手くそだぁ‥‥」
と自覚し、現在進行形でへこんでいます。

生きていくうえでは、
様々な人の考えや言葉、表現に触れ、
いろいろな経験をします。
その中で、いかに新鮮ぴちぴちなボールを受け取り、
また腐らせずに生かすのか。
そして、どんなものでも持つ「毒」と、
どう上手くつきあっていくか。

私は、もう自己保身のために、
誰かの考えを自分の考えにすりかえたくありません。
だからたぶん、ずっとこれらのことについて考え、
悩んでいくのだと思います。

もしかしたら、
そういう「うーむ」と考え悩んでいく姿勢そのものが、
「腐らせず」「致命的な毒にせず」の答え‥‥
なのかもしれません。
(asa-kichi)


<私は論文をゴリゴリ噛んでいる>

私は大学院生で、渡り鳥の研究をしています。
ゼミでは、自分がやっている研究テーマの世界での現状を、
参加者のみんなにリポートする予定です。

関連研究の中で重要なものを確実に選び、
読み、理解し、自分のことばにし、
設定したテーマに沿った文脈の中で
分かりやすく並べて示さねばなりません。

情報源である論文は英語なので、
英語を読みながら頭の中でイメージ図として理解した後、
日本語に直してアウトプットするときには、
どうしても自分のことばにする必要があります。

知識にも理解力にも自信がないから、
最初は怖くて怖くてしかたがなかったのですが、
最近たのしいと思えるようになってきました。

自分の気持ちや想いを表現する楽しさは、
ズーニーさんの本やコラムに出会って
ずいぶん助けられながら味わってきたんですが、
研究に関する自分の理解や疑問点を、
自分のことばで表現することの楽しさも、
先輩研究者の方々とのコミュニケーションのなかで
感じるようになってきました。

伝わったときの気持ちよさ、
ぴったりの答えをもらえたときのうれしさは、
本当にその日一日を明るく照らすくらいのものです。

論文は、見た目無機質でとても
今回のコラムのようなみずみずしい「生もの」には
見えないんですが、

理解の過程は
ごりごりむしゃむしゃと、素材の味を体感しながら
自分で能動的に味わい吸収していくしかなくて、
まさに生野菜をかじる感じかなと思いました。

でもそうして自分なりに吸収したものだからこそ、
それを人前にさらすときの「通じるかな?」という
実験的なわくわく感、通じたときの心からのうれしさを、
また味わうことができるのかなと思いました。
(Shoko)


<自らつかみとった知は応用がきく>

本などで得られる知識、ここでいう「加工品」は、
即効性があるものの、その状況にしか通用せず、
薄っぺらい。
一方、知恵は、自分の人生から培ったもので、
得るのに時間はかかるけど、あらゆる物事に応用できる。
(double-finger)


<現実をパンフレットのように見る>

「生のもの」と「加工品」の例えで
自分がもやもやっとしていたものの少し霧が晴れました。

人の話を聞いたときにそんな話を聞きたいんじゃないって
いらいらすることが時々あります。
逆に何これ面白いもっと聞きたいって感じるときも
思います。

その一つの理由として、
その人が経験を生ものとして受け取っているか
加工品として扱っているかということです。

旅行に一ついったことでも、
それを加工品で話す人は〇〇に行って、△△を食べて、
××で写真をとって、綺麗だった、
面白かったと言う人です。
それは、旅行のパンフレットに書いてあることや
レビューを見れば分かる事の方が多い。

自分なりの言葉で話すのではなく
誰でも言えそうなテンプレートで話している。

一方で、生のものを話す人は生き生きしている。
〇〇に行ったけど、実はこんな見方があって、
私はココに感動したっていう綺麗に着飾った話ではなく、
時系列もばらばらで言葉もぐちゃぐちゃだけど、
その体験をダイナミックに伝える人。

生のものが与えてくれるインプレッションは大きくて強い。
加工品が見せてくれる表情は均一的で味気ない。
それは、言葉の表し方にも
同じことが言えるなって気づきました。
(水波)


<言葉の仕入れもとはいろいろあっていい>

今回の問いも刺激的です。

私は言葉を仕入れるものとして、
生ものか加工品かを問わず、
とにかく本を読む、ということを
したほうがいいんじゃないか、と思っています。

私はここ数年、読書量が増えたのですが、
ドキュメンタリーに類するものは
全く読んでいないんですけれども
言葉で表現できる自分の経験だったり感覚だったりが
増えている、つまり、生ものに対する感度があがった
と感じています。

これは、私の中にある言葉の数が増えたからだと
思っています。

それまでも、
いろいろなことを見たり聞いたりしていましたけれども、
よかったな
なんか印象的だったな
ちょっと嫌な感じがしたな
ということ以外、言葉にならず、
それ以上を深めることができませんでした。

それが本を読むようになってから、
印象的だったり違和感だったりの元がどこにあるのか、
考えることができるようになって、
前よりも自分の感覚が理解できるようになってきました。

言葉を手に入れてから、
自分の考えが深められていなかったことに
ようやく気づけた、と思います。

ズーニーさんは言葉を仕入れる段階が終わっていて、
おそらく仕事でたくさん仕入れることができていて、
だから今更あえて
加工品に手を出さなくても
いいんじゃないかなと思いました。

私は言葉を扱う仕事ではないので、
言葉を仕入れるには本を使うのが一番豊富なんです。

私の中に言葉がたまっていって、
それと自分の経験だったり観察だったりを
つきあわせていって
見たこと聞いたことを言葉にしていって、

ということを繰り返して
ようやく、これまで仕入れたもののどれが生か加工品か
わかってくるように思います。

私の目指すところは自分を表現することなのですが、
いきなりオリジナルで表現するというのは
ハードルが高いです。
まず、何を表現したいのか、それを見つけたくて、
そのときには、オリジナルの言葉ではなく、
借り物でもいいので、それらしい言葉を使って、
何かを捕まえてみる、
0が1になるきっかけとして使う、というイメージです。

ちょっとした片鱗を捕まえたら、
それを少しずつたどっていくことで
考えが深まっていって、
自分の言葉が少しずつたまっていって、
ようやく、自分の言葉で自分を表現できるんじゃないかな、
と思いました。

あと、言葉の場合、
同じ言葉でも発する人によって経験との距離感が違うので、
あ、逆でしょうか、
同じ経験をしていても、使う言葉によって
切り取る面が違うので、
言葉から想像する経験というのは人それぞれで、
それを相手の中にみることもできれば、
自分との対話にも使える、
そう思うと、加工品の言葉であっても
生ものになる可能性がありそうな気がします。

言葉と経験をリンクする回路がちゃんとあれば、
言葉を仕入れるもとはいろいろあっていいんじゃないかな〜
と思いました。
(のり)


<春から仕事を始めたところです>

私にとって「生もの」とは、実体験です。

本は好き、というか、相手要らずの一人遊び。
だから、読んでいる間限定の異空間で、
つもりになって遊んでいるだけ。

世間話やお付き合い、仕事などには、
結構気遣いがあるけれど、自分の世界は楽だから。

テキストを読んで勉強もしてみました。
これはこれで面白い。
薄ぼんやり感じていたことに、学者はうまく名前をつける。
名前がつくことによってはっきりする。
でも、それだけ。

うまくやろうとしても、仕事はそうはいかない。
なぜなら人がいるから。
人とのかかわりの中で何かを進める経験、
これこそがどんなお勉強にも太刀打ちできない「生もの」

名前をつけて本になっている間に、
もう現実は動いている。

糸井さんのコラムにも同感です。
「学校」や、免状を持った「専門家」よりも、
地道な毎日の積み重ねこそ、
何にも変えられない「専門」だと思います。

生の経験ほど、教わることはありません。
資格マニアのように、色々チャレンジしました。
でも、実際に生かさなければと思い、
時間何ぼの仕事ですが、春から仕事を始めたところです。

生の経験は、大変さ含めて、面白い。
言い換えれば、学びが深い。
忘れない。
必死さも違うのかな。
(やってみなくちゃわからない)


<自分の言葉が紡げる人間に>

何から栄養をとっている?
と、聞かれて、わたしの頭に浮かんだのは「生徒」だ。

私は中学校で国語の教師をしている。
もうかれこれ四半世紀が来ようとしている。

初めの頃は悩んだ迷った。
こんな自分が教師なんか続けるべきではない。
生徒がかわいそうだ。

勉強に自信があるわけでない。
国語は、言葉は、ただ、好きだった。
好きだからと言って仕事にできるものではない。

国語よりもっと悩んだのは、生活指導だ。
なんで私が指導なんてできようか。
虚勢は張るものの、借り物の自分をいつも感じていた。
思っていないこと本音ではわかっていないことを
口にするのは嫌だった。

嫁にいくチャンスがあったらとっくにこの仕事は
やめていたかもしれない。
教える方も教えられる方も不幸だ。

だけど今、この仕事をしていて
幸せだなあと思うようになった。

教えながら、いつも教えられているのは自分の方だ
と思うようになった。

国語の授業が好きだ。
生徒が書く文章や短歌、俳句を読むのが楽しい。
私よりよっぽどうまいといつも思う。

生徒は書くべき題材があれば、どんな子でも、
あっと思うようなものを書く。

部活動を引退するときの最後の試合。
初めての受験。卒業前。中学三年生は一度しかない。
そのときにしか感じられないことを
言葉にとどめて残しておいてほしい。

ここ三年間続けて三年生を受け持った。
同じ教科書で、同じようなことを教えてはいるけれど
楽しい。

今「挨拶ー原爆の写真に寄せて」という
石垣りんさんの詩を教えている。

去年も一昨年も教えたけれど、
今年は去年までとは気分が違う。

原爆が遠い過去のことではない。
核の危険性は現実のものとして感じられる。
今年はフクシマを抜きにして語れない。

生徒にどれだけのことを伝えられているか
わからないけれど、
自分の頭で考え、自分の言葉できちんと語って
いかなければと思う。そして、生徒にもそうしてほしい。
自分の言葉で語れるようになってほしい。

三年ほど前、地元の作家、あさのあつこさんの
講演会があって聞きに行った。
最後に質問コーナーがあったから
「座右の銘は何ですか?」と聞いた。
あさのさんは、首をかしげながら答えた。

「最近、編集者の人にも聞かれたんだけど、
 ないんですよね。口はばったい言い方ですけれど、
 言葉を生業にしている以上、
 人の言葉には頼らないようにしているんです。
 でも、まあ、しいて言えば、生きててなんぼじゃ、
 かな。」

かっこいい!と思った。

私の言葉はちゃんと私の頭で考えて
言葉を紡いでいるだろうか。

誰かが言ったことを鵜呑みにしたり
加工したりしていないだろうか。
消化して、こなれて、自分の栄養になって
芯からそう思える様にならない限りは
言葉にするべきではないんだろうな。
あ、この言い方も断定していないな。

借り物でない、なるべく加工していない、
自分の言葉が紡げる人間(生徒)を育てる手伝いをしたい。

そのためには自分がそうあらねばならない。
ああああああああ。大変。でも、楽しい。

私は自分の使命、やりたいことがはっきりしてきたから
楽しいと思える。
できないこと苦手なことはあるけれど、
言葉に関しては深く追求していきたい。
いつも生徒から栄養をもらいながらそう感じている。
(マチコ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-10-05-WED
YAMADA
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